やしお

ふつうの会社員の日記です。

「可愛さあまって憎さ百倍」の自己防衛

 何かに飽きる際、ただ無関心にはならず、批判的な態度をとったり強い拒絶や回避を示すことがある。対象への思い入れや関心が強ければ強いほど、あたかも反動のように、その後の冷淡な態度もまた強力になる。かつて好きだったものだというのに、穏やかな付き合い方へと移行できないのはなぜか。


 戦場カメラマンや塾講師が、特異なキャラクターで人気を得てテレビに出演する。しばらくすると「テレビに出過ぎ」だの「本業に専念しろ」だのといった批判を口にする人たちが出てくる。本人は何ら変わっていないのに、人々の態度が変わってしまう。
 中学生の頃に大好きだった歌手がいるとする。全てのCDやDVDを集めて全ての歌をそらで歌えるほどに愛している。ところが高校生になると、嫌いになったというわけでもないのに、一切聞かなくなってしまう。頻度が少し減るのではなく、絶無に近くなる。まるでCDに手が伸びなくなって、考えることすらどこか苦痛なのだ。数年たってようやく久しぶりに聞いてみると、やはり歌自体を嫌いになったわけではないと感じる。
 面白がっていたもの、好きだったものに飽きるのは仕方がない。しかし飽きた後、それを回避しようとしたり、回避できずに突きつけられる場合は怒りを感じて対象を非難したりするのはどういうわけだろうか。


 私はそうした反応を、自己防衛の一種だと見做している。そこには根元に、人には整合性を保ちたい欲求がある、という仮定がある。
 人が何かに関心を寄せる。しかし次第に慣れから来る飽きによって面白さを感じにくくなる。このとき「それを好きだった過去の自分」と「それを好きではない今の自分」の間に不整合が発生する。その不整合が実際には時間経過による慣れが引き起こしているものに過ぎないとしても、そのことに自覚的でない場合には、この差が不快な齟齬として残る。不快さから免れるために、その対象を遠ざけて触れないようにし、齟齬を忘れるように無意識に努めてしまう。
 あるいは齟齬の発生要因を理由づけ、整合性の回復をはかることでこの不快さを解消しようとする。このとき、自らを責めるのは苦痛なため、対象を責めるのである。何かを非難しようと思えば、前提の設定のしかたによっていくらでも「正しく」非難することはできる。そうして「テレビに出過ぎ」だの「本業に専念しろ」だのといった、理由にもならないような理由で責めるのである。
 元の関心が大きければ大きいほど、失われたときとの齟齬が大きくなるために、より強く回避しようとしたり非難したりする。


 これがテレビタレントなり歌手なりに対して起こる場合はともかく、子供や恋人や配偶者や後輩など、現に構築されている人間関係に対して起これば悲惨である。
 夫に対してタオルの畳み方や歯の磨き方といった些細なことで文句をつけ始める。夫の側からすれば以前から何一つ変えていないのに、急にあれこれ非難されて不愉快である。実際のところは、妻が夫に飽きたというだけの話なのだとしても、当人らがその根本原因に気づけなければ、非難のための非難への対処療法を続けるばかりで、また別の非難を持ち出されて一向に改善することがなく、お互いに苦痛の中に居続けることになる。
 とても可愛がっていた後輩と急に疎遠になる。あれほど頻繁に出掛けたり食事をした相手だというのに、なんとなく顔を合わせたくなくなる。それだけで済むならまだしも、それが直接の上司で、後輩のどこか粗を探して評価を落とし始めるといったこともあるかもしれない。後輩の側からすれば突然の相手の心変わりに困惑するばかりだし、それで仕事や周囲との人間関係に支障をきたせば迷惑である。


 この解釈が真実であるかどうかは私たちにとって問題ではなく、そこに実効性を認めたときに採用すればよいだけの話である。
 何か大好きだったものが急に嫌になったときに、それを相手・対象の側の問題だと考えるより、自分の側の問題でしかないと見做した方がはるかに楽だし実りが多いために、私はこうした解釈を採用する。相手や対象の問題だと考えれば、その対象を責め続けなければならない。これはその対象にとって気分のいいことではないし、それで対象が改善したり変化したりすることはあまり期待できない。その上自身にとっても他者を責めて軋轢を生むのはストレスフルである。一方、自身の問題だと思えば、自身に働きかければ済む事であり改善も容易である。関心が過熱すれば揺り戻しが訪れると知っていれば、適度な距離をとって上手く付き合うこともできる。
 他人を動かすより自分を動かす方がはるかに簡単で、結果的に他人を動かす近道であることを思えば、そうした構造を導くような解釈を選択する方が賢明だろうと思われる。