やしお

ふつうの会社員の日記です。

せめて地獄を緩和する

 話しかけても無視されずに応えてもらえる、毎日罵倒されたり陰口を叩かれたりすることもない、自分の仕事が認められていると感じられる、自分が周りに信用されていると感じられる、自分の考える正義・不正義が周囲とおよそ一致している、悪が尊重されたりはしない……そうした環境で日々生きていけるのは、全く当たり前のことではない。そうした環境で、自分を肯定的にとらえて煩わされずに生きていけるのは恵まれた幸福だ。
 当人の実際の優秀さとは無関係に、当人と周囲の相対的な関係によってこうした生きやすい世界/生き辛い世界があらわれる。だから当人がある面で優秀だろうと、お前はグズだと周りから言われ続けて劣等感と屈辱にまみれて生きざるを得ないといった事態は、いくらでもあって実にありふれている。


 実にありふれていながら、それに触れていなければそうした現実を人は容易に忘れてしまう。
 ごく当たり前に自分自身を肯定して生きられる世界に身をおいてしまえば、そうではない世界を忘れてしまう。そもそも一度もあの不幸な環境に触れたことがなければ恐らく、実感として想像することが難しい。
 声をかけて無視され、聞こえていないのかと声をかけ直しても無視される、その瞬間のやるせなさを想像できない。面罵され自己を否定され、反発しても否定されるあのつらさがわからない。「つらい」という言葉を越えて、胸の辺りが苦しくなる身体的なつらさは、経験がなければ想像し難いのだ。
 その全身で浴びるつらさを人が日々課せられるというのはあまりに不当な境遇ではないのか。


 そんなつらい現実があるからこそ人は努力するのだと正当化する人は大勢いるだろう。しかし私はそうした言説に一切与しない。確かに逆境をばねに努力して成功した人はいるに違いないし、そんな彼/彼女を称賛するのにためらう必要はない。しかしそうだからといって、あのつらい日常を人に課すことを正当化するには及ばないはずだ。つらい世界を生ぜしめなくとも、人を努力に導く方途などいくらでも考え得る。
 奮起して成功する人々がいる一方、本人としてどれほど努力しても屈辱にまみれた現実から逃れられない人々がいる。前者の栄光のためにあのつらい現実を肯定して、後者は一生その苦しみを甘受して当然だと言うのだろうか。たとえば我々の親や子や恋人が屈辱と否定の日々におかれているとして耐えられるのか。自分の父親が、アルバイト先の職場で罵倒され陰口を叩かれる毎日を耐えていたとして、そうした環境と、それを作り出した人々に憎悪を覚えずに済ませられるのだろうか。当人の努力の埒外にある資質の不足のために、一生そのつらさに甘んじる現実を肯定できるのだろうか。
 私にはそれがあり得べき態度とは到底思われない。
 為政者にせよ誰にせよ、成功の糧のためにあの地獄に似た現実を肯定する者たちは、その中に生きるときの苦しみ、もはや肉体の痛みを伴うほどの精神の苦しさについて、実感と想像力をまるで欠いている。


 例えば中華料理屋の日本語が下手なウェイトレスも、自分よりはるかに知的水準の高い留学生かもしれない。スーパーのレジの覇気のない男子学生のアルバイトも、数年後には立派な技術者(覇気はない)としてメーカーで働いていたりするかもしれない。そうした想像によって、この人間は自分よりも下だと無意識に安心して見下すところからくる罵倒や苛立ちを抑えられるのなら、そうすればいい。
 さらに彼女や彼が別の面で優秀かどうかとは無関係に、仮にあらゆる面で彼らが自分より劣っていようと関係ないのだと気づけばいい。彼らは私の親や子どもや友人や、あるいは私自身であり得た誰かなのだ。
 そうして、私の時間や手間を奪ったこいつは私に罵倒されてしかるべきなのだ、などといった懲罰的な意識を捨てられるようになればいい。その「しかるべき」の自明性を疑うこと。幼児のように気にくわないものに何の疑いもせず即座に怒りを覚えて声を荒らげ、あるいは怒りの裏返しの冷笑を浴びせかけ、その貧しい心を慰めるような振る舞いを慎むように、想像するのだ。
 この現世の地獄が地上から根絶されるなど見果てぬ夢に違いない。しかしそれは、無限遠の目的を措定してそこへ向かう運動自体を否定するものではない。


 これは、叱責や無視にさらされる屈辱的な日常がどこにでもありふれていて、自分が今そうでないのは偶然でしかないという現実を忘れないことと、せめて私がそうした日常を他人に強いないようにするという個人的な方針についての話である。