やしお

ふつうの会社員の日記です。

苦痛と引き換えに高次の快楽を得る「禁断の果実」

 上のエントリであのバッハの例を引いたのは、これを引用したいがためでした。著者金子一朗は先に引用した部分に続いて、次のようなことを言っています。

 初心者には信じられないかもしれないが、優れた演奏家は、これら2つの感覚を同時に持ち、それを表現しているのである。訓練すればできるようになるが、実はそれを聞き取れる耳を持つようになったとき、これら2つの感覚を同時に持っていない演奏を聴くと、とても退屈してしまう。つまり、一種の「禁断の果実」である。


 この「とても退屈してしまう」について、小説や映画で同じような体験をしたことがあるので実感としてよく分かるんです。ストーリーやプロット以外の楽しみを知ってしまうと、ストーリーやプロットがどれだけ面白くても、その他の面(語り口だったりショットの長さだったりキャメラの動きだったり)で退屈、あるいは不快だと読むに堪えない、観るに堪えない作品になってしまうのです。
 「ストーリーやプロット以外の楽しみ」を知る以前は面白いと思っていた作品も、今はとても苦痛で読み通せないということがあり得るのです。なんだか少し悲しいですが、これはストーリーやプロットの面白さを犠牲にして別の面での面白さを実現している諸作品を楽しめるようになる歓びと引き換えの、ささやかな不幸なので、昔に戻りたいとは思いません。


 これは例えば、にしおかすみこがどれだけ面白いことをトーク番組で話していても、声がどうしても耳障りなのでチャンネルを変えざるを得ない、というようなことと少しは似ているかもしれません。
 内容とともに表現の達成も要求されるということです。たまに「ミテクレじゃなくて中身が大事」という意見を耳にすることがあります。確かにミテクレばかりが重要視されている状況では有効な発言ですが、これを「中身が良ければミテクレは構わない」とみなすのは危険な罠です。そういう易きに流されてはいけない、両方実現しなければならない、という点は自他共によくよく銘記されなければなりません。