やしお

ふつうの会社員の日記です。

形成される好み

 子供のころは自然だとおもえてた親の習慣なり何なりが、だんだん大きくなって、自分の部屋を持ち、親元を離れて寮で暮らし、一人暮らしをはじめ、自分の裁量でできる範囲が拡大していくにつれて、自分の好みのやり方でやるようになってみると、ひさしぶりに帰省してその差にびっくりすることがある。
 ものの配置の仕方や、洗い物を放置したり洗ったりするタイミングや、汚れに対する許容量……
 記憶をたどってみると、たしかに子供のころはこれで気にせず暮らしてたってはっきり思い出す。でも今は耐え難くなっている。自分が変わったんだ。いったい自分の好みは、いつのまにどこからやってきたんだろうと不思議なきもちになる。


 とくに気になるのが、パンツの干し方だ。ハンガーの端で腰下のぶぶんが不自然に押し広げられたぼくのパンツ。ぼくは人が思ってるよりパンツのことを大切にしてる。自分で干すときは形が変にならないように洗濯バサミで吊っている。なのに、あんな、乱暴な……
 でもたしかに母親と暮らしていたころはずっとああだった。あれで別になんとも思ってなかったんだ。ぜんぜんパンツへの愛がなかった。愛の反対は無関心と言うけれどまったくそのとおりで、ぼくはパンツに無関心だったんだ。いったいぼくはいつからパンツを大切におもうようになったんだろうか。愛ってわからない。
 あえて干しなおしたりすればそれは母の側のやり方に抵触する行為なので、滞在させてもらっている身としてはおとなしく郷に従うことにする。心がむちゃくちゃに壊れながら、窓の外でゆれる、無残に広げられたパンツを見てる。


 そういえば、これと似た感覚がほかにもあった。
 免許をとって自分で運転するようになってから、ひさしぶりに父親の運転する車の助手席に座ったりすると、思わず助手席でブレーキを踏むしぐさをしてしまうことがあった。ブレーキのタイミングが自分とは違うからだけど、むかしは「自分のブレーキのタイミング」なんて存在せずに、気にせず乗っていたのにね。そんなかんじ。