やしお

ふつうの会社員の日記です。

「感動ポルノ」と『聲の形』、「俗情との結託」と『君の名は。』

 アニメ映画の『聲の形』が「感動ポルノ」と批判されているのを見かけて、それは違うんじゃない? むしろ『君の名は。』の方が感動ポルノにずっと近いのでは、と思った。同時に、感動ポルノという言葉より、60年以上前からある「俗情との結託」という言葉で考えた方がより正確に捉えられるとも思った。(「欲情」ではなく「俗情」です。)
 その辺を、差別って何なんだろうかという点も含めて一度整理しておこうと思って。


感動ポルノ、差別、俗情との結託のスコープの違い

  • 俗情との結託:通念を無批判に肯定することで作品を成立させること
  • 差別の構成要件:現実に人を不当に苦しめている通念を、無批判に肯定すること
  • 感動ポルノ:障害者(あるいはマイノリティ)への差別意識を内在化させた上で、受け手の気持ちよさを成立させること

だとすると、こういう包含関係になる。

 ここで「作品」とは、単独の作品でも複数の作品群でも構わない。
 感動ポルノと異なり差別は感動を伴わなくとも成立するし、差別と異なり俗情との結託は人を不当に苦しめる種類の通念でなくとも成立する。
 感動ポルノより前に、俗情との結託の時点で作品としては批判され得る。感動ポルノかどうかという視点より、もう2段階広い俗情との結託になっていないかという視点で見ないと十分じゃないのではないかと思っている。


既存のイメージを利用すること

 通念・世間の常識・俗情を、無批判に肯定する態度とはいったいどういうことなのか。
 現実というものは、たくさんの条件が相互に作用しながら生じている。

 見た目をすっきりさせるために、さしあたり条件群と現実群をひとまとめにしておく。

 一方でこの現実とはズレた形で「既存のイメージ」が存在している。

 矢印を点線にしているのは、実際には導かれない(論理に誤謬がある)のに、導かれると一般に思われている、偽の矢印ということを表している。部落出身だから物を盗むとか、ゲイだから俺のことも性的な目で見てるとか、黒人だから暴力的だとかいった偽の「論理」、この偽の矢印が俗情になる。
 きちんと検証することなしに、あるいは無意識に、偽の矢印(俗情)を採用してしまう態度が「俗情との結託」として斥けられる。


作品の強度

 俗情との結託が批判されるのは、作品の強度が低くなるからだ。


 作中での現実を構築するというのは、既存のイメージに頼らずに、条件から現実を構築し直すということだ。『シン・ゴジラ』が「怪獣が出てきて人間のメカやロボや別の怪獣やヒーローと戦う」という既存の怪獣映画のイメージに頼らずに、「実際に今の東京に怪獣的な生物が来たら」という条件から現実を構築し直したのを考えるとわかりやすいかもしれない。
 作品が採用した条件群に対して、こうした構築がどこまでされているかで作品の強度が決まってくる。この強度が低いと、差別や作品内部での矛盾が生ずる。例えば最近のディズニーアニメ映画は、ポリティカルコレクトネスという点でのこうしたデバッグが恐らく世界一徹底されている。(全世界の老若男女に見せる、と本気で考えている結果だと思う。)その面での強度が最も高い作品群になっている。


 プログラムのバグがゼロであることがただちに優れたプログラムだということを意味しないのと同じで、俗情との結託から免れていることが優れた作品であることを保証しない。バグがゼロだけど「Hello world」としか表示しないプログラムなら意味はない。
 しかしバグとそれに伴う弊害(作品内部の矛盾や、差別の助長など)は批判されてしかるべきだ。「俗情との結託」という視点は、こうした機能の仕方をする。


無批判に/都合よく/曖昧に、通念を肯定すること

 俗情との結託は、通念を「無批判に」肯定することであって、通念を肯定するだけでただちに俗情との結託になるわけではないという点に最も注意が必要だ。
 もし差別的な主人公が登場して懲らしめられないままでも、俗情との結託ではない(差別でもない)場合もある。あるいは逆に、主人公が懲らしめられる作品が俗情との結託(または差別)に陥っていることもある。
 矢印を見ないことが俗情との結託だから、もし差別的な現実を描いていたとしても、矢印がしっかり考えられていて逆に差別を引き起こしている条件を照射させるような作品であれば、それは俗情との結託とは言い得ない。たとえばゲイが迫害されて自殺する救いのない話だとしても、迫害に人々を駆り立てる現実を丁寧に描いた作品だったりすれば、それは俗情との結託ではない。

 そしてむしろ、「スカッとしたい」という俗情にだけ依拠して差別的な人物を懲らしめる作品なんかは、むしろ俗情との結託に陥っている。また、矢印を見ない態度は、文脈を無視した差別用語言葉狩りを引き起こしたりもする。


 「無批判に」とは矢印を検討することなしにという意味、「都合よく」とは矢印が間違っていることを知りながらそれをあえて黙っているという意味、「曖昧に」とは自明とは言えない矢印(途中式)を何となく自明なものと思い込むという意味で使っている。そうやって矢印を考えない・見ないと、俗情との結託に陥ってしまう。






 ここまで、俗情との結託、差別、感動ポルノの位置付けを見ておいた。ここから『聲の形』と『君の名は。』が実際どうなのかという話。


聲の形』と感動ポルノ

 「障害者が出てくる感動作」が、ただちに感動ポルノになるわけではない。障害者にまつわる通念・世間の常識・俗情を、曖昧に/都合よく利用する(都合の悪い現実を排除する)ことで、作品は感動ポルノに堕する。
 『聲の形』は、西宮硝子が「聴覚に障害がある」という条件から本人・親・姉妹・同級生の感情や言動がどう推移するかを一つ一つ積み重ねた上で構築された作品になっていて、「障害者のイメージを都合よく利用している」作品ではなかった。それどころか聴覚障害が主題を占有さえしていなくて、「思考を正確に表現できないこと」と、その場合に「意図とズレた結果を生む」ことが複層的に起こる、ディスコミュニケーションが積み重なることと、とそれが乗り越えられることの全般が主題に据えられた作品だった。


 例えば主人公が小学生の時にいじめという形で、高校生の時に人間不信という形で不正確なコミュニケーションを取ることもそうだし、硝子の妹がある対象物の写真を撮り続けることとその意図が功を奏しなかったこともそうだし、硝子の母親の性格設定にしても、元同級生で別の高校に通う女子たちにしても、硝子の聴覚障害に起因するもの以外にも、ほぼ全ての主要人物に何かしらディスコミュニケーションの原因が潜在していることがはっきりと描かれている。その相互作用のなかで各人の言動が規定されていくという、作中の現実が丁寧に構築されていた。


 もちろん、現実をもっととことん再構築した全く別の作品というものも考えられる以上、「俗情との結託」から完全に免れるということはない(程度の差がある)。しかし相対的にかなり免れていることは確かだし、少なくとも「感動ポルノ」と言えるような都合のよい利用は見られなかった。


いじめっこ

 いじめの犯人が、後になっていじめていた相手に謝ればオッケー。そんなの都合が良すぎるんじゃないか。結局「いいやつ」ってことになれば過去がチャラになるのか。そうした批判もある。
 これは作中ですでに言及されていて、「自分は善人だ」と信じるために硝子を利用しているだけではないかと、硝子の妹が主人公を批判している。一方でその回答が作中で明示されることはない。作品が回答から逃避しているのだろうか。


 硝子の妹による痛罵のあと、作品のなかでは現実的な人間関係や出来事や時間の積層が進んでいく。その末に、「あのときのこと本当にごめん、これからの自分を手伝ってほしい」と主人公が謝罪し、硝子が受け入れる。さらにその後も物語が進行する。
 これが回答になっている。自分の都合で他人を利用しているだけなのかどうかは、一般的に決まるわけではなく、実際にどういう言動を積み重ねてきたのか、その現実によって決まる。いじめの加害者が許されるかどうかは、セオレティカルな問題ではなく、あくまでプラクティカルな問題なのだという態度が示されている。


 この「加害者が許されるかどうかは、現実の積み重ねの問題だ」という認識は、俗情との結託から免れること、「通念を無批判に肯定しない(矢印をちゃんと見る)」という態度と、まったく同じ形になっている。


障害者の美少女というイメージ

 聴覚障害でも美少女だから許されているだけだ、という批判も見かける。「ただしイケメンに限る」みたいな。しかしそれは、『聲の形』という個別具体的な作品に対してはかなりお門違いな言い分だとしか思われない。
 仮に全員が不美人であっても成立する作品になっている。もともと「硝子が美人であること」に依拠している箇所がない上、作品の中の現実が先述のようにしっかり構築されて、作品の強度が高いからだ。「聴覚障害であること」「美人であること」が、作者としての選択であることを越えて、作中の現実として「たまたまそうである」という条件になっている。
 クリント・イーストウッド監督の『グラン・トリノ』でへちゃむくれの顔の姉弟が主人公だったけれど、最後にはもう本当にいい顔だなと思わせてくれるし、ニール・ブロムカンプ監督の『第9地区』で気持ち悪いと最初思っていたエイリアンの子供が、最後には愛しく感じさせてくれることと同じで、仮に硝子がへちゃむくれ顔でも話が成立する。


 でも『聲の形』の好評をきっかけにして、美少女障害者もので当て込んでくるのがこの先出てくるかもしれない、という人もいる。でもそれは、それをよろこぶ俗情まみれの受け手と、その俗情と結託した作品の作り手を正確に批判すべき話であって、『聲の形』を責めるのはまるで見当違いでしかない。


 感動ポルノではないか、いじめ加害者の安易な救済ではないか、美人優遇に過ぎないのではないか、という俗情との結託にまつわる3種類の批判について改めて考えてみても、少なくとも『聲の形』には当てはまらないように見える。


君の名は。』と俗情との結託

 『君の名は。』は都会の高校生、少年があこがれる年上の女性、おしゃれな東京、神話、幻想といった諸々が既存のイメージで処理されていて、フィクション上の現実、リアルとは無縁の映画だった。
 彗星の軌道がおかしいという指摘もあったけれど、全宇宙彗星団体とかから「われわれ彗星への誤った理解を助長する作品である」って抗議がきちゃう。彗星に人格がなくて、具体的な不利益を被る人がいないから「差別」を免れているけれど、形は同じなのだ。


 「少年と少女の人格が入れ替わる」という条件設定から、「この人物だったらどういうリアクションを取るだろうか」という現実を徹底的に構築したりするタイプの作品ではなかった。突然の入れ替わりで彼/彼女はどのようにサバイブするのか、そしていかに適応していくのかは、描かれてはいても過剰に通俗的な女性性/男性性を強調する演出で、ストーリーやコメディに人物や作中の現実を従属させる作りだった。


 絵が美しい、プロットが面白い、声が気持ちいい、音楽のセンスがいい、等々、作品は多面的に評価され得る。その「面」のひとつに俗情との結託がある。たとえ他の面のよさがあったとしても、俗情との結託という面から見ると『君の名は。』の程度は耐え得ない水準だと私には感じられた。(もちろん多面的に全滅な作品もごまんとあるので、よっぽどいい、とちゃんと言っておかないとフェアじゃないとしても。)
 そして『君の名は。』の興業成績は、同時期の他作品を圧倒している。俗情が肯定されている方が大多数の受け手は安心して受け入れられる。俗情とはそういうものだ。






 ここからは補足です。


俗情との結託

 「俗情との結託」は「通念を無批判に肯定することで作品を成立させること」だと書いた。この用語がそもそもいつ、どういう文脈で登場したのかもおまけで紹介しておく。


 この概念は、小説家の大西巨人が1952年に「俗情との結託」という題のエッセイで提出している。その後一部の批評家で「俗情との結託」というのが批評用語として用いられてきた。
 このエッセイで大西は、今日出海の『三木清に於ける人間の研究』と野間宏の『真空地帯』という2つの小説を「俗情との結託」として批判している。
 前者については、手淫によって性欲を処理する他人(三木)を「奇怪」とみなしながら、女郎買いをすることやそれを公言することを当然視している、それが作中で相対化されることのない「私」の態度が批判される。(ついでに、こうした価値観を肯定する者はその癖、自分の妻が他の男と寝ることは全く肯定しない、矛盾している、とも付言されている。)
 後者については、舞台である帝国陸軍を一般社会とは異なる「特殊ノ境涯」、「真空地帯」として扱う態度が批判される。


 この2作品を並べているのは、わかりやすい例と見逃されやすい例として挙げているのかもしれない。『真空地帯』は一般に評価の高い作品で、批評家の日本の小説ベスト10とかだとだいたい入っている。でも、「軍隊は特殊な世界だ」って思い込みをそのまま利用するのだとダメだ、みんなでそう思って安心する態度だとダメなんだ、それは俗情との結託だ、と言っている。
 ちなみに大西巨人は『神聖喜劇』という小説を25年かけて執筆していて、そこで「一般社会と地続きの世界としての帝国陸軍」の姿をとことん展開している。実作で「ほらこんな風に書けるんだよ」という批判になっていて、本当の意味での批評性ってこうだよな、って気になる。


 エッセイ「俗情との結託」は↓所収


 じゃあどうして俗情との結託がダメなのかということを考えると、先に書いた通り、作品の強度が不足するからということになる。大西巨人の1948年のエッセイ「作中人物に対する名誉毀損罪は成立しない」に以下が書かれている。

 おしなべて小説は、もしも人がそういう(本質的にはほとんど無意味な)分類を強いて試みるならば、「事実」か「事実と作り事との混合」か「想像」かのいずれかに、かりそめながら分類せられ得るはずであろう。しかも、いずれにせよ、元来あらゆる小説(語の本義における「小説」)は、必ず常に「仮構」であらねばならぬのであり、さてそれとともに必ず常に「真実(現実的)」であらねばならぬのである。作家は、一方において、自己の作品全体を「仮構」と断言し得ることによって、まさしく作家の名に値し、他方において、自己の作品全体を「真実(現実的)」と主張し得ることによって、たしかに作家の名に値する。
 言い換えれば、「仮構」の小乾坤における新たな「現実(真実)」の造営作業こそが、作家の根本的当為なのである。


 作品は、小説でも映画でもテレビ番組でも、ノンフィクションでもエッセイでも、「現実そのものの完璧な写し」ってことはあり得なくて、人の手が入る以上は本質的に全てフィクションでしかない。でも、そのフィクションの中のリアルを構築するということは可能だ。作品=フィクションの小宇宙(小乾坤)の中で、徹底的にリアルを作り出す作業をするのが作家の仕事だし、自作を「これはリアルなんだ」って断言できなきゃ作家とは言えない、という。このリアルの追求度合いを「作品の強度」とここでは呼んでいる。
 そういう認識が前提にあるから、「俗情との結託」っていう批判が生まれてくる。作品の強度と俗情との結託の関係は、前の「作品の強度」という節に書いた通り。


差別の形式

 「差別の構成要件」は「現実に人を不当に苦しめている通念を、無批判に肯定すること」だと書いた。差別って何なんだろうと思って、差別の具体例をあれこれ思い浮かべてみて共通項を取り出してみるとこの辺になった。
 本人としてはどうしようもないこと(出自や人種や国籍、病気や障害、性別や性的指向、等々)に関するアンフェアな思い込みや誤解に基づいて、何かを言ったり、したりすると差別が立ち上がる。
 この矢印を見ない態度が差別の要件になってるとしても、その思い込み、通念が具体的に誰かを苦しめるものでないのなら差別とは呼ばれない(俗情との結託にはなり得る)。「黒人はくさい」と言えば差別だけれど、「トヨタ車はくさい」と言っても差別とは呼ばれない。それで「現実に人を不当に苦しめている」という限定がついている。


 「現実に人を不当に苦しめている通念を、無批判に肯定すること」は形式的な話だけど、根本的な要因は「自分がそうだったかもしれない/そうなるかもしれない」と考える習慣がないことにあるんじゃないかと思ってる。自分が黒人だったかもしれないし、女性だったかもしれないし、透析患者になるかもしれないし、障害児の親になるかもしれないし、とは考えないタイプの人の場合、相手と自分を隔絶させてものを見ることになって、相手の側に立って「この通念は正当なのか?」と疑う契機を持ちにくい。そのために「無批判に肯定する」が発生しやすくなるのではないか。


批評用語の普及の功罪

 「感動ポルノ」という言葉が人口に膾炙して、みんなが(あ、そういう視点で見ればいいのか!)と気づいて、今までスルーされていた差別的な構造がちゃんとチェックされていくのはいいことだ。言葉のインパクトや新鮮味があって、批判する対象がわかりやすい用語だと普及しやすい。
 ただ一方で、文脈も無視して(矢印を見ずに)何でもかんでも「感動ポルノだ!」と言い始める人が出てくる。小さい子にハサミを持たせたらよろこんで何でもかんでも切り始めるみたいな。それを見た人が「そっか、これは感動ポルノだからだめなんだ」と、本当はそうじゃないものまで誤解する。そうして正当な作品や言説まで抑圧されたり、自粛が始まったりする。「どうしてそうなのか」を考えずに思い込みをそのまま肯定するならそれは、俗情との結託に陥ってしまう。ミイラ取りがミイラに、というかミイラがミイラ取りを始めるような景色。
 「自己責任」という言葉がはやって何でもかんでも自己責任と批判したり、はてなブックマークのコメンテーターでも「データがない」で何でもかんでも否定したりする光景がある。「感動ポルノ」もそうなってきている。
 「はさみを使うこと」が大切なのではなくて、「何をどう切るか」が大切なの。