やしお

ふつうの会社員の日記です。

いい物を作れば批判も気にならないなんて嘘

 数日前に「進撃の巨人」の映画で、プロデューサーが「ハリウッド映画でも見てろ」みたいなことを毒づいて軽く炎上した、といった記事のはてなブックマークで、

金さえあったらとか、嫌々作ったから、批判されたきっかけに、本音が出たんやね。低予算なら低予算のプライドもって作れば批判なんて気にならないはず。問題は自分も最高のもの作ったって思えてないこと。

というコメントがたくさん星を集めて「人気のコメント」の2番目にあった。
 脱力しながら、でも、自分で真剣に物を作って公開したことのない人にとっては割とそんな風に見えてるんだろうなと思った。

スルースキルが向上しただけ

 批判を浴びても一々反論せずに、黙々と作り続けているような作家たち(映画作家でも小説家でもデザイナーでも何でも)がいる。特に著名であればあるほどそうだろう。そうした人たちをただ外側から見る分には「本当に自信があるから、批判なんて気にならないんだ」という風に解釈することも可能かもしれない。
 しかし解釈の仕方は他にいくらでも考えられる。「ものすごく腹を立てているけれど単に黙っているだけ」とか、「もうそうした批判を一切見ないようにしている」といったスルースキルが単に向上しているだけだ(当人の自信の有無は関係ない)という解釈だってある。私はこちらの方が妥当性が高いと考えている。


 物を公開してある程度の人数に見られると、どうしても謬見や無視に基づく見当違いの批判にさらされることがある。それが批判の内容自体は間違っていないが、そもそもこの作品には妥当しないような批判だと、「その批判は正しいし、妥当である」と勘違いしていく人が量産される。
 例えば「このリンゴが甘い」と発言したら「甘い果物はリンゴだけじゃない」と批判されたりする。確かにそれはその通りなのだが、そもそも「甘い果物はリンゴだけだ」なんてことは言っていない。批判の内容自体は正しいが、そもそも妥当していない。にもかかわらず、元の作品を自分の目でよく見もせずに、「そうだそうだ、甘い果物はリンゴだけじゃないだろ!」と乗っかっていく人たちが増殖していく。
 作り手としては「そんなこと言ってないのに」、「それはちゃんと言ってるのに」と反論したくなるのは当然だ。身に覚えのない罪を被せられればそそぎたい。自作に真剣であればあるほど、自信があればあるほど、「そうじゃない!」「正当に評価してくれ!」という思いは強まる。それで丁寧に反論してみたところで、彼らにはほとんど届かないのだ。元の作品をまともに真剣に見ようともせず乗っかった人たちには届かない。あるいは感情的に反発してみれば彼らに届くが、あのように「真剣に作っていないから感情的になるんだ」などと言われる。


 作品を作って公開し続けている人、著名な人というのは、そういう事態にさらされる機会もおのずと多くなる。蹂躙され、腹を立て、疲れてぐったりする経験を何度も味わう。こんな徒労には耐えられない。その状況下で、もう耐えられないから作るのをやめるという選択肢ではなく、その徒労に割くリソースを排除して作り続けるという選択肢を取ったのが彼らなのだ。
 彼らは黙っているか無視しているかしているというだけで、「自分も最高のもの作ったって思え」る自作に見当違いの批判を下している人を見れば(馬鹿が、読めないんだったら黙ってろ)くらいのことは思っていたりする。という想像の方が「何とも思わないから何も言わない」という解釈よりよほど自然だと思う。


制約を無視した批判

 「低予算なら低予算のプライドもって作れば批判なんて気にならないはず」と言うが、そんなことはあり得ない。ごく単純な想像をしてみれば十分だ。
 例えば「冷蔵庫にある余り物で何とかしてよ」、「30分でお願い」と言われたとする。それでなんとか4品ほど作ってみせる。30分で、この材料ならずいぶん良くできたと本人は満足している。しかし第三者の素人がやってきて「こんなの全然ダメ」と言う。「見た目の華やかさがない」、「食器が食欲をそそらない」、「食材が良くない」など好き放題抜かして、その上勝手に食べログに投稿する。そしてまだ食べてもいない人たちが食べログの投稿を信じてどんどん批判してくるのだ。それを目の当たりにして「気にならない」なんてことは、イライラせずに済むなんてことは、あり得るのだろうか。


 あらゆる物作りには制約が伴う。時間的、予算的、人員的、設備的な制約や、あるいはそもそもそのジャンルが不可避的に課せられる制約、例えば映画なら「フレームが存在する」とか、小説なら「言葉で書かれる」とか、あるいは「始まりと終わりがある」といった制約だ。さらに作り手側が自ら設定する制約もある。作品を作るということは、そうした種々の制約に対してある種の回答を与えるということだ。それらの制約を誠実に引き受けた上で、最大限豊かに何ができるかを作り手側は考える。
 まともな批判とは、そうした制約に対していかに作り手が誠実であったかを問うようなものになる。あるいは選択された制約それ自体が妥当であったかを問う。そんな「まともな批判」であれば、そしてその批判が妥当するのならまだ構わない。ところがそうした制約をまるで無視した批判をぶつけられるのだから作り手としてはたまらない。「低予算なら低予算のプライドもって作」った結果が、潤沢な予算を背景に作られたアクション映画と比べてあれがないこれがないという批判にさらされる事態だとしたら、「きちんと制約を踏まえた上で『何をしたか』を見てくれよ」と思うだろうなと想像はしても、「気にならないはず」とは想像し難い。


 もちろん観客は同じ1800円を払っているのだから、予算が潤沢なハリウッド映画だろうと、そうでない日本映画だろうと同じ土俵に並べて見比べて好き勝手に言う自由はあるはずだ、と言ったって構わない。そんな制約の違いなどお前たち作り手側の事情であって、我々の知ったことではない、と言うことはできる。それは全く正当な消費者感覚である。
 ただし、種々の制約がどこにあるのか、そうした制約は妥当なものか、また制約に対して誠実に作られているか、という批評の要諦を放擲すると宣言した以上は、作り手側の制約に対する意識を云々するのは全く不当である。制約を無視した非難を浴びせられ、「そうじゃない」と叫ぶ当人に向かって、「お前が制約にプライドを持って作らなかったからだ」などと言い放つのは全く笑止の沙汰でしかあり得ない。


お山の大将になれというむなしいアドバイス

 ここまで「自信があれば批判も気にならない」以外のあり方ばかりを考えてきた。逆に「自信があれば批判も気にならない」がどうしたら成立するのかも考えないと片手落ちだ。「自信」って何? 「批判が気にならない」ってどうやって? を考える。


 自信、自分を信じるというのは、残念ながら独立して成立することはほとんどない。他人からの相対的な肯定に支えられていなければ自分を信じることは難しい。自分一人で「自分はサイコーだ!」とはなかなか確信できず、「本当にサイコーだろうか?」と不安に怯えることになる。それでいながら、その不安を不安のまま生きることもまたできずに「自分はサイコーだ!」と何とかして思おうとする。
 どうも「自分は確かに意味のある存在だ」と思わずには生きられない。人にとっての所与の条件と見なさざるを得ないほど強固な欲求だ。


 きちんと自作を肯定してくれる他人がそれなりにいて、しかもその他人を信頼できているなら、自信が形成される。(さすがにとんちんかんな誉め方だなあと思う人に褒められても自信の形成は難しい。)そしてそのうち、そうした他人を内面化していくことで現にその他人がいなくても肯定を形成できるようになっていく。あの人(たち)はこれをきちんと肯定してくれるはずだ、という確信が事前に持てるようになっていく。さらに進むと、多面的にあの人(たち)を自己の中で統合して、なにか「最高の受け手」のようなものを想定できるようになってくる。果たしてこの自作が「最高の受け手」にとって満足のいくできであり得るかどうかというチェックができるようになる。そして「間違いなくこの作品は『彼』にとって満足のいくものだ」と確信できれば、たしかに自作に自信を持っているという状態だろう。(晴れてそこまで到達したとしても、どうしても時々は現実の信頼できる他者に肯定されないと不安になるが。)


 ここまでこれば、見当外れの批判を受けても「彼らに何を言われたところで大丈夫だ(だってあの人達が/自分の中の「彼」が正当に評価してくれるから)」と思えるだろう。ここには確かに「自信があれば批判も気にならない」が実現している。
 ただしこれは、作品の良し悪しとはまるで関係がない。
 実際、狭いコミュニティの中でちやほやされて付け上がり、外部の批判を一切取り合わない人というのはどれだけでもいる。作品の良し悪しがどこで担保されているかと言えば、作者が「自分も最高のもの作ったって思えて」いるかどうかにでは全くなく、作者が検証に用いている「自分の中の最高の受け手」がどれだけ高度で多面的かという点と、作者がどれだけ「自分の中の最高の受け手」による検証に自作をさらしているかという点にかかっている。要するに創作者たる自身に、批評家たる自身をどこまで突きつけているかという話だ。(まるで本人の中で批評が機能していないのに傑作を作るという人もまれにいるが、それはただの天才です。)
 「問題は自分も最高のもの作ったって思えてないこと。」と言うのはとどのつまり、「お山の大将にでもなっていればいい」と言っているのと変わりがない。「製作者が感情的な言辞を公表して炎上したこと」を「問題」として捉えるなら、確かに「お山の大将になれば批判も気にならなくなりますよ」という提言も適切かもしれない。しかしその適切さは一体何なんだ? 「耳をふさげば聞こえなくなりますよ」と言ってその正しさに満足することの一体何が、この世を豊かにするのだろうか。



 そういうわけで、念のため真剣に考え直してみたけれどやはり、「プライドもって作れば批判なんて気にならない」、「問題は自分も最高のもの作ったって思えてないこと」という言説は、控えめに言って無意味であり、素直に考えて的外れとしか私には思われない。しかしそうした無意味ないし的外れの言説が一定の共感を呼ぶのである。これは一度、何かを真剣に作って公開したら、有ることを無視され、無いことを捏造され、その上で不当に批判される、それが拡散していくという体験をしてみるのが実感としてよくわかるだろうと思う。




 ところでこうしたことを書くと、「こいつは映画の『進撃の巨人』を評価している」とか「あのプロデューサー(の言動)を肯定している」とか言われるのだろうなと思う。そんなことは一言も書いてなくとも、否定の否定を即座に肯定と誤認する罠に、人はいともたやすく捕らわれてしまう。