やしお

ふつうの会社員の日記です。

この視界を更新する

 友人なのか恋人なのか決めないと気がすまない人がかなりいる。気がすまないというより、友人か恋人か排他的に決められるとまるっきり信じこんでいる。
 私が知人との関係性について書いたおブログの記事に、ツイッターで「もしかして:ホモ」と書いている人をこの前見かけて、そういえばと思い出した。
 自分がいて、他人がいれば、その二人のあいだには唯一無二の関係性が生じる。しかも世界で唯一なだけでなく歴史上唯一で、その瞬間、瞬間で変化していってしまう関係性。でもその関係性を同僚、親子、同級生、友人、恋人……と類型化することで、うにょうにょ動く千変万化のなにかを把握できるようにしている。
 そうやって便宜的にカテゴライズしているだけだ、ということをすっかり忘れて、そのカテゴリに振り回されてしまうのだ。既知のカテゴリに当てはまらないものなんて存在しないと思い込んでしまう。それで、「男女間に友情は成り立つのか?」というあてのない議論も可能になる。


「告白」という独特の制度もかなり密接にかかわってる気がする。「告白」の儀式を通過することで正式に友人から恋人になるという制度のおかげで、友人と恋人は線引きされるものだという思い込みを強めている。
 年末に地元に帰ったとき、小1の甥っ子が同級生からラブレターをもらっているのを発見した。世間話(?)のあと、わたしが好きなのは○○くんです。と書かれていた。しかし付き合ってほしい、デートしてほしい、といった要求事項はなかった。
 こんな小さな子でも、すでに制度の模倣が始まっている。それを模倣というのは、目的が失われて形態だけがなぞられているからだ。まずは形を覚えて、そのあとで実態を伴わせていく。「告白」という制度だけが先行するのだから、友人から恋人に切り替わるものだ、という思い込みはかなり手ごわく人を縛っていくんだろうなと思った。もちろん本人は真剣だし、その小さな胸のなかの真剣さを思うとあたしなんかうれしくなってくるけど、それとは別に、思い込みがあるってこと。


 似たような話に、「正しい日本語」「まちがった日本語」というのもある。
 日本語だってその瞬間、瞬間でどんどん変わっていってしまううにょうにょした何かでしかない。でも「うにょうにょしてんねー」と見てても把握できないので、なんとか把握するために、辞書を作ったり、文法体系を組み立てたり、方言間の差異を見たり、いろんなアプローチで迫ってる。
 だけど、それで上手に把握できちゃうと、今度はその把握の仕方を「これが正しいあり方」だと思い込んでしまう。「それ以外は間違ってる」と思い始めていく。そうして「この日本語は間違ってる!」と怒りはじめちゃうんだよ。自分の日本語の体系がまずしいだけなのに。
 もちろんある目的や仮定に対して「より忠実な運用」「より正確な実践」というものは存在するので「こう書くべき」というのは言える。だけど、規範的な言語が実在したことなんて歴史上いちどだってなかった。
 たとえば物理学を想像した時に、理論と一致しない現象を見て「現象が間違っている」なんて言うのはおかしな話だ(測定が違ってる、ならわかる)。理論の方が十分に現象を説明できていない、と考えるのが自然だと思うけど、それと同じことだよ。


 そうした類型化にふりまわされるみたいな話はいくらでもある。「本能だから」、「人生には目的がなければならない」、「信号無視はいーけないんだーいけないんだー」……
 思い込んでいると結構くるしい。本能だからしょうがないと思えば、もう行動の選択肢がなくなる。人生には目的がなきゃダメだと思い込んでいれば、目的がないって苦しんだりする。信号無視をしてはならないと思い込んでいれば、信号無視して渡る人に、俺は我慢してるのにあいつずるい! と恨みがたまっていく。
 子供のころにこうした刷り込みが行われることで社会に適応していく。異性に対する欲情は自然なものですよ、将来の夢を書きましょうね、交通ルールを覚えて守りましょう。それは社会に適応するために大切なことだ。だけど、それをいつかどこかで引き剥がさないと苦しくなっていく。
 類型化、体系化は必要だ。だいたい、それなくして世界を把握することなんてできない。だけど、把握した瞬間、豊かなうにょうにょを箱につめちゃった瞬間、ものすごくたくさんの部分がぽろぽろ零れ落ちてる。その零れ落ちたものをなかったことにして、矮小化した世界の中でつらい思いをし続けるのはいやだ、ってことだ。


 そうした思い込みをなんとか引っぺがすコツは、疑い続けることにしかないと思う。「私はこう感じた」に対して「どうしてそう感じたのか」という疑いを突きつけ続けていくと、いつか選択的な箇所に到達する。そこで「そうか、自明に存在するわけじゃないのか」とわかる。それは「どうやってそんなルール/カテゴリ/体系」が生じたのかと経緯や起源を問うことだ。なるだけ色んな分野でそれをやってみる。
 めんどくさそうな作業だし、実際めんどくさいししんどい。だけど、(そうか、自分はこんな思い込みしてたのか)と知るときの快感は一度味わうとやめられなくなる。それは確かに、世界の見え方が変わるというよろこびだ。


 個人的な体験で言えば、8年前、21歳のときに「客観的な真実なんてない」、「主観的な選択の上にみんな成り立っている」という認識に至ったときが生きてきた中で一番おおきな思い込みが剥がれる体験だった。大げさじゃなくて本当にいきなり世界の見え方が変わったという体験だった。当時その辺のことを書いたもの↓
・「楽をしたいだけ」 http://ojohmbonx.hatenablog.com/entry/20070209/p1
・「引かなくていいかもしれないボーダーラインを引くことしか頭にない人たちを減らしたい」 http://ojohmbonx.hatenablog.com/entry/20070617/p1
(今読み返すと自意識のコントロールが下手すぎて嫌になる文章だけど、記録のために直さない。)
 要するに相対主義なんだけど、その知識が重要なんじゃなくて、その実践に意味があった。相対主義という一つの考え方があるとわかって終わるんじゃなくて、その視点で見える範囲をどんどん洗い直して位置づけ直していく。そうした実践の中で異様に視界がクリアーになるという体験だった。
 基本的にその枠組みでずっと考えてきたけど7年後の去年ようやく少しアップデートできた。その辺書いたのが↓
・「無宗教ゎっらぃょ(><)」 http://d.hatena.ne.jp/Yashio/20140207/1391791977


 もうこれは一生続ける運動だ。採用した枠組みで上手く説明できない現象を丁寧に見つけて、自分のどこに思い込みがあるのかを突き止めて、体系をアップデートしていく、この運動がずっと続いていく。運動を止めた時、思い込みに屈服して視界が固定する。


 と、口で言うのは簡単だけどやるのはめちゃくちゃ難しい。だいたい簡単に自分で気づくようなものは「思い込み」とは言わないしね。後から「ああ、自分は思い込んでたのか」と気づいてようやく、思い込みだと名付けられる。
 そこで他の人に「そんなの思い込みですよ」と指摘してもらえればうれしい。最終的には自分自身でたしかめ直さないといけないけれど、ヒントだけでもほしくて本を読んだりする。
 思い込みをはがしてくれた本のこと忘れないようにいくつかメモしておく。(あまり予備知識が必要なかったやつを)


岸田秀『ものぐさ精神分析

 みんなが「本能」だと思ってるものなんて、本能なんかじゃないよ、という指摘。思春期、親孝行、同性愛、自殺、恋愛、前戯、自己嫌悪、いったいそれらは何なんだ、どうやって発生しているのかという一面を見せてくれる。

ものぐさ精神分析 (中公文庫)

ものぐさ精神分析 (中公文庫)


宮崎学『法と掟と』

 日本人の法意識はけっこう歪んでるという話で、「家族を大切に」って価値感を憲法に反映させようとか、「幸せになる権利が保障されている」みたいな誤解とか、自己責任論とかがどう歪んでいるのかを、日本社会では全体社会と個別社会の境界が失われているって特性とその経緯から論じていく。


岩井克人『会社はこれからどうなるのか』

 なんで日本と欧米の会社は違うんだろう、サラリーマンの帰属意識とかもろもろ、という疑問を、会社にはヒトとモノの二面性があるって点と歴史的な流れから見ていく。もう簡単に「グローバルな人材になれ」「会社でしか通用しない技術は身に付けるな」などとは言えなくなる。

会社はこれからどうなるのか (平凡社ライブラリー い 32-1)

会社はこれからどうなるのか (平凡社ライブラリー い 32-1)


柳父章『比較日本語論』

 英語と比較して日本語の特性を見てくけど、その果てに、日本語話者がどんな枠組みで物事を思考しているのかにまで至る。さらに翻訳文が日本語を変化させて、思考の様態も変えたという話。自由に考えているようで、使用言語によってこんなバイアスがかかってるんだと知らされる。

比較日本語論 (翻訳の世界選書)

比較日本語論 (翻訳の世界選書)


すが秀実渡部直己『新・それでも作家になりたい人のためのガイドブック』

 小説は物語だけで成り立ってるわけじゃないよ、という話を豊富な例示でテーマ毎に分けて見せてくれる。10年前にこれ読んで、小説や批評を読んでくきっかけになって感謝してるけど、10年でこっちが進んだせいで今読むとかなり不満。類型化を脱した先がまた新しい類型化になってるってことが実感できた。

新・それでも作家になりたい人のためのブックガイド

新・それでも作家になりたい人のためのブックガイド


柄谷行人日本近代文学の起源

 風景や内面、子供ってのは自明に存在してるわけじゃない、ある時期に「発見」された概念なんだ、その起源を忘れてるから自明だと思い込んでるだけだ、という話。そしてそうした概念が日本近代文学を形成してく姿を見せる。

定本 日本近代文学の起源 (岩波現代文庫)

定本 日本近代文学の起源 (岩波現代文庫)





 そもそもこの話自体もまだ疑う余地がいっぱいある。思い込みが晴れる瞬間はよろこびだ、そのよろこびの期待で引き剥がす運動を駆動させ続ける、と言うけど、本当にそうなのかとよくよく疑えばぜんぜん違った風景が見えてくるかもしんない。
 わからないことがまだ多すぎる。