ネタバレを気にせず書いています。
2/3 クリント・イーストウッド『J・エドガー』
『グラン・トリノ』も『インビクタス』も『ヒア・アフター』も、素直にお話で感動しようと思えばできなくはないようになっていたけど、もはやここに至るとその余地すら奪われているような。でもこれを、あるべきものが欠けている(失敗作)と見るのは乱暴だし建設的ではないと思いつつ、じゃあ何なのかはよく分からない。
この3人がお互いを裏切りもしないから全くドラマが生まれないと思っていたら、主人公が自分自身を裏切っていたということが明らかになる。この瞬間を映画の中で最大のどんでん返しとして飾り立てるかというとそんなこともしない。「うん、そうだね……」くらいのトーンで何となく過ぎていく。何かがあるというより、あれがない、これもない(やろうと思えばやれるけど)、というような映画。
2/10 ブレット・ラトナー『ペントハウス』
無意味に巨大な女が登場したのでよかった。「固太りした巨大な老女」が意味もなく一番好きなものの一つだけど、妥協して巨大な女だけでもいいです。画面に出てくるだけでうれしくなっちゃうんだ。(目の前にいたらこわい)
2/18 デヴィッド・フィンチャー『ドラゴン・タトゥーの女』
純粋に(?)探偵物なのね。探る側と探られる側の転倒は生じない。探偵物でもヒーロー物でもやたらオリジンをやりたがるからてっきりこれも、調べて行くうちに主人公の出生の秘密が探る対象と絡み合っていた、という話かと思ってたら違った。
「この龍、見忘れたとは言わせねえぜ」と悪党に見せる訳でも、突然光り出して不思議な力を女に与える訳でもないドラゴン・タトゥー。タトゥーやピアスや言動や能力の過剰さで飾り立てながら、むしろそれを無化するような、そんなことは何でもなくて、底の底では普通の女の子なんだよ、とこの長時間をかけて言う。(特に最後のいじましさ。)『ベンジャミン・バトン』でも『ソーシャル・ネットワーク』でも「有徴性を持たされた者が普通を指向する」みたいな話だけどそういうのが好きなのかな。
2/24 ラース・フォン・トリアー『メランコリア』
好きだよ。でも、ぶれつづける手持ちカメラのクロースアップが連続すると、きわめて単純に生理的な現象として、酔うんだ。冒頭に続く終末のイメージと強い対比を生み出すために手持ちカメラ。そうだとしても、酔うんだ。
以前は手持ちカメラを使うのはドキュメンタリーっぽくしてリアリティを増そうという怠惰な意図からくる安易な方法、と見做して唾棄していたんだけど、これを見ながら違うのかもしれないと思った。この長さをかけて一つずつゆっくり積み上げて行こうとするときに、きちんとした画面を作ってしまうと耐えられない、という認識があるのかもしれない。それにしても手持ちカメラである必要はない気はするけれど。酔うし。
その中にあって急に、馬で疾駆する姉妹の姿を空撮するカットがくると新鮮。車のCMみてえ。
2/25 アンドリュー・ニコル『TIME/タイム』
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