やしお

ふつうの会社員の日記です。

「安定した政権は全て良い政権である」という感覚

 「安倍首相をどうして支持するのか」という実感を綴った記事が非常に面白かった。
  安倍総理は何故ここまで叩かれるんだろう - えすけーぷ37のブログ


 支持者の内在的なロジックは非支持者からは極めて見えにくい。それが一定程度可視化された点で貴重であり興味深い。記事のおよその論旨は以下の通りだった。

  • 長期政権は、政策が評価されたことの結果である。
  • 外交・内政(経済)ともに一定の成果はあった。
  • 各種疑惑(森友・加計・桜)は首相主導ではなく外在的なもの。
  • 疑惑を野党が追求するのは、他に政権を叩く材料がないため。
  • 仮に不正があっても些末なことで問題ではない。国益に叶う仕事をする者が良い政治家である。


 ここには大きな特徴が二つある。
 一つが「具体的なデータや論拠は提示されない」という点。一切が印象に基づいて構築される。「あくまでも一般人の肌感覚的評価です。」という一文は、そうした姿勢の自己言及として象徴的だ。
 「データや事実に基づく」は究極的には程度問題である。論の体系を構築するにあたって、その(無謬性ではなく)体系全体の妥当性をどれだけ高められるかはその程度にかかっているが、そうであっても「どの前提を採用するか」において恣意性が究極的には残存するという意味で、「印象論」であることを免れない。論の妥当性はその程度にかかっているが、ここではその水準が一貫して低いという特徴がある。
 少し事実関係を調べてみる、反対者の立論を検討してみる、といった確認によって論の妥当性を高める姿勢そのものが共有されていない。これを、言論公表者として不誠実であると論難することは容易いが、むしろこの「不誠実さ」こそ多数に共有されている可能性を見つめる方が有意義だ。


 彼らは「詳しく調べてこの結論に至った」という自己意識を持つ。しかしそれは筋としては通っているが、文脈や経緯、種々の条件を捨象することで成り立つ、単純化・矮小化された筋に過ぎない。その点をどれほど丁寧に指摘されたとしても彼らは相手を「愚か」と嘲笑して受け付けない。
 彼らは「データや事実に基づかない」というより、データや事実より印象や感情を優先する思考様式の中にある。印象や感情、直感に反したとしても、より客観性と妥当性の高い論が導いた結論であれば受け入れるという姿勢は、一種の訓練によって身につけ得るものであり、その意味で印象を優先する様式の方が多数派であったとしてもそれ自体は自然である。
 これは右派と左派、政権支持派と不支持派とは無関係で、結論が異なるだけでこの姿勢を持つ層はどちらにも一定数存在する。また知的水準の程度とも必ずしも一致せず、知的水準が高くてもこの「実感に反する帰結を受け入れない」人はいる。


 そして事実より印象を優先する価値判断を持つ人は、他者もそうした判断を下すはずだと考える。


 もう一つが「政権が安定している事実が全てを正当化する」という点。長期政権は政策が評価された証である、従って政策は正しい。そのロジックに基づけば、長期政権下では全ての政策が正当化されることになる。これは安倍首相が「選挙によって信任を得ている」ことを理由に、選挙で争点化しなかった政策までも正当化するロジックと、一部によって全部を肯定する点で似ている。
 このロジックを基盤に据える時、「政策は正しい」が既に固定されているため野党による追求は「難癖をつけている」という評価に帰結するほかない。不正疑惑が目に入ったとしても、「政権の正しさ」が所与の条件である以上、それは政権外部の問題、もしくは政権を貶めるための虚偽と見なされる。「国益に叶う仕事をしているから良い政治家である」と語られる。ここで「国益とは何か」が具体的に問われることのないまま「国益に叶う」と断定されるのは一見不可解だが、「政権の安定は、政策の正しさの証拠」という仮定を是とするなら、「国益」の具体的な中身を問うことなしに「国益に叶っている」と断定することが可能になる。
 先の記事中で「これだけ叩かれ続けても跳ね返してきた安倍総理は胆力あると思います。」と書かれるが、ここには「存続したから良い政権」という前提がある。


 一つ目の「具体的なデータや論拠が提示されない」特徴は、論の妥当性の検証を放棄することを意味し、さらに二つ目の「政権の長期化が一切を正当化する」ロジックの採用によって、論の内的な無謬性が構築される。外部からそれがどれだけ不可解に見えたとしても、それは内在的なロジックとして確かに成立する。


 ここには一種の妥当性もしくはリアリティが作動している。「政権が安定していることは、政策が正しいことを意味する」という仮定は、「システムが完全であり正常動作している」という無垢な信頼によって採用が可能になる。システムを詳細に観察し検証するコストをかける余裕がない、あるいは能力が及ばない場合に、一旦「正しいのだろう」と信じる振る舞いは一般的なものである。現実に人は全てを把握することができない以上、分業によって他者と専門性を分担し、他の専門家の結果をさしあたり「正しい」と信じることで膨大なコストを現実的に落とし込んで暮らしている。特に人は、構築された過程を知っているシステムに対しては「それは絶対的なものではない」と見なすが、物心ついた時に既に存在するシステムに対しては「そうあることが当然である」と、あたかも所与の条件であるかのように見なしがちになる。政治システム・国家体制も、そうした省力化と絶対視の中で、曖昧に正当化される。ここに「もし政策が誤っていればシステムによって正しく排除されるはずである。システムに排除されないのだから、政策は正しい」というロジックが成立する余地がある。


 さらにそのリアリティを補強する現実がある。小泉内閣の後2006~11年にかけて6代に渡り、およそ1年毎に首相が交代した。長期的な内政・外交課題に取り組めていないという印象が与えられた。特に07年および10年の参院選の結果、前者は自民党政権、後者は民主党政権下で「ねじれ国会」が生じ、より政治的な停滞感が強まった。法案は衆議院で可決、参議院で否決された場合、衆議院で3分の2以上で再可決すれば法律となる(衆議院の優先・憲法59条)が、とりわけ10年の参院選後は与党民主党国民新党衆議院議席を3分の2以上確保していなかったため、重要法案がスムーズに可決されない状況に陥った。
 政局が不安定で長期的課題に対応できない政府というイメージが6年間継続した現実が、「安定した政権は良い政権である」という観念を補強する。もちろん「政権の安定は長期的課題解決にとって有利である」ことは、「従って政府/首相が良い政策を実行する」ことを何ら保証しないのは言うまでもないが、先に述べた「システムの正常動作を疑わない」姿勢がこの二つの橋渡しに寄与することになる。


 第2次安倍政権以前の不安定な政局を覚えている人々にとってはかつての混乱への忌避感が働き、以前の6年を知らないあるいは忘れた人々にとっては「構築されたシステムを絶対視する」働きによって、「長期政権であるから肯定する」帰結が導かれる。
 このことは、安倍政権の不支持者から見た支持者の不可解さを一定程度説明する。安倍首相に政治家としての資質や規律に疑問符がつく具体的な事象がどれほど揃ったとしても、無理筋の擁護を繰り返す。与野党交代を伴わずとも自民党内にも他に首相適任者はいるはずだという政権交代の可能性も肯定しない。こうした絶対的安倍首相支持は、政局を安定させた政治家は良い政治家である、それを実現した安倍首相は良い政治家である、良い政治家であるから不正があるはずがない/あっても些末なことである/与党内の適任者は考えられない、というロジックによって導出される。
 これは「安倍晋三」という政治家個人を実証的に肯定しているというより、「安倍首相」という制度として見て肯定していると理解すべきだ。安定政権を実現する体制やシステムとして安倍首相を肯定しているため、そもそも政治家個人としての資質・能力・規律などは問題視されないし、安倍首相を否定・排除することはシステムの解体として映るため認められない。


 彼らにとって野党は、この安定的なシステムを破壊しようとする集団に見えることになる。野党に対する敵愾心を顕にし、個別具体的なケースを見ることなしに、野党による批判の一切は言い掛かりであると断定する姿勢はここから来る。「野党の追求は、店員にクレームをつける客に見えて、嫌悪感を抱かれている」という指摘をツイッターで先日見かけたが、これはシステムの破壊者集団として見えていることと一致する。現行システムを絶対視しない立場からは、政権・政策批判は野党の当然の仕事であって、そうしたチェック・是正機能を果たさないならば野党の存在意義がないと考えられる。ここに大きなギャップが存在する。野党自身も当然そう考えて「仕事」をするが、そうすればするほど嫌悪感を抱かれてしまうジレンマがある。


 野党に対して攻撃的であるという点から、あたかも自民党支持者であるかのように錯覚される(その錯覚は当人ですら持っている場合がある)が、彼らはあくまで安倍首相の支持者であって、必ずしも自民党の支持者ではない。彼らは、かつての民主党政権を、現在の野党反対の立場に一貫性を持たせるために「悪夢」と罵倒しても、さらに以前の1年交代で不安定だった第1次安倍・福田・麻生政権を積極的に肯定しているわけでもない。
 安倍首相の支持者の多くを「自民党の支持者」や「強固な国粋主義者」と等価で見てしまうのは(一見そう見えてしまったり、当人の自意識においてもそうだったとしても)彼らの内在的ロジックを正確に把握する妨げになる。


 この絶対的安倍首相支持の構造は、安倍首相自身にも内面化されているのではないか。政権の維持だけを自己目的化したような振る舞いや、批判をあたかも攻撃であると見做して被害者意識を抱くのは、純粋にコントロールされた「方針」や「印象操作」というより、この機序が安倍首相自身に対しても働いているからではないかと想像している。


 「安定するから支持する」という論理は、それが支持率となってさらに安定化させる。安定化したことでさらに支持が強固になる、というサイクルを生む。不支持者は「あれほどの疑惑があって、どうしてなお支持率が一定して維持されるのか」と嘆息するが、存続している事実が存続させる意思を生むという一種のトートロジーにも似た循環があるだけだ。
 それと裏腹に「安定しないから支持しない」は逆のサイクルを生む。参院否決後に衆院3分の2以上で再可決のルールは、参院で否決された法案には国民の反対が一定程度あると見做して過半数から3分の2以上と高いハードルを再設定することで与野党での調整を促すことが期待されている。これは民主主義的な措置だが、政権がリーダーシップを発揮できていない、政治が停滞しているといった「印象」を生むことで支持を低下させる。 
 民主制と独裁制の意思決定にかかるコストには差がある。独裁制が孕む最良と最悪の振れ幅を、民主制は意思決定にかかる時間的・手続き的コストを犠牲にすることで穏当に制約する。この犠牲が耐え難くなると人は「最良の独裁制」への憧れを抱く。その憧れや夢は「政権を安定させ続けているこの政治家は最良だ」という願望を呼ぶ。願望は現実を見る目を眩ませ、鋳型に認識を押し込める。このようにして、現実にその政治家が良質かどうかとは無関係に、その政治家が良質であると思い込もうとする機序が働く。自民・民主両政権の6年間の不安定な政局が、この願望を後押しする。


 民主制のコストへの忌避感の一端は、世界史的な経済フェーズに起因する。資本主義は異なる二つの価値体系の差分を取り出すことで駆動するシステムであり、差異には空間的なものと時間的なものがある。前者の空間的な差異の利用は、例えばかつての高度経済成長が地方と都市の間の労働賃金の差を取り出すことで実現されたケースや、現在の賃金レートが相対的に低い東南アジア諸国の労働者を留学・技能実習・特定技能など諸制度で自国に囲い込もうとするケースが相当する。後者の時間的な差異は、生産性の向上や新製品開発により、それが均一化するまでの間に限り未来の価値体系を先取りすることで価値を取り出す行為にあたる。後者は産業資本主義の基本的原理であり、世界史上において現代が大幅・高速な科学技術革新を達成させたのはこの原理による。
 空間的には地域間での賃金のレート差は縮小し、時間的にも大幅な科学技術革新の余地が見出しにくく、価値体系は均一化が進む。取り分の小さくなっていく中で、現実的には国家を超える集権的な組織は存在しない(暴力装置、内的には警察・外的には軍の独占が国家の構成要件だが、それを上部組織、例えば全ての国が国連に譲渡するような状況は現時点では存在しない)ことから、国家間での余裕のない争奪戦が継続される。


 こうした状況下で政治的な停滞や長期的な課題の対処がままならない姿を目にすると、自国が「割を食う」あるいは「一人負けに陥る」ように映る。強力な政治的リーダーシップと政治的安定を国民が求める。これはかつて東南アジアなど、例えばシンガポールのリー政権やフィリピンのマルコス政権などのような経済発展を目的に独裁を正当化した、開発独裁体制の思考に近い。資本主義が極まってより苦しくなる中で、先進諸国もまた開発独裁の誘惑に抗いがたい状況にいる。
 自民党が2017年に党則を変更し、総裁任期を連続2期6年から3期9年に延長させたことで、安倍首相は18年9月の満了が21年9月までの在任となった。安倍首相自身は「憲法改正のため」と語ったとしても、このベースには党則変更による支持率への影響がないという目算があり、支持率への影響のなさは政治的安定性を求める層が一定して存在することに起因するのであれば、これは先進諸国での開発独裁への誘惑という文脈で捉えられる。


 安倍首相が長期政権を築き得たのは、政策が評価されたためというより、様々な経緯や条件が重なった結果である。
 竹下~細川政権での小選挙区制の導入がなければ党内の執行部への権力の集中は起こり得ず、橋本行革での官邸機能強化がなければ官邸内官僚(第二官僚)の形成は起こらず、また小泉政権がその執行部への権力集中と官邸機能の強化(諮問委員会制度等)を最大限活用し、自民党内の平成研(経世会)を徹底的に弱体化させ清和会の一強状態を築かなければ、あるいは12年の総裁選で石原伸晃が出馬を強行しなければ順当に谷垣総裁が再選され第二次安倍政権は誕生しなかっただろう。個人の資質で言えば、安倍首相が物事を相対化・客観視する能力がより高ければ、支持率の維持だけを自己目的化して規律を蔑ろにする振る舞いは自分自身に対して許せなかっただろう。
 システムが完全に正常動作するものと見ない視点からは、それは一種の「システムのハック」と捉えられる。このことは以前に詳述したからここでは繰り返さない。
  システムをハックする首相 - やしお
  安倍政権での「第二官僚」のメンバー - やしお


 安倍首相の支持者を、最初から国粋主義者である、自民党の熱烈な支持者/野党の強固な反対者であるから支持しているのだ、と全て見なすのは、結果と原因の取り違えの可能性がある。まして政策が優れているから、安倍首相を評価しているから支持しているわけでもない。政権が安定しているから支持している、それが安倍首相だった、だから安倍首相を支持する、という機序の中で、その支持を自己の中で正当化するには、安倍首相が提示するロジックを内面化させるしかない。自己の中での正当化の過程で、支持者は「後から」国粋主義者自民党の支持者、野党の反対者へ自己を作り変えていく。ここには遠近法的倒錯がある。この倒錯に陥らないためには、彼らの内在的論理を見るというより、その形成過程を見なければならない。
 当人ですらそう取り違えて信じてしまうために、外部からはさらに不可解に見える。彼らが提示する政権擁護論そのものが稚拙に見えてしまうために、「愚かだ」と非難される。しかしそれは非難する側の自尊心を慰撫する効果はあったとしても、結局「おかしな人間である」と切り捨てて、切り捨てられた側も反発を生み、ただ断絶が深まるだけだ。せめてサンプルから、こうした可能性を取り出して見つめた方が、まだしも有意義だろう。


 ナショナリズムは不安定な自尊心をバーチャルに満たす。安倍首相はそうした物語を提示するからそうした層に支持されるのだろうと単純に考えていた。またその支持層の数々の擁護論が稚拙なのは、これも単純に彼らの知的水準や思考様式の問題だろうと見做していた。それが全て間違いではないとしても、一方であの根強い支持の全てを説明付けられるほど単純でもないはずだ。ここでは一旦、自尊心の基礎工事が弱いことや、知的水準が低いことに帰することなく、最初の記事を手掛かりにして支持者の構造を理解しようとした。一つの可能性でしかないとしても、支持者を見る不可解さが少しでも緩和されればいい。

クリエイターに編集や校正の技術が必須の時代

 ここ最近で、平田オリザソフトバンク新入社員が叩かれたり、あるいはナイナイ岡村への矢部の公開説教が批判されたりするのを見かけた。論旨そのものはおかしくなくても、細部や印象で違和感を持たれると叩かれてしまう。
 それを防ぐには、先回りして叩かれポイントを潰しておけばいいのだけど、それは作家的な能力(コンテンツのクリエーション)というよりたぶん編集や校正(校閲)に近い技術になっている。それはネットが出てきて、さらに人口が増えて言論空間の距離(射程)が変わったせいで、作家的な能力と編集・校正技術の両方が(今まで以上に)個人の中に必要になってきていて、でも旧来の言論空間の距離感に慣れた人や、新規参入した人の中には、戸惑っている人もいるんだろうな、みたいなことを考えていた。


 劇作家の平田オリザが、新型コロナウイルス対応にまつわる演劇界の苦境を訴えた際に、製造業その他産業を雑に引き合いに出したために炎上してしまった。「あいつらはリカバリーも楽だが俺らは苦しい、俺らは特別に助けろ」という言い方(に見えてしまった)ではなく「みんな苦しいけど、我々の業界はこういう面で苦しい」という言い方であれば特に引っ掛からなかったかもしれない。
 ソフトバンクの新入社員が研修を「クソ」と書いた記事をはてな匿名ダイアリーに投稿し、ブックマークコメントで「お前がおかしい」とたくさん言われて記事を消してしまった。会社側が愚かだと断罪するような書き方でなく、「意義を伝えてくれない研修を受けるのはつらい」と個人的な愚痴として書けば(そんなには)叩かれなかったのかもしれない。
 お笑いコンビ ナインティナイン岡村隆史が、ラジオで「コロナ明けたら美人・かわいい子が風俗嬢をやるようになる」(だからそれを楽しみに今は自粛を)とリスナーからの相談に答えて炎上した後、相方の矢部浩之が同番組で岡村を説教する中で「彼女を作るか結婚しろ」とアドバイスを送った。そこへ「女性は男性の教材ではない」「独身者へのマウンティング」といった批判をする人もいた。これに対しては「岡村の発言は女性不信が起因している、それは女性を人間として相対するのを避けてきたことにある、だから特定の相手と真剣に向き合うことは価値観を変える有効な手段の一つである」という文脈で、一般論というより個別具体的に岡村個人に向けたアドバイスだからその批判は妥当しない、と擁護された。


 論旨そのものというより、書き方で読み手に違和感や引っ掛かりを与えて苛立たせたために起きた悲しい事故だった。一部や印象が引っ掛かって叩く人が出てしまうと、それだけを見た人は全体の論旨もその価値観で書かれていると推定してしまう。書いた本人は「そんなつもりじゃない」「それは主旨じゃない」と訴えても、届かない。


 以前、平田オリザの著作『演劇入門』を読んで、俳優・脚本・演出といったものがどういう関係で結ばれているのかをクリアーに言語化していて、それから「劇団」というものの組織論もすごく面白かった。(当時の感想↓)
  平田オリザ『演劇入門』 - やしお
 ここまで物事を考えられる人でも、これだけ作家や大学教諭のキャリアがあり、政策にさえ関与してきた(内閣官房参与自治体の政策アドバイザーを務めた)人でも、間に修正してくれる第三者がいなかったり、発信を急ぎ過ぎたりしていると、理解の浅い部分や誤謬を不用意に晒して「事故」が起こってしまうんだなと思った。引っかかって切り取られた部分を丁寧にフォローするのではなく、「自分の意図と違う」と後から言ってしまうのは、旧来的な感覚で「これくらい分かれ」という苛立ちから来るんじゃないかと想像している。
 平田オリザに限らず、上野千鶴子などもネット上で叩かれてしまう場面を見ると、旧来の言論空間でやってきた人にとってはかなり戸惑うというか、適応が難しい状況だったりするのかもしれない。


 事故を防ぐには、どう読まれ得るかを先回りしてキャッチして、最初から危険なポイントを潰すしかない。これは慣れや習慣化が必要で、慣れてくると「ここは切り取られて何か言う人は出てくるけど、こっち側でカバーする一言を入れておけば、叩かれても『その叩き方はおかしい』と擁護する人が出てくるので、そのままで大丈夫」というような、2手、3手先まで反応を予測して事前の手当てが出来るようになってくる。それは「これくらいの人数に拡散された場合、この水準で『読めない』人が出てくる」という感覚に裏付けされており、その感覚は実際に何度か叩かれる中で身に付いていく。
 以前、分かりやすくする技術と、炎上しない技術について、自分なりにまとめてみたことがあった↓
  わかりやすさの技術 - やしお
  炎上しない書き方 - やしお
 「分かりやすくする」は引っかかりや障害を減らして情報を届けるという意味で、「炎上しない」は違和感を減らして意図を伝えるという意味で、ここで言う「編集や校正のような技術」の一端になっている。それはいずれも、根底で「他者(相手)を慮る技術」になっている。
 ネットで何か書こうとすると、たとえ「これは私が自分のために書いたものである」と自分に言い聞かせても、誰かに何かを言われれば気になるのが人情で、「こいつは馬鹿だ」「分かってない」と言われれば精神衛生を悪化させて「だったら書くのをもうやめよう」となってしまう。「自分のために書いたものが他者とも共有できるのがネットのいいところ」と信じて書き続けようとして、一方で精神衛生の保全と両立させようとすると、どうしても上記の技術を身につけざるを得なかった、という不可避的な事情があったのだった。
 そうした技術は、実際に軽い「事故」を起こしながら体得していく面があったとしても、一定程度は言語化して「技術」としてパッケージにし得るはずで、それが共有されていれば必要以上に叩かれて書くのをやめてしまう人の低減に多少は資するかもしれないと思ったから、書き出してみて置いている。(それでも完璧には無理なので、ここまでやって言われるならもうしょうがないとある程度は無視することになる。あと精神衛生が保つなら、「最初から配慮せず全部無視する」やり方もあり得るが、それが世界の幸せに資するかはわからない。)


 平田オリザなどプロによる言論が書籍・雑誌・論文等の媒体で直接の読者との範囲のみで、新入社員の愚痴や会社批判が知人や家族の範囲のみで、芸人が深夜ラジオでリスナー・スタッフの範囲のみで流通していた旧来の射程であれば、「文脈や意図も汲み取ってくれる」「反応が予想できる」相手だけを想定して問題なかったとしても、ネット上で意図を超えたり文脈や論旨から切り離されて流通してしまうのであれば、そうした相手も含めた射程での(=編集・校正作業を含めた上での)言論公表が必要になってくる。
 これは旧来が、その編集・校正コストを受け手の側に依存していたり、あるいは(特に書籍・雑誌等において)分業体制で発信者-受信者の間でコスト負担を担う存在(編集者や校正者)が存在していたのを、ダイレクトに発信者が負担するという状況になっている。YouTuberなど自力で編集・発信してる人の方が、はるかにその辺の感覚は身につけて適応していて、そうした感覚を持っているのが「当たり前」になってきてるのかもしれない。「叩かれなさ」を上げるために当たり障りのない無益なことしか言わないのでは本末転倒だから、コンテンツの魅力を維持しながらバランスを取らないといけない。例えばWebライターのARuFaが、その両面を高度なレベルで実現をしていると、彼の記事を見るたびにつくづく思う。


 こうした編集校正コストの発信者への移転は、良い/悪いというより不可避的な変化だろうと思っている。既存のメディアを通さず自力で発信できるのは大きな利点でも、この利益を享受するにはこの発信者負担がどうしても要求されてしまう。
 例えばつい最近、テレビ朝日の取材を受けた澁谷泰介医師が、意図とは真逆に編集・放送されたとFacebook上で告発した。旧来であれば反駁を加える機会も持てず「泣き寝入り」するしかない状況だったのが、素早くカウンターを出せるのは大きな利点だ。その一方で、それを実現させるには本人に一定以上の編集・校正能力が必須になってくる。「何言ってるのか分からない文章」とか「比喩や例示が不適切なせいで全体の信憑性が疑われる文章」などを出してしまうとカウンターどころか逆効果になってしまうので、正確に伝えられる+説得性をもって伝えられる技術が必要になってくる。


 そうした編集・校正技術を上げて、発信者負担にちょっとシフトするというのは、日本社会が従来受信者負担に偏っていたことを考えるとちょうどいいんじゃないかという気もしている。
  受信負担の社会で起こるあれこれ - やしお
 ↑の中で、よく語られる「日本社会の特徴(あるいは息苦しさ)」は受信者負担という視点で見ればある程度説明できるのではと思って試しに書いてみたのだけど、その辺が多少は中和されるならいいことかもしれない、それもメリットの一つかもしれないと期待している。


 一方で、発信者の技術獲得が大変で参入ハードルが上がるのは欠点かもしれない。参入障壁をむやみに上げて、この欠点を拡大するのは全体にとっての幸福ではない。
 ソフトバンク新入社員の記事も、「会社組織で働く感覚をまだ知らなければこんな感想になるだろう」と思う程度の内容だったのに、「仕事向いてなさそう」「足元みろ」とみんなからコメントされて、結局記事を消してしまったのを見るといたたまれない気持ちになる。「防犯はした方がいい、だけど空き巣や強盗が悪いのは変わりない」ような話にも似て、文脈も意図も無視してぶっ叩く側が「全部書き手が悪い」で免責されはしないだろう、とも思っている。
 叩く側は「単に不備を指摘しているだけ」「自分はフェアである」と感じてコメントをしている。しかし、コミュニケーションは発信者と受信者の双方の負担によって成立する。一方が他方へ全的にその負担を要求することはできない。ここには「どちらがどの程度負担するのが相応か」という視点があり得るはずで、発信者がプロや公的なもの、影響力が大きいものであった場合と、ただの一般人で影響力の小さいものだった場合とで、発信者が負担して「当然」と思われる程度やバランスは違うはずだ。「全てのテクストに対して同等の批判を加える」というのは、単体で見るとフェアなようで、全体で見つめるとアンフェアなのではないかと疑っている。
 ブックマーク等でコメントをする時、その主体は受信者ではなく発信者に回る。発信者負担を求めるのなら、受信者から発信者に回ったコメンテーターもまたそれを負う。この「負担」は(炎上しない技術でも、わかりやすくする技術でも)根底で「他者を慮る技術」なのだという点を思い出せば、相手の立場や文脈も加味してコメントをするくらいはしてもいいし、その方が全体としてハッピーじゃないかとは思っている。
 旧来より発信者側への負担にシフトしていく流れ自体は、ネット人口と発信機会の増大に伴って進むけど、それはでも、他者を一方的に叩いていいと肯定するわけじゃないよ、ということ。


 こういう発信者-受信者の間をつなぐ技術を、発信者側が負担するのがどんどん当たり前になっていて、でもそこに昔の感覚で慣れていなかったり、あるいは訓練なしで足を踏み入れて「事故」が起きてしまうのを最近立て続けに見ている気がすると思ったのと、これがもっと当たり前になっていくとどう変わるんだろうとワクワクするような気持ちもあるっていうのは、今の時点で記録を取っておかないと「当たり前になりきった後」で振り返っても忘れちゃうだろうなと思って。

野口孝行『脱北、逃避行』

https://bookmeter.com/reviews/89506328

前半が中国→ベトナムカンボジア→日本と脱北者を逃がす仕事(成功例と失敗例)の話、後半が中国の地方で8ヶ月間の拘置所生活の話で、どっちも想像したことすらない話ですごく面白い。拘置所は厳しい面とものすごく緩い面が入り交じって、不条理な小説みたいだけどこれが現実なんだ。拘置所で中国人に「以前韓国人がいた時は、知人でも身内でもない地元の韓国企業の社員が『同胞の苦境だから』と訪問・差入れしてたのに、日本人は家族や外交官以外来ないのは冷たい」と指摘されるエピソードが、国民性の違いが分かって印象的だった。

脱北、逃避行 (文春文庫)

脱北、逃避行 (文春文庫)