やしお

ふつうの会社員の日記です。

クリエイターに編集や校正の技術が必須の時代

 ここ最近で、平田オリザソフトバンク新入社員が叩かれたり、あるいはナイナイ岡村への矢部の公開説教が批判されたりするのを見かけた。論旨そのものはおかしくなくても、細部や印象で違和感を持たれると叩かれてしまう。
 それを防ぐには、先回りして叩かれポイントを潰しておけばいいのだけど、それは作家的な能力(コンテンツのクリエーション)というよりたぶん編集や校正(校閲)に近い技術になっている。それはネットが出てきて、さらに人口が増えて言論空間の距離(射程)が変わったせいで、作家的な能力と編集・校正技術の両方が(今まで以上に)個人の中に必要になってきていて、でも旧来の言論空間の距離感に慣れた人や、新規参入した人の中には、戸惑っている人もいるんだろうな、みたいなことを考えていた。


 劇作家の平田オリザが、新型コロナウイルス対応にまつわる演劇界の苦境を訴えた際に、製造業その他産業を雑に引き合いに出したために炎上してしまった。「あいつらはリカバリーも楽だが俺らは苦しい、俺らは特別に助けろ」という言い方(に見えてしまった)ではなく「みんな苦しいけど、我々の業界はこういう面で苦しい」という言い方であれば特に引っ掛からなかったかもしれない。
 ソフトバンクの新入社員が研修を「クソ」と書いた記事をはてな匿名ダイアリーに投稿し、ブックマークコメントで「お前がおかしい」とたくさん言われて記事を消してしまった。会社側が愚かだと断罪するような書き方でなく、「意義を伝えてくれない研修を受けるのはつらい」と個人的な愚痴として書けば(そんなには)叩かれなかったのかもしれない。
 お笑いコンビ ナインティナイン岡村隆史が、ラジオで「コロナ明けたら美人・かわいい子が風俗嬢をやるようになる」(だからそれを楽しみに今は自粛を)とリスナーからの相談に答えて炎上した後、相方の矢部浩之が同番組で岡村を説教する中で「彼女を作るか結婚しろ」とアドバイスを送った。そこへ「女性は男性の教材ではない」「独身者へのマウンティング」といった批判をする人もいた。これに対しては「岡村の発言は女性不信が起因している、それは女性を人間として相対するのを避けてきたことにある、だから特定の相手と真剣に向き合うことは価値観を変える有効な手段の一つである」という文脈で、一般論というより個別具体的に岡村個人に向けたアドバイスだからその批判は妥当しない、と擁護された。


 論旨そのものというより、書き方で読み手に違和感や引っ掛かりを与えて苛立たせたために起きた悲しい事故だった。一部や印象が引っ掛かって叩く人が出てしまうと、それだけを見た人は全体の論旨もその価値観で書かれていると推定してしまう。書いた本人は「そんなつもりじゃない」「それは主旨じゃない」と訴えても、届かない。


 以前、平田オリザの著作『演劇入門』を読んで、俳優・脚本・演出といったものがどういう関係で結ばれているのかをクリアーに言語化していて、それから「劇団」というものの組織論もすごく面白かった。(当時の感想↓)
  平田オリザ『演劇入門』 - やしお
 ここまで物事を考えられる人でも、これだけ作家や大学教諭のキャリアがあり、政策にさえ関与してきた(内閣官房参与自治体の政策アドバイザーを務めた)人でも、間に修正してくれる第三者がいなかったり、発信を急ぎ過ぎたりしていると、理解の浅い部分や誤謬を不用意に晒して「事故」が起こってしまうんだなと思った。引っかかって切り取られた部分を丁寧にフォローするのではなく、「自分の意図と違う」と後から言ってしまうのは、旧来的な感覚で「これくらい分かれ」という苛立ちから来るんじゃないかと想像している。
 平田オリザに限らず、上野千鶴子などもネット上で叩かれてしまう場面を見ると、旧来の言論空間でやってきた人にとってはかなり戸惑うというか、適応が難しい状況だったりするのかもしれない。


 事故を防ぐには、どう読まれ得るかを先回りしてキャッチして、最初から危険なポイントを潰すしかない。これは慣れや習慣化が必要で、慣れてくると「ここは切り取られて何か言う人は出てくるけど、こっち側でカバーする一言を入れておけば、叩かれても『その叩き方はおかしい』と擁護する人が出てくるので、そのままで大丈夫」というような、2手、3手先まで反応を予測して事前の手当てが出来るようになってくる。それは「これくらいの人数に拡散された場合、この水準で『読めない』人が出てくる」という感覚に裏付けされており、その感覚は実際に何度か叩かれる中で身に付いていく。
 以前、分かりやすくする技術と、炎上しない技術について、自分なりにまとめてみたことがあった↓
  わかりやすさの技術 - やしお
  炎上しない書き方 - やしお
 「分かりやすくする」は引っかかりや障害を減らして情報を届けるという意味で、「炎上しない」は違和感を減らして意図を伝えるという意味で、ここで言う「編集や校正のような技術」の一端になっている。それはいずれも、根底で「他者(相手)を慮る技術」になっている。
 ネットで何か書こうとすると、たとえ「これは私が自分のために書いたものである」と自分に言い聞かせても、誰かに何かを言われれば気になるのが人情で、「こいつは馬鹿だ」「分かってない」と言われれば精神衛生を悪化させて「だったら書くのをもうやめよう」となってしまう。「自分のために書いたものが他者とも共有できるのがネットのいいところ」と信じて書き続けようとして、一方で精神衛生の保全と両立させようとすると、どうしても上記の技術を身につけざるを得なかった、という不可避的な事情があったのだった。
 そうした技術は、実際に軽い「事故」を起こしながら体得していく面があったとしても、一定程度は言語化して「技術」としてパッケージにし得るはずで、それが共有されていれば必要以上に叩かれて書くのをやめてしまう人の低減に多少は資するかもしれないと思ったから、書き出してみて置いている。(それでも完璧には無理なので、ここまでやって言われるならもうしょうがないとある程度は無視することになる。あと精神衛生が保つなら、「最初から配慮せず全部無視する」やり方もあり得るが、それが世界の幸せに資するかはわからない。)


 平田オリザなどプロによる言論が書籍・雑誌・論文等の媒体で直接の読者との範囲のみで、新入社員の愚痴や会社批判が知人や家族の範囲のみで、芸人が深夜ラジオでリスナー・スタッフの範囲のみで流通していた旧来の射程であれば、「文脈や意図も汲み取ってくれる」「反応が予想できる」相手だけを想定して問題なかったとしても、ネット上で意図を超えたり文脈や論旨から切り離されて流通してしまうのであれば、そうした相手も含めた射程での(=編集・校正作業を含めた上での)言論公表が必要になってくる。
 これは旧来が、その編集・校正コストを受け手の側に依存していたり、あるいは(特に書籍・雑誌等において)分業体制で発信者-受信者の間でコスト負担を担う存在(編集者や校正者)が存在していたのを、ダイレクトに発信者が負担するという状況になっている。YouTuberなど自力で編集・発信してる人の方が、はるかにその辺の感覚は身につけて適応していて、そうした感覚を持っているのが「当たり前」になってきてるのかもしれない。「叩かれなさ」を上げるために当たり障りのない無益なことしか言わないのでは本末転倒だから、コンテンツの魅力を維持しながらバランスを取らないといけない。例えばWebライターのARuFaが、その両面を高度なレベルで実現をしていると、彼の記事を見るたびにつくづく思う。


 こうした編集校正コストの発信者への移転は、良い/悪いというより不可避的な変化だろうと思っている。既存のメディアを通さず自力で発信できるのは大きな利点でも、この利益を享受するにはこの発信者負担がどうしても要求されてしまう。
 例えばつい最近、テレビ朝日の取材を受けた澁谷泰介医師が、意図とは真逆に編集・放送されたとFacebook上で告発した。旧来であれば反駁を加える機会も持てず「泣き寝入り」するしかない状況だったのが、素早くカウンターを出せるのは大きな利点だ。その一方で、それを実現させるには本人に一定以上の編集・校正能力が必須になってくる。「何言ってるのか分からない文章」とか「比喩や例示が不適切なせいで全体の信憑性が疑われる文章」などを出してしまうとカウンターどころか逆効果になってしまうので、正確に伝えられる+説得性をもって伝えられる技術が必要になってくる。


 そうした編集・校正技術を上げて、発信者負担にちょっとシフトするというのは、日本社会が従来受信者負担に偏っていたことを考えるとちょうどいいんじゃないかという気もしている。
  受信負担の社会で起こるあれこれ - やしお
 ↑の中で、よく語られる「日本社会の特徴(あるいは息苦しさ)」は受信者負担という視点で見ればある程度説明できるのではと思って試しに書いてみたのだけど、その辺が多少は中和されるならいいことかもしれない、それもメリットの一つかもしれないと期待している。


 一方で、発信者の技術獲得が大変で参入ハードルが上がるのは欠点かもしれない。参入障壁をむやみに上げて、この欠点を拡大するのは全体にとっての幸福ではない。
 ソフトバンク新入社員の記事も、「会社組織で働く感覚をまだ知らなければこんな感想になるだろう」と思う程度の内容だったのに、「仕事向いてなさそう」「足元みろ」とみんなからコメントされて、結局記事を消してしまったのを見るといたたまれない気持ちになる。「防犯はした方がいい、だけど空き巣や強盗が悪いのは変わりない」ような話にも似て、文脈も意図も無視してぶっ叩く側が「全部書き手が悪い」で免責されはしないだろう、とも思っている。
 叩く側は「単に不備を指摘しているだけ」「自分はフェアである」と感じてコメントをしている。しかし、コミュニケーションは発信者と受信者の双方の負担によって成立する。一方が他方へ全的にその負担を要求することはできない。ここには「どちらがどの程度負担するのが相応か」という視点があり得るはずで、発信者がプロや公的なもの、影響力が大きいものであった場合と、ただの一般人で影響力の小さいものだった場合とで、発信者が負担して「当然」と思われる程度やバランスは違うはずだ。「全てのテクストに対して同等の批判を加える」というのは、単体で見るとフェアなようで、全体で見つめるとアンフェアなのではないかと疑っている。
 ブックマーク等でコメントをする時、その主体は受信者ではなく発信者に回る。発信者負担を求めるのなら、受信者から発信者に回ったコメンテーターもまたそれを負う。この「負担」は(炎上しない技術でも、わかりやすくする技術でも)根底で「他者を慮る技術」なのだという点を思い出せば、相手の立場や文脈も加味してコメントをするくらいはしてもいいし、その方が全体としてハッピーじゃないかとは思っている。
 旧来より発信者側への負担にシフトしていく流れ自体は、ネット人口と発信機会の増大に伴って進むけど、それはでも、他者を一方的に叩いていいと肯定するわけじゃないよ、ということ。


 こういう発信者-受信者の間をつなぐ技術を、発信者側が負担するのがどんどん当たり前になっていて、でもそこに昔の感覚で慣れていなかったり、あるいは訓練なしで足を踏み入れて「事故」が起きてしまうのを最近立て続けに見ている気がすると思ったのと、これがもっと当たり前になっていくとどう変わるんだろうとワクワクするような気持ちもあるっていうのは、今の時点で記録を取っておかないと「当たり前になりきった後」で振り返っても忘れちゃうだろうなと思って。