やしお

ふつうの会社員の日記です。

藤森雅也『劇場版アニメ 忍たま乱太郎 忍術学園 全員出動!の段』

 テレビで見ました。NHKEテレ)だとCMもなくていいですね。
 まるで期待を欠いたまま見始めたことも手伝って、とても面白くて驚いて見終えました。


 まずお話とその構成がしっかりしています。二つの敵対する勢力に対する第三者としての忍術学園。それが巻き込まれて当事者になっていきます。このとき単一の理由で巻き込まれるのは簡単ですが、ここでは二つの理由で巻き込まれます。そのため、それぞれを解決するために作中人物たちが二手に分かれたりまた合流したりと厚みが出ます。これは単純に、数多いキャラクター一人一人に見せ場を与える(なにせサブタイトルが「全員出動!」)ために要請された措置だろうと想像しますが、その制約を解決するためにお話が複雑さを備えて豊かさを増します。さらに敵対する二つの勢力が一つにまとまり、忍術学園と真正面から対立します。あくまで第三者として横から関わっている状態では物語としてのカタルシスを得られない訳ですからこれも必要な措置です。
 必要な措置をきちんと取って面白さを実現するこの誠実さ。もちろんこの誠実さから愚鈍にあるいは浮薄にズレていく作品を刺激的と感じる訳ですが、一方で誠実さをそのまま実現する仕事にも敬意を払いたいと思っています。


 それからアクションシーンのしっかりしたこと。伊作vs雑渡、土井先生vs諸泉のシーンは格好よくてつい見直しました。(録画していてよかった。)特に雑渡が伊作から身を離し、言葉を交わした後、後ろ向きに飛びしさって消えるまでの引きのカット、雑渡の立ち姿と飛び方の忍者っぽさといったら! 私は単純にこういう忍者っぽい動きを見たいんです。
 やや話がアクションからはズレますが、私は雑渡のようなトリックスターが大好きです。(雑渡は敵方の忍者の頭で、ものすごいやり手の忍者とされています。)神出鬼没、物語を決して引っ張りはしないが、最強なので話を引っ繰り返す恐れを孕んだ存在。(例えばGガンダムにおけるシュバルツ・ブルーダーなど大好きです。)先述のとおり本作の物語とその構成は実にしっかりしたものですが、ここにトリックスターが導入されることでその安定性を揺さぶり、サスペンスを喚起して退屈させません。


 作中では戦闘能力のヒエラルキー、先生たち>六年生>下級生たち、が厳然と存在しています。(下級生たち、特に一年生は直接戦闘をせず徹底して庇護されます。)そしてこのヒエラルキーの安定性が、後述することとも関係しますがとても重要だと私は考えています。先生たちがいれば絶対に安心、というヒエラルキーの絶対性。
 このとき、もし雑渡と先生たちの戦闘が存在し、どちらかの優位が決定するようなことがあってはなりません。仮に雑渡の方が強ければヒエラルキーの安定性が損なわれ(先生がいる安心感の絶対性が崩れ)、仮に先生たちの方が強ければ雑渡のトリックスターとしての地位は奪われます。作中では雑渡vs先生は回避されるわけで、その点でも正しい作りを守っていると言えます。


 私が本作を見て最も驚いたのは、前半に漂う不穏さです。「忍たま乱太郎」は周知の通りギャグアニメとして放送されており、その作中でキャラクターの消滅(死)や関係性の変容は想定されません。ある一作の中で関係性が変容してもその回が終われば元に戻っています。いわば絶対安定の中に存在するわけですが、本作の前半ではそれが揺らぎ、見る者をかすかな不安に陥れます。
 冒頭近くで伊作が戦で傷ついた兵士を治療する回想場面があるわけですが、まずここが不安です。本来、ギャグアニメとして正しい振る舞いは、たとえば味方の手裏剣が尻に刺さった場合は怒った後にいつの間にか治っているというものです。それなのに、まじめに治療している! 特に驚いたのは鑑札の説明をする際、村人が兵士の槍で突き殺される絵が出てきたところです。この世界では傷も死も許容されていると私達は知ることになります。
 それにもかかわらず作中人物たちは(特に一年は組のよい子のみんなは)普段通りギャグアニメのように振る舞います。オープニングテーマが流れる中で戦中へ向かう彼らはまるでピクニックにでも行くような楽しさでとんだり跳ねたりしています(みんなすごくかわいい)。戦に参加すると決めたときも「いくぞー」「おー!」といった気分で楽しそうです。仮に一年は組のよい子のみんながまじめな顔をしていたとしたら、それはそれで絶対安定となるため不穏さは解消されるところです。
 例えば「機動戦士ガンダムAGE」が、作中人物の死が描かれたり戦闘シーンが豊富にある割にその種の不穏さと無縁で退屈なのは、(そもそも死ぬことになるキャラクターを事前に入念に描いて私たちに感情移入させるという作業を怠っており衝撃を生じさせないという手抜きもさることながら)徹頭徹尾主人公が「これが戦争なんだ!」「人が死ぬんだ!」といった種類のことをシリアスな顔で呟き続けて絶対安定のまま進むからだと私は考えています。(付言するとトリックスターの不在が物語の単調さに加担して退屈さを増している気がします。ユリンはその可能性もありましたが劣化ララァのような役割を果たしそうになって私たちを安心させています。)


 またこの不安定さを成立させているのは、傷や死が前提されているにも関わらずギャグアニメを全うしようとする食い違いに加えて、先生たちが最強というヒエラルキーも一因になっているのではないかと思います。先生たちの庇護下で一年生がきゃっきゃしているうちは安心ですが、その対比としてその庇護から外れた瞬間の不安感が発生します。
 この危機が最も高まるのが虎若が火縄銃で狙われる瞬間です。なおここは私が本作で大好きなシーンの一つです。
 土手の上にいるしんべゑが「なんかくさくなあい?」と火薬の臭いに気づく。周りの一年生たちが「そうお?」。土手の下にいる虎若がふと対岸の林に目をむける。銃口がちらっと光る。敵が虎若に火縄銃を向けています。このとき虎若はそれが銃だと気付いているはずですがぼんやりしたまま動きません。焦燥でも恐怖でもなく、放心。この選択がとてもリアルでとっても怖いんですね。この瞬間、潜在的な不安定が、事実としての不安定さへと転換する危機が最も高まるわけです。そして銃声が響く。対岸の敵の銃がはじけとぶ。敵はあわてて逃げていく。そして火縄銃の構えを解く逆光気味の照星さんのカット!(照星は火縄銃の名手の忍者でヒエラルキーは先生たちレベルです。)土手の上から駆け下り、虎若の周りを固める一年生たち。ここでもまだ虎若は放心しています。
 と、いうわけでこの危機は(当然と言えば当然ですが)安定の側へ回避されます。先生たちの代補として照星さんが登場、虎若を救って忍術学園側に加勢することで安定は強化されます。


 さらに雑渡とその部下を山田先生たちが見張るシーンがあります。このとき先述の「雑渡vs先生」の危機が高まるわけですが、雑渡が「私はこの戦には関わりませんよ」と自らトリックスターとしての役割を否認します。ここで雑渡vs先生が回避されると同時に作中からトリックスターが消滅します。(なお、この否認には「六年生の伊助に恩があるから忍術学園には敵対しない」という理由付けがきちんとされていて物語としての不自然さはなく、ここでも誠実に仕事はされています。)
 トリックスターの消滅により必然的にヒエラルキーが確定し、絶対安定としてその後の話は進みます。(実際、下級生たちが傷つきそうになっても松千代先生が身を挺して守ってくれたりします。)この時点でもはや不穏さは完全に消えます。
 は組のよい子たちが設置した丸太ロケットが敵方に多数突入し、派手に花火状に爆発、カタルシスを迎えて物語が完結します。(実際にはその後、その他もろもろの伏線も丁寧に回収しつつ穏やかにギャグアニメらしいエピローグが流れますが。)


 アニメの劇場版は、特に「忍たま乱太郎」のような多数の個性的なキャラクターが出てくるアニメでは、キャラクター消費のみで済ませる、ファンズアイテムという安易さに流れることも可能なはずです。しかし本作はキャラクター消費の面も持ちつつ上記の通り誠実さの通った仕事がなされてとても楽しい作品になっていてお正月から得した気分でした。