やしお

ふつうの会社員の日記です。

トレーニングしだいで同性愛者になれるかもしんない?

 オスメスで交配して子作りするのが動物の自然なんだから、異性愛が自然で同性愛は不自然、って言われ方は根強くあるけど、それってほんとかなとずっと前から思ってる。実感としては、言われるほど同性愛って生得的なものじゃないと思ってる。例えばトレーニング(?)をすればありゃりゃってくらいあっけなくどっちも平気になれたりする部分があると思ってるんだ。
 それは自分の経験で、はっきり途中までホモって変! きもちわるい! みたいに思ってたのに、いつの間にか同級生の男子とのあれこれを積極的に想像してた、ってのがあったから特にそう思うんだ。


 マラソンの有森選手と夫のガブが会見して、ガブが「アイワズゲイ」って急に言ってみんなびっくりしたやつあったじゃん。あのとき「ゲイって何?」って親に聞いて、男の人が男の人好きになるってことあるんだ! ってようやく知った。11歳。それまではそもそも考えたことすらなかった。そしてその時点では男同士なんて変だよねーって思ってたのは確かだった。
 それで中1か中2くらいまでは好きな女子いて、たしか中2の途中くらいからは好きな男子いたから、その辺で変わってるんだ。


 他の誰といるよりも楽しいって思えるくらいに仲のいい同性の友人や、耐え難いくらいのあこがれを抱く身近な同性の知人がいたとするでしょ。そんときに、ひょっとしてこれを恋と呼べるんじゃないか、っていう思いつきが出てくるとする。いやいやないない、ってすぐに否定せずに、真剣に点検してみたときに、どうも不可能とは言い切れないって側に転ぶ、恋と呼んで特に不都合が生じないことに気づく、みたいなことはそれほど不自然なこととも思えないんだけどどうでしょうか。
 せっかく思いついても、同時に浮かんだ嫌悪感を信じてすぐ否定する動きが入っちゃうからなかなかみんな点検まではたどり着かないんじゃないかな。
 そうした嫌悪感が当時の自分に働かなかったのは何だろうってことを考えてる。


 それで思い出したのが2つあって、トレーニングというか慣れの話と、思想の話。
 慣れってことで言えば貯めてきたお年玉はたいて中2でパソコン買ってネット始めたのがかなり大きかったと思う。年の近い兄弟もいなくて両親や友人と性的な話をできる性格じゃなかったから、そうしたあれこれをネットで覚えたりしてた気がする。
 たぶん最初は、同い歳くらいの男子の身体ってどうなってんのかなっていう性的未満の興味からスタートして、そっからエスカレートしてったんだと思う。例えば当時、男同士のセックスでちんちん肛門に入れるって初めて知ってドン引きしたのを覚えてる。でもあれこれ調べてみると、どこでもそれが普通のこととして扱われているからそのうち、そういうものなんだって慣れてきたんだよ。そういうトレーニング。


 思想の話で言えば、「性指向はそれほど生得的ではないと思ってる」と最初に書いたけど、中2,3くらいで大体そう考えてたってことがある。
 中1くらいのときある女子のことを好きになって、よくある話だけどそのきっかけが、人づてに「○○さん君のこと好きらしいよ」ってきいたことだった。当時、この「好き」ってのはウソじゃないのかなと思ってちょっと悩んでた。自分のこと相手が好きってわかってから自分が好きになるなんてずるくないのって。きっと何の理由もなく湧き出てくるのが恋!みたいな信心があったのかもしれない。
 それでたしか中2くらいで、恋愛は思い込みに過ぎない、好きだ好きだって思い込んでくから好きなんだ(自己暗示みたいな)、でもそれで構わないじゃない、ということになった。
 あとこれも中2くらいのとき、「ヒカルの碁」で中国留学までしたのに芽が出ずに(おれ引っ込み思案な性格だししょうがないよね)ってうじうじしてた伊角さんを、中国のお兄さん格の人が「性格はコントロールできるものなんだ!」って叱ってて伊角さん目からウロコでぼくも目からウロコみたいな経験があった。
 こういう恋愛思い込み説とか性格コントロール説があって、生まれつきだと思ってることも意外とそうじゃないかもしんない、先天的だって思い込みをなくして意識すれば自分でコントロールできることは思ってたよりずっと多いかもしれない、っていう認識がこれくらいのときに割とはっきりあった。


 そんなトレーニングや思想が、嫌悪感のハードルや、これを恋と呼んで不都合はないと思えるハードルを低くしていたんじゃないか。
 そうして「これは恋愛であるとする」って決めたところから、思い込みの作用でどんどん好きになってくわけ。もう聖域なくエッチなことどもの想像も適用していくわけで、ますます慣れが促進されていく。そうしたプロセスの結果、はれて同性愛者に(というか両性愛者に)なれたってすんぽうだよ。


 それで、たとえば医者が血に慣れるとか、ネットでグロ画像見続けてたら慣れてきたとか、そんなのと同じ程度に同性愛への嫌悪感も脆弱なんじゃないのと思ってる。一方で、そうしたトレーニングをしても慣れない人もいるって程度には強固なんじゃないの、とも思ってる。
 あなたの場合はちょうど思春期でタイミングがばっちりだったから平気になっただけじゃないかと言われると、それ以外の経験を自分では持ってないから何とも言えない。ただ二十歳すぎてから変わる人の事例も聞いたことあるしなーっていう。
 だから、だれか試してほしいな。大人になってトレーニングしてどこまでいけるかやってみてほしい。


 今はかなりそうしたトレーニングもしやすいと思う。ネットにも男の娘みたいなイラストいっぱいあるし。(とりあえずおっさん想定で話すすめる。)ちょっとずつ慣れてけばいいと思う。それでぼくがとなりで松岡修造みたいに「もっとだ! まだできる!」ってはげましてんの。
 とりあえずチューから考え始めたらいいと思う。そのうちイケメンのマックの店員見て、チューくらい平気だなって思えるようになると思う。すね毛やだなあ、とか思ってるでしょ。でもあっという間に、すね毛のこと好きじゃないけど、嫌いってほどでもないなってなる。よかったね!
 それでお前はふと気づくんだ。ずっと自分のことそばで応援してくれてたやつがいるじゃないか、って。
「俺、こいつのこと、愛している……!」
 それでお前がぼくに告白して、ぼくが「いや、そういうんじゃないから。」って冷厳と拒絶すんの。かわいそうなお前。松岡そういうとこあるから。


 そういう深イイ話はともかく、「みんなが思ってるほど生得的じゃない」とは前々から思ってたんだけどそれ以上深くは考えてなかった。でも1年くらい前に『ものぐさ精神分析』って本読んで、ああ、こんな風に考えることもできるのか! ってすごくびっくりした。同性愛も異性愛とさして変わりない程度に自然であり不自然だよ、みたいな話。ちょっと紹介するね。




 他の動物と比べると人間は、生まれてから生殖可能になるまでにすごく時間がかかる。12,3歳の思春期まで待たないといけない。でも性欲自体はそれよりずっと早く、生まれてすぐからあるって説(フロイト)がある。
 性交したい! でも身体が未成熟だからできない。この齟齬や不能感を解消するためにどうするかっていうと、「できないのは自分の無力さのせいじゃない」って言い訳できるようにするのと、性器に頼らない性欲解消法を開発するってことの合わせ技。


 1つめの「自分のせいじゃない」と幼児が思えるようにするための装置として、性的タブーが挙げられる。特に近親相姦の禁止はいろんな社会に存在するけど、それは最初に出会う異性が父母の場合が多いからなんだって。異性の親に性的な欲求を覚えても、身体の未成熟のせいで達成できない。でも「自分が無能だからだ」と思うのは本人にとってすごく辛いことだから、そうじゃなくて、外的な禁止があるからできないんだと思わせることで安心させる。そうした性的タブーは社会的な道徳なり、神話なりの形をとって現れる。
 赤ちゃんはお母さんとヤりたがってる、っていうと相当違和感あるけど、そう違和感を持たせられるように仕込まれてるんだって言われるとそうなのかなあって感じだね。
 ちなみに『ものぐさ精神分析』の著者は、そうした自我や身体の未発達に根差したフラストレーションは基本的に赤ちゃんや幼児にとって解決不能なんだから、その矛盾でむやみに苦しめるより、「言い訳」(性的タブー)を大人が用意して回避させてあげることは必要だ、ただし、そうした抑圧は多すぎても少なすぎてもいけないけどね、っていう立場みたい。


 2つめの、性器に頼らない性欲解消法を開発する話。
 性的タブーで抑圧しても性欲自体が解消されるわけじゃないから、性交以外ではけ口を見つけてなんとかなだめなきゃいけない。赤ちゃんから幼児になるに従って、口唇期、肛門期、男根期(まとめて前性器期)と進んでそれぞれのフェーズで典型的な性欲解消法が存在する。口にものを含む、なめる、さわる、うんこ我慢する、変なタイミングでうんこする、うんこ投げる、ちんちんを発見する(女の子が自分にないって気づくことも含めて)、ちんちんいじる、ものや動きへのなぞの執着、等々……


 そうした幼児期を経て潜伏期(だいたい小学校の間くらい)になると、自我の発達のおかけでそんなに一生けんめい性欲解消法をやらなくても性欲を押さえ込めるようになる。
 でもその後、身体的な成熟がくる(思春期)とたいへん。性欲がばくはつするから、自我で押さえ込めなくなる。なんとかしないといけない。


 もともと「性欲はあるけど生殖はむり」って状態をなだめるために、2つの仕掛けが施されたわけだけど、もう元の「生殖はむり」って条件がなくなった今となっては2つの仕掛けを解除する必要が出てくる。だってみんな「生殖せずに性欲を解消する方法」を知ってるわけだから、このまま放っておくと人類めつぼうだよ。
 それで今度は、男女で性交する方向へ再構築させることになる。そうした再構築を後援してるのが、社会や文化ってわけで、逆に言えばそうした必要から文化が誕生したって言えるのかもしんない。
 今いっしょくたに言ったけどバラすと、男女でペアになるように仕向けるってのと、性器を使用した性交へと向かわせるっていう2つを人工的に再構築しないといけない。


 男女でペアにするように仕向ける主要な装置が性差なんだ。男らしさ/女らしさ、男の仕事/女の仕事ってのが存在してるけど、それを遺伝子や身体的な違いだけから説明するのはごく一面的な見方だよ。それ以上に、男女結合のための人工的な仕掛けなんだ。実際、他の多くの社会とは男女の役割が逆転した状態で成立している社会も存在するみたいだしね。
 男と女は分離した半身なのであって、片割れは片割れを求めて結合を目指すものである、みたいな神話もわりとありふれているけど、それも男女結合の装置だっていう。
 男を男の枠に、女を女の枠にはめていって、男女がいっしょにいると有利になる環境に追い込んでいって(婚姻制度が有利にできてたり)、いつの間にか本人が自発的に「男女は一緒にいるのが自然なんだ」って思えるようにしていく。そんな装置なんだ。
 ちなみにどっちかっていうと男から女へ欲望が向かうように作られる傾向がある。社会や文化がその方向の強化に注力してきたのは、身体構造上、入れる側(男)が入れようとする方が、入れられる側(女)が入れようとするより簡単だからかもしんないとのこと。それで女が男の欲望を煽り立てるような役割を演じることになってたり、女性器を神秘的な幻想で飾り立ててみたりするのはそんなところからきてるらしい。


 幼児期に体験した「自分は不能だ」っていう辛さは、大人になっても根強くよみがえってきて「今も自分は不能かもしれない」っていう恐怖にさらされる。恐怖を感じてると本当におっきしなくなるから、これをなんとかして乗り越えさせないといけない。そうした内面的な恐怖を外在化させる方法もちゃんと存在してて、それが女の抵抗だという。女は「かーんち、セックスしよ!」とはあまり言わずに、「えー。でもぉ〜」みたいに最初こばんでからだんだん抵抗を少なくして受け入れてく、みたいなことになってたり、男が女を手に入れるのは大変、みたいな社会通念になってたりするのは、ハードルをわざと設けてそれを乗り越えさせることで「おれは不能じゃない!」って思わせて恐怖を克服させてあげる仕組み、お芝居だとか。
 処女が尊ばれるのに童貞が蔑まれてる通念もこういうとこから来てるのかもね。


 もう一つの、性器を使った性交促進の話。これは、非生殖的な性欲(前性器的リビドー)を、生理学的な条件や社会通念、文化などなどの後援を受けた自我(性器的リビドー)がなんとか押さえ込んでいくってバトルなんだ。
 ただしこのバトルは、どちらか一方が完全勝利して平定ってわけにはいかずに、「正常」と言われる人の場合でも前性器的リビドーは残ったままで、ただなだめすかしてるだけなんだ。例えば性交の中での前戯や空想は、前性器的リビドーをなだめてお茶をにごすためのもの。だって、おっぱいなでなでしてうれしい、って生殖にとって関係ないでしょ。おっぱいぺろぺろわーい! ってへんだよ。ふれる、なでる、口に含む、そうした前性器的リビドーを慰めながら、なんとか性器的な性交をしてるんだ。
 なだめきれずに前性器的リビドーが相対的に勝ってくると、フェティシズムサディズムマゾヒズム、ピーピングや露出症等々の形(性的倒錯)になって表れてくる。前性器的リビドーは消滅するわけじゃないから、思春期でなんとか性器的リビドーが相対的な勝利を収めても後から逆転されることも珍しい話じゃない。


 幼児期にどれだけ性的な衝動を覚えたか、どれだけリビドーを与えられたかが、このときの戦いで前性器的リビドーの強さに影響するらしい。女性より男性の方が性倒錯者が多い=前性器的リビドーが勝利する場合が多いのは、異性(母親)に育てられたために幼児期に性的な衝動にさらされ易いからじゃないか、っていう著者予想。


 そんなこんなで、性的倒錯や同性愛/無性愛その他が不自然だという言い方はできるとしても、それと同じくらいに「正常な」性指向も不自然だと言える、だって本能じゃなくて人工的に作り出してる結果なんだから、っていう話でした。


※これ、ぼくが理解の範疇でまとめなおしてるだけだから、気になる人は元の本を読んでね。もっといろいろな現象が説明されてて面白いよ。

ものぐさ精神分析 (中公文庫)




 自分のことで言えば、中学生のときに社会的/文化的な後援が少なかったってことかもね。というより、一般的な社会的/文化的とは別の後援があったというか。それはそれで矛盾を感じなかったし、今も感じてないからハッピーなもんだね。
 たまたまぼく自身はそんなに苦しまなかったけど、もし文化/社会との齟齬に由来する息苦しさを持っている人がいるとすれば、その苦しみを成立させるシステムを一つでも知れば、わけわからずに苦しむよりずっと楽になるんじゃないかなと思う。


 それでこういうトレーニングがどうとか、異性愛も同じくらい不自然とかの話をすると、この話の持ってる制約や限界、立脚点や文脈を忘れて無謀な利用法や誤解が出てきちゃう気がするから、今思いつく範囲でいくつかお断りしておきたい。


 「異性愛は文化や社会で人工的に再構成させてるんだ」っていうと、「そうした文化や社会が生まれてくるのも含めて自然なんだから、ホモはやっぱり不自然!」みたいに言い出す人がいそうな気もするけど、それに対しては「そうした複雑なプロセスを経る中でエラーが発生することまで含めて自然なんじゃなーい?」って言いたい。
 とりあえず見ておきたかったのは、思ってるよりそうした「エラー」が発生するハードルは低いらしいってことだ。異性愛/同性愛に関してだけじゃなく、もっと広範囲に性指向全般で垣根が低いみたいだってことだ。それで、自分は○○であり得たかもしれない、とリアルに想像できた方がいいんじゃないかなと思って。


 あと遺伝的/先天的な要素もあるでしょって言われたらそれはそうだろうなとぼくも思ってるよ。わりと最近「遺伝子のここの部分がこうだと同性愛者になる傾向がある」みたいな報告があった気もしたけど、別にそれと撞着する話でもないかなと思ってる。排他的に成立する説明だと考える必要も根拠もないしね。さっきの説明や遺伝的な説明に限らずもっといろんな説明も可能だろうし。
 どれだけ少ない仮定でいろんな現象を説明できるかでその説明/体系の妥当性の程度が決まるとして、その優劣を競わせて勝った方を「真実」と呼んで敗者を廃棄するのは貧しいやり方で、両方必要な時に使えばいいじゃないって思ってる。量子力学相対性理論が(その大統一理論が)あればいいんだ! 流体力学ニュートン力学も幾何光学もいらないんだ! っていうのはどうかな、使って便利な時に、その限界をちゃんと頭に入れた上で使えばいいじゃない、っていう感覚なんだ。


 それから「トレーニングで同性愛者になれるかもしんない」とか言ったときに、「じゃあ同性愛者をトレーニングさせて異性愛者にすればいんじゃね?」みたいな言説でてきたりすると本当に暗澹とした気持ちになるよ。そうじゃない。納豆嫌いの人に無理やり納豆食べさせたらだめみたいなもんだよ。
「健康にいいんだ食えコノヤロウ!」「やめとくんなはれ! やめとくんなはれ!」
 無理にでも食べてみれば平気になるかもしれないってことと、無理やり食べさせていいってこととは全く話が違う。本人が納豆食べられるようにチャレンジしてみようかなと思ってる、もしくは、本人が納豆食べられない自分自身に耐え難く悩んで苦しんでる時に、食べなくてもいいんだよって言ってあげるか、食べられるように手伝ってあげるとかならいいと思うけどね。
 お母さんが子供の好き嫌いなくそうと思って納豆食べさせるとしても、アレルギーがあるとか毎回泣いて戻しちゃうとかいう状態なのに無理やり食べさせ続けるんだったら虐待だよ。
 同性愛者を無理やり異性愛者にするのに反対なのと全く同様に、もちろん異性愛者を無理やり同性愛者にするのも反対だ。
 健康に生きていくべきである、生物は子孫をなしていくべきである、人類めつぼうしたらダメ、などなどの命題を客観的に証明することはどれだけでも可能だけど、それは意識/無意識にかかわらずその根元で主観的な何かを措定することなしには成立しない。それを忘れて、まるで手放しでそうした命題が普遍的に成立すると信じるのは愚かだし、往々にして有害だよ。


 あと最後に、異性愛者/同性愛者っていう言い方を続けてきたけど、そうしたカテゴライズはそんなに意味があることだとは思ってないんだ。正確に言うと、ある何事かを語る範囲で便宜上設定できるって程度のもので、いつでも無条件に存在するカテゴリなんかじゃない。射程距離は無限大じゃないんだよ、っていう感じ。
 生理学的な男女、心理的な男女、性指向その他の組み合わせで枠をつくって人をカテゴライズする意味がもしあるとすればそれは、はっきり限界を伴って存在するんだよ、ってこと。