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ふつうの会社員の日記です。

高野雀『さよならガールフレンド』:強い制約が生む豊かな繊細さ

 高野雀作の漫画『さよならガールフレンド』では、全編を横断して強力な制約が課せられている。そうした制約によって豊かに魅力的な短編集たり得ているが、実際にどのように作品たちが組織されているのだろうか。


物語の基本構造

 この短編集ではいずれの作品もおおむね以下のような物語上の構造に収まっている。
 ある種の違和感を覚えていた視点人物の前に媒介者が登場し前進するきっかけを与える、という構造である。


 たとえば表題作「さよならガールフレンド」では、視点人物はちほであり、媒介者はりな(ビッチ先輩)である。ちほの違和感とは、田舎町の狭さや彼氏の性愛の観念についてである。ちほは、自身の視界へふいに現れたりなとの対話や関係性を媒介してこうした違和感から前進することになる。あるいはりなに同行して目にした工場の姿によって、田舎町の緑とセミの声からの侵食を受け流す。


 またたとえば「面影サンセット」では視点人物はさっちゃん(関屋)であり、媒介者は安堂さんである。さっちゃんの違和感は、彼氏の年齢不相応に幼い思考であったり、自身が年を取ること(似合う服が変わること、「結婚適齢期」にいること)などに発する。さっちゃんはやはり安堂さんとの対話や、光の時間差の話を媒介して前進することになる。


解決は与えられない

 ここでかりそめに「前進」と呼んでいるが、これは解決や揚棄ではあり得ない。媒介者たちは必ずしも視点人物の違和感を知悉して、それに対して解答やアドバイスを与えて払拭させるわけではない。媒介者たちは当人も意識しないまま視点人物を前進させてしまう。
 むしろ作中人物たちは強い解決にあきらかに接近していることを意識しながらも、それが回避されていることを肯定している。(とりもなおさずそれは、作り手がそうした解決を回避していることを意味する。)たとえば「面影サンセット」のおまけコマでさっちゃんと安堂さんは「このあと私達が付きあう展開とか」「ねえよ」という会話を交わし(p.97)、「エイリアン/サマー」では武田さんとのび太が「こーゆう時感動的にキッスとかすべきかしらね」「いいよそんなの」「そーね」と笑い合う(pp.187-188)。
 そうした解決を安易に与えずカタルシスを許さないという抑制的な態度が全編に行き渡っている。この短編集を読んで地味だという印象を抱くとしたらそれは、「フィクションは解決を与えて読み手を気持よくしてくれるはずだ」という読み手の思い込みによって支えられている。この短編集を読んでリアルだという印象を抱くとしたらそれは、そうした書き手の抑制的な態度によって支えられている。恋愛を廃棄して友情を上位に置くといった優位を認めて安定させるわけではなく、不安定や矛盾を孕んだ状態を受け容れて進んでいく姿が豊かなのである。


地震のように違和感は表出する

 視点人物の違和感は、時間経過に伴う様々な変化に対して、他者や自身の言行や感性の変化が同じ速度で追従しないところからくる齟齬に起因する。「さよならガールフレンド」では「2年も付き合ってたけど」「何にもわかってなかった」(p.42)彼氏、「面影サンセット」では「もうすぐ30」の「いつまでも若い気分が抜けない彼氏」(p.76)に対して苛立ちや違和感を募らせる。
 そうした齟齬を抱えながら、現状をそれでも曖昧に維持していくという、惰性と言ってしまえばそれまでの振舞いがきわめて繊細に描かれてゆくことになる。しかし齟齬はプレートの歪みのように蓄積されてゆき、いつか地震のように表出する。そうした表出のうち最も激しいものが「エイリアン/サマー」でのび太が不良高校生を殴り、武田さんを押し倒す場面だが、むしろこの激しさは例外的である。他のどの作品も、通常の地震よりもはるかに周期が長く震度の小さいスロースリップのように起こっていく。彼女たちはほとんど人に見られないようふいに涙を零す程度だ。それは先述の、解決を安易に与えないという態度と彼此照応する。
 創作においてこうした細やかな積み重ねの上で、しかもそれを一気に(ドラマチックに)精算せずにまた別のあり方で積み重ねるというのは、実際のところ壊すよりはるかに困難である。


 なお「ギャラクシー邂逅」は作者あとがきで「ポエム満載」と語られる通り、他の作品と比べて視点人物の比喩的な思考に割かれる割合が相対的に高くなっているが、むしろこの時間経過に伴うズレを最も直接的に言及した作品になっている。惑星の軌道が別の天体との衝突や惑星間の重力の影響によってズレてしまうという話を視点人物・南条さんは想像しており、直接的には彼女の日常生活(特に電車通勤)と重ね合わせられているが、間接的には各作品間に通底する変化・ズレの主題に対する比喩であり得る。


基本構造に対するバリエーション1:「エイリアン/サマー」

 ここまでさしあたり本書の全体に渡っておおよそ広がっている態度や構造に関して語ってきたが、もちろん現実の作品がやすやすとその枠組に収まるわけではない。どのように作品たちははみ出していくのだろうか。


 「エイリアン/サマー」の視点人物はのび太であり、媒介者は武田さんである。しかし作品開始時点でいきなり武田さんはのび太の目の前に登場する。他作品では媒介者たちは、視点人物が違和感を抱いていった後に、途中から登場するが、武田さんはまるで異質な作法で冒頭から現れるのである。あるいは先述のように、のび太が不良高校生を殴り、武田さんを押し倒すといった激しい苛立ちの表出がなされる点でも他作品とは異なる。つまりドラマチックであり、派手である。(それでも最も大きな物語的な解決であるキスや性交はお互いに「それは違う」と回避する。)
 本作は本書所収の作品中で最も古いものであることを考えると、本作の後、回避の身ぶりをより推し進め、違和感を抱かせるきっかけの人物と媒介者を丁寧にわけ、より微妙な積み重ねへと展開していったのだと理解することができる。


基本構造に対するバリエーション2:「まぼろしチアノーゼ」

 やや複雑になっている。視点人物・りさこにとっての違和感は、<自分は「女の子」ではない>という諦念である。これを拭ってくれるような存在として、初めに先輩が登場する。しかし先輩はりさこの自尊心を傷つけ、むしろこの諦念を強化する方向へと作用する。
 一方、お姉ちゃん(りさこの姉)は「女の子」を体現し、りさこの<自分は「女の子」ではない>という認識を証し立てる存在であると見なされていたが、実のところそうではなかったことをりさこは発見する。お姉ちゃんもまた、「女の子」性を無自覚に身に着けて利用しているという単純な存在ではないことが突如として露呈するのである。
 違和感の起源と、そこから前進するための媒介者、という二者が、本作では途中でひっくり返るというサスペンスが演じられる。しかしその偽装がとかれるのは同時ではない。媒介者が偽物であると判明してから、違和感の起源が偽物であると判明するまでの間にタイムラグが存在するからこそ、その間のりさこの諦念と絶望が深いのである。
 違和感の起源(お姉ちゃんの「女の子」性)の偽装がとかれるまでの間も、あくまで繊細な手つきで具象が積み重ねられており、例えば「りさこを大事にしてくれる人を選ぶんだよ」と言うお姉ちゃんに「「選ぶ」?」「そんな恵まれた立場の話をわたしにあてはめないで」と思ったりする(p.151)姿において説得的である。


 っていうかここまで物語から身を離して読んでますみたいなことしか書いてないけど、同時に平行して物語に入り込んで読んでもいるからあたしゃね、シンプルにこの先輩のこと(し、死ね! こんなやつ〜こんなやつ〜)と思ってたよ。p152, 153の各ページ一番下のコマ、りさこと先輩それぞれの表情の対比の鮮やかさが一層りさこの表情のつらさを際立たせる。人にあんな顔させちゃいけないね。人の自尊心を傷つけていいことなんて一つもない。他者を手段としてのみ扱っていいことなんて一つもない。こんな心根の浅ましいやつなんかと付き合ってちゃ自分が疲弊してく一方だもん。ダメ、ぜったい。


基本構造に対するバリエーション3:「わたしのニュータウン

 「まぼろしチアノーゼ」で見られた空間的なねじれが、ここでは時間方向に対しても生じる。この短編集の中で唯一、現在が過去と交えて描かれていく作品である。作中の主要人物はユカとミリの二人であり、視点はあくまでユカに固定されている。しかし違和感を生じさせる存在と媒介者がこの二人の上に多重化されており、ミリもユカと同程度の分量で表情が描かれてゆくため、あたかも主人公が二人いるような印象が与えられる。
 10年少し前に、ユカはミリが自分より新しくできた恋人を他愛なく優先させてしまった態度に違和感を覚える。しかし10年強を経た現在、今度はユカが結婚によりミリとの交友を疎遠なものへと追いやろうとしている。ユカ自身もそれに自覚的であって、かえって悲痛な顔をしている。そこから二人でそうした変化に対して大丈夫だと確認しあって前進する。


 この二人で最後に話し合っている場面の途中で一コマだけかつて高校生だった彼女たちの姿が挿入される(p.116)。このフラッシュバックが非常に印象深いのは極めてコントラストが高いからだ。28歳の二人のしんみりした表情と、高校生の二人の屈託のない笑顔のコントラスト。雪の降る写実的な背景と、真っ白の何もない背景のコントラスト。あるいはこの一編全体のおよそ半分のページ数を隔てて高校生姿の二人が再登場する不意打ち、作品の最初にミリの高校生と28歳の姿が全く同じ表情とセリフで重ね合わされる(p.102)この「変わらない」というイメージに対しての、ここでの「変わってしまっている」というイメージの対称性。そうしたコントラストの集積によって、この一コマに胸を衝かれる。


初出時期

 各作品を初出年月順に並べると以下の通りである。(本書で初出誌や時期が明示されていなかったため別途確認した。)
【09年11月】 エイリアン/サマー
【12年11月】 さよならガールフレンド
【14年1月】 面影サンセット
【14年5月】 まぼろしチアノーゼ
【14年8月】 わたしのニュータウン
【14年10月】 ギャラクシー邂逅
 「エイリアン/サマー」に萌芽のあった決定的な解決の回避という要素を推し進めた「さよならガールフレンド」「面影サンセット」、そこから役割を交錯させた「まぼろしチアノーゼ」、加えて大きく時間軸を追加した「わたしのニュータウン」、時間に対する意識を表明した「ギャラクシー邂逅」。ここまで確認してきたことをあえて組織立てて見れば、上記のような進行を物語れるのかもしれない。
(ただしあとがきによると「わたしのニュータウン」は「面影サンセット」以前にネーム自体は通っていたが「地味」とのことで後回しになっていたらしい。)


視点人物の固定

 これまで物語構造と、そこにまつわるある種の制約――完全な解決の回避と、感情の激しい表出の回避――について語ってきたが、この作品集ではより多面的に制約が課せられている。そのいくつかを確認しておく。


 ここまで「視点人物」という呼び方で各作品中の一人を名指してきた。何のことわりもなくそう呼んできたが、これは必ずしも自明のことではない。
 本書のどの作品でも、特定の一人物によって知覚されないものは描かれていない。だからその人物が知らない・立ち会っていない場面が描かれることは一切なく、別の人物の内的独白(尾っぽが丸いふきだし)が書かれることも一切ない。
 漫画という制度において他者の思考や記憶を描くことはごく自然に許されており、またそれによって物語の処理を容易に進められる面もあって、それだからほとんどの漫画が(作者の自意識としては例え一元視点だろうと実際には曖昧に)多元視点となる。
 特に「わたしのニュータウン」は二人の人物(ユカとミリ)に物語上の役割が重ね合わされていることもあって、ほとんど二人の視点のような印象さえ覚えるとしても、あらためて読めば紛れもなくユカのみが視点人物に収まっている。本書所収の全作品において、他者の視点・思考の直接的描写の一切が、作者の意識下の操作によって排除されている。


記号的表現への抑制

 また記号的表現が極端に少ないという特徴がある。いくつか列挙する。

  • 焦りを表す汗、怒りを表す額の青筋マーク、恥じらいを表す頬のハッチング、落ち込みを表す顔にかかる立て線……そういった感情に関する記号的な表現がほぼ見られない。ギャグタッチよりに変化した際にわずかに見られるが、そもそもタッチの変化自体がほとんど見られない(作品末尾のおまけのヒトコマ漫画くらい)。
  • 動きを表す記号、例えば走る足に残像を表現した線が引かれるといったこともない。人物の動きは身体の形態や髪の動きによってのみ表現される。
  • 背景でも記号的で経済的な表現がまるで見られない。アミトーンやグラデトーンで具体的な事物が稠密に描かれるか、もしくは一切背景のないコマのいずれかで、中間はない。
  • 観念的・比喩的な描写もない。背景にお花が咲きほこるとか、雷が落ちるとかいったことがない。視点人物が明確にイメージしたもの(「さよならガールフレンド」の怪獣、「ギャラクシー邂逅」の惑星、「まぼろしチアノーゼ」の破れる殻)のみが見られ、不定の印象としてそうした記号的表現が利用されることはない。
  • 集中線も使用されない。
  • 描き文字(擬音・擬態語)の使用もない。まれに背景に埋め込まれた活字で音が表現される(「さよならガールフレンド」のセミの声など)。
  • コマ枠の変形がない。人物はコマ枠を突き破ったりはしない。あくまでコマ枠に正確に収まるか、枠外に収まるかのいずれか。極端なコマ割りもなく、紙面いっぱいのクロースアップなどもない。
  • 濃淡以外のスクリーントーンがない。ハッチングの使用も皆無であり、ほぼアミやグラデのみで表現されていく。柄トーンはわずかに衣服やこたつの毛布、ソファの生地に見られるだけ。(ひるがえって言えば、柄物の衣服を身に付けている人がほとんどいない。)
  • 作中人物が確実に着替えている。日が変わると着衣が変わっている。人物を特定するための特定の衣服という記号的表現は回避されている。その中にあってたとえば「まぼろしチアノーゼ」のりさこが別の服に着替えながらいつもフード付きの上着を身に付けており、当人の<自分は「女の子」ではない>という諦念を衣服によって露呈させている。
  • 描線の太さの揺れがない。またカスレもない。(単純にデジタルで描かれていることによるのかもしれない。)線のタッチを変えて雰囲気を変えるという手法をとらない。


 こうした描画上の種々の強力な制約は、技術の不足を意味するというより、微妙な表現を際立たせるのに資するものとして捉えた方が、より豊かな読み方のように思える。


 ちなみにここまで制約面について語っているが、実は作者が贅沢している要素もあって、それは印刷である。本書ではその贅沢が発揮される余地がなかったが、作者の同人誌(個人詩)において存分に味わうことができる。たとえば『さよならガールフレンド』ではかすかな光沢を放って華の浮かび上がる表紙が用いられ、『あたらしいひふ』では視点人物の各話で印刷色が使い分けられ、『終わる世界は君の季節』では四話それぞれが異なる色で二色刷りになっている。




 私の読む力が十分でないため、ここでは一面的な読み方にとどまっている。
 他にたとえば、雨が一度も降らないのは全体にどういった作用を及ぼしているのだろうか、それは彼女たちがシャワーを浴び、浴槽に潜ることを際立たせるためなのだろうか、内的独白(吹き出し外の言葉)はどのようなリズムを生み出して作品を形作っているのだろうか、白いコマと黒いコマ、またはそれらが混在するコマ、灰色のコマはどういった秩序を生み出しているのだろうか、「エイリアン/サマー」以外のいずれの作品でも電車の気配がするが説話的にどのタイミングで電車の気配が漂ってくるのだろうか、あるいは移動することの主題体系がここで形成されているのだろうか、等々……
 そうした様々な面で、作者の意図を超えて作品が豊かに立ち現れる姿を、我々が見ることを許してくれる作品集になっているという確かな予感を覚えながら、まだそれは十分に果たされていない。



さよならガールフレンド (フィールコミックス FCswing)

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