やしお

ふつうの会社員の日記です。

体罰のドミノ倒し

 むかし体罰とか部活のしごきとか受けた人が大人になって、「あれは必要なことなんだよ」と言い出すのを見ると、それは自分を救済するために言ってるんじゃないかなって気になる。
 あんなしんどい経験したのに、その3年間の苦痛はまるっきり無意味でしたよ、って考えるのはつらいもんね。誰だって、自分だけ損するのはイヤ!って思ってるのに、一方的に負債を負わせられるなんてとても耐えられない。それで「あれは(マイナス面もあるかもしれないけど合計では)プラスだったんだ」っていう理屈を立てて自分を救済するの。「体罰は有意義である」っていう命題を真にする理屈を導くのは簡単だよ。実際どんな命題でも真であることを論理的に導くのは、仮定の設定次第でどれだけでもできちゃうからね。
 そうやって正しいとちゃんと言える上に、命題を真に据えたおおもとのプロセス(損得勘定)自体は無意識の側にあるから、本人としてはけっこう本気で「体罰は必要だ!」って主張してたりする。なにせ自分の身の安全がかかってるからね。


 それで学校の先生や顧問やコーチになったら、もう実践するしかないよね。そいで「これは子供たちのためなんだ!!」って言うし、その理由もしっかり説明できるし、本人も本気でそう思って、走り込みさせたりビンタしたりするんだ。でもその実、自分の身を守るためだったりする。


 という感じで、次世代に体罰やしごきが伝播する理由をそれなりに考えてみると、じゃあ最初はなんで発生するのかって話をしたくなるのが人情だよね。ドミノを並べたら、やっぱり先頭のドミノを倒したくなる。数学的帰納法っぽいかんじで。




 一方で、自分は体罰を受けたことないけど「必要だ!」っていう人もいるね。あれはなんだろう。
 誰かが説明した「体罰は必要な理由」に納得したから、そう思うようになった? それはどうかな。同じように「体罰が不要な理由」っていう言説(実際に調べたら体罰とトップアスリートになることに相関がなかった、とか?)がいっぱいあるのに、それらを斥けて「必要」説を選んでるんだから。最終的な結論が自分の好みにあわない言説を、人はほとんど無意識に斥けちゃうもんだしね。
 前提の底の底まで疑ってたどり着いた地点で、改めていちばん妥当性の高い前提を意識的に選び直し、その上で得られた結論を尊重するってやり方じゃない。自分の今の好みに合致した結論を導いてくれるような論理をその場その場であてがってるだけなんだ。かなしくなるけど、前者より後者の態度の人の方がずっと多い。


 それじゃあ何で「体罰は必要だ」が「好み」になっちゃうんだろ。
 たとえばこんなのどうかな。
 もし「誰かを殴ってもよい」と言えば、それは即座に「自分が誰かに殴られてもいい」が伴う。それは、今の社会が「誰かが特別ではありえない」、「相手と自分は同様である」という仮説を採用して成り立ってるからだ。それだから無条件で「とにかくこの人たちはやってもいい、でもこの人たちはだめ」というルールは作れず、根元では「全員OK」か「全員NG」のいずれかしかない。で、よりローコストな「みんな誰かを殴ってはいけない」が採用されてる次第。
 そいで(ああ、めんどくさい。もうこいつ殴って黙らせたい)て思う場面が訪れてもそうした制約があって殴れない。ああ、息が詰まる。どこかに、一箇所でも「殴ってもいい、それも、一方的に」の穴があれば、息苦しさもやわらぐのに……そんなときに目の前に「体罰」が現れると、それを呼吸孔として利用したくなる。そして正当化する理屈を用意して、「体罰は必要だ」と言ってしまう。
 実際に自分が体罰できる立場にいるかどうかが問題なんかじゃなく、制度の中に可能性として「一方的に殴ってもよい」場合が存在していることだけで救われてるんだ。こんなに息苦しい制度に押し付けられてるけど、呼吸孔はあいてるんだ、っていう希望。こっちはこっちで、自分自身の救済になっているという。


 体罰を許容する雰囲気の残存が、欧米より日本の方がもし大きいのだとすると、ひょっとするとこの辺が効いてるんじゃないかなと思ってる。「殴ってはいけない」の制度(根本的には「相手と自分は同じ」という制度)を押し付けられたものだと思ってるから息苦しいし、免れたくなるんだ。そうじゃなく底の底での意識として、押し付けられたわけじゃなくて自分たちがすすんで選んだものなんだって思ってれば、そもそもそんな息苦しさも感じないし、免れようとは思わない。
 市民が自分たちで帝政を破棄して共和制に移行した=「誰かが特別ではありえない」という制度を市民が自ら選んだ国じゃなくて、そうした国から制度だけを輸入して(実際「誰かが特別ではありえない」を破る存在として天皇も残したまま)お上が文字通りみんなに押し付けた国との差が、遠くから今でも効いてたりすんのかな。




 ただ、ここまでの話は「ドミノの先頭が置かれる」までの話であって、実際に「ドミノの先頭が倒される」にはもう一段階必要だよね。「体罰は必要だ!」って思うに至ったところで即「よーしレッツ体罰!」となるわけじゃない。実行できる環境が必要だ。
 相手の反撃が難しく、相手に逃げ道がないような場、安全に一方的に殴れそうな場(ちょうど学校の部活みたいな)が目の前にあってようやくレッツ体罰なんだろう。
 もし「ドミノの先頭が置かれる」ことがさっき見たようになんか業が深くて防ぐのが大変なら、「ドミノの先頭が倒される」を防ぐことをとりあえず考えた方がいいかもね。環境を作らないようにするという。
 でもよく考えると、「相手(生徒)の反撃を難しく」してるのって、周りや本人が(多少は体罰もアリよね……)と思ってる雰囲気のせいだったりする。それって同じプロセスが、ドミノの先頭を置かせていて、同時に、先頭を倒す後押しまでしてるっていうことだ。結局、あの「好み」になっちゃう理由、呼吸孔をあけてしまうあのプロセスを解消する必要があるのかと思うと、かなり先が長い。


 でも無意識で全く由来がわからない「好み」を解消するのは難しいけど、どこに由来してるのか筋道がわかればそれだけでもう「好み」が消えたりする。由来がわからなければその「好み」を捨てたときに自分が無事かどうかが分からなくて不安で捨てられないけど、筋道がはっきりして自分にとっての位置づけが分かれば安心して捨てられることもある。
 そういう点で、上に示したような実証性に欠けてふわふわした筋道でも、(でもなんか、体罰ってあってもいいような気はするんだよね……)くらいの気持ちは解消できるかもしんないから、ないよりはマシだと思ってる。実はぼく自身が(体罰って必要性がないよな)と思いながら(でもあってもいいかもしんない)みたいな気分がどうしても残ってたから、なんだこれは、って考えてたの。そんで今は留保なしにいらないと思えて、さしあたってすっきりしてる。