やしお

ふつうの会社員の日記です。

分かり合えないのならば住み分ける

 無意識のうちに自分の感情に沿うように論を組み立てている人には、説明や説得を放棄して接触点を可能な限り減らすようにしている。
 どれほどこちらが冷静に、丁寧に説明したところで、その説明が合理的かどうかではなく自分の感情に合致するかどうかでしか判断されないのなら、合理的な説明を積み重ねても、相手の理解を手助けしようとも、時間と労力の浪費をもたらすだけだからだ。


 電車で隣の人が急に「肩が当たる」と怒鳴りだせば、黙って席を立つ。床に書かれたレジ待ちのラインとは別に並んでいた人が「先に並んでいたから」と声を荒らげて入ってこれば、黙って後退する。相手を睨みつけたり反論しようとしたりせず、不満気な顔も羞恥の裏返しの笑いも浮かべたりせず、ただ無表情で回避する。周りに腰抜けと思われても関係がない。穏やかに要求を伝えれば済む一言目から、すでに怒りを露わにするという態度を選択している者には十中八九説明や説得は無意味だ。
 残りの十中の一か二は、要求を通す効果を狙って完全に自覚した上で戦略的に怒りを演じている者であり得る。そういう者たちを「ヤクザ」と呼び、ただ感情に論が振り回されている者を(例えサラリーマンでも)「チンピラ」と呼びたい。後者は当初の自分の要求が通っても感情が収まらなければさらに絡んでくることがある。その場合はできるだけ警察などの暴力を背景にした第三者をすみやかに間に挟むように注力し、対話や弁明には活路を見出さない。


 あるいは「フクシマ」や嫌韓などの主張で誰かにネット上で絡まれたりするかもしれない。十分な論拠を持って論じている人かもしれないし、あるいは単に偏った情報から判断している人かもしれないから当初は自らの立脚点を説明したり関連する情報を提供していけばいい。その過程で相手が感情に論が支配された人だと判明すれば早々に説明を打ち切る。もし自分の立場を論拠を含めて十分に表明しているブログ記事や、代弁してくれる本などがあれば、そのリンクを貼って「私の立場はこの通りです」と返し続けて対話は閉ざす。


 しかし具体的に私の仲間の利益が阻害される/被害を受ける場面においては、そのように回避することが難しい。友人が電車で難癖つけられて放っておけないし、自分の後ろに人が並んでいる列に割り込ませるわけにはいかない。あるいは仕事上で感情論拠型の人と付き合わざるを得ないかもしれない。
 そのときは例えば、人数で圧倒するとか第三者を立てるといった方法でやり過ごす。仕事なら上長なり同僚なりを巻き込んでいく。もし自分が相対する場合でも、ただ相手の感情を納得させればいいだけだという理解を常に持ち続ける。相手の感情と自分側の利益が両立、もしくは妥協できる道を探る。正しさで黙らせようなどと考えてはいけない。


 感情論拠型の人々を見下しているのではない。彼らを教化したいわけでも、間違っているといいたいわけでもない。そもそも二分されるグループというより、グラデーションだと思えば、自分自身も感情から自由になっているわけではない。ただ、感情を元手にした後で、それを検証する態度をどの程度持っているかの差があるだけだ。
 「正しいこと」を「自身の感情に合致すること」と結びつけるか、「演繹的に誤りがなくまた合理的であること」と結びつけるかは、イデオロギーの問題であり、(本人にとって選択的ではない種類の)選択の問題である。そうであるからこそ、その根本の部分で相手と衝突しても、ほとんど互いにとって不幸な結果しかもたらさない。イデオロギーの押し付け合いを不毛に繰り返すより、住み分けたほうが実際上、幸福を最大にできると考えているだけだ。