やしお

ふつうの会社員の日記です。

まじめに借金を膨らませる人のシステム

 真面目なのに、目立った無駄遣いをしてるわけでもないのに、ギャンブルをしているわけでもないのに、借金を重ねてしまう人というのは、以前の日本とまるきり同じなんじゃないか、と急に思った。基礎的にはボトムアップ型の意思決定に由来しているんじゃないか。


 以前書いた
   友人に金を貸す話 - やしお
の友人が、パソコンを買おうと思ってクレジットカードを作ろうと思ったけどだめだった、銀行のローンも断られちゃったという話をこの前していた。ちょっとびっくりしながら、君は借金をしちゃだめだ、借金を上手にコントロールできるタイプじゃないんだ、今までも何度も失敗したじゃないか、それに僕の父親がそうだったから確信をもって言える、と反対した。


 家に帰って、シャワーを浴びているときにそのことを思い出しながら、また父親のことも思い出していた。父親の借金癖が顕在化したのは僕が就職する2年前くらいだった。「借金癖」というとギャンブルとか女性とか金のかかる趣味とかにつぎ込むといったイメージがあった。だけど父親はそういうことに使ってるわけではなかったし、真面目な人だったし、ギャンブルも全くやらなかったのに、なんとなくあいまいに借金を重ねていっていた。
 それ以前に問題が顕在化しなかったのは、一つに母親が家計を管理していた(途中で離婚して父親と自分の二人暮らしになった)こと、もう一つに収入が多かった(途中で両親ともに働いていた会社を辞めざるを得ず収入が急減した)ことがあった。


 それで「昔はパイが大きかったから借金をせずに済んだ」ということを考えた瞬間、
   自民党が今ああなってきた道 - やしお
これを思い出した。
 もともと日本の意思決定機構(というか予算の使い方)はボトムアップ型だった。社会の隅々まで行き渡った企業や外郭団体から各省庁へと要望が吸い上げられていき、順々に上がっていくシステム。毎年収入が増えていった高度経済成長期のころはそれでよかったんだけど、減っていく段になると借金が増える要因になってしまう。どうしてもボトムアップだと、きめ細かく網羅できる一方で、大きな方針や目的に沿って全体をアレンジすることが難しい。一つ一つは確かに必要なことだから個別の中で「やらなくていい理由」を見出すことは難しい。そしてあれもやります、これもやりますになってお金が足りない、借金を毎年していく……
 そうした経済的な背景もあって、中選挙区制小選挙区制への移行その他の行革をして、20年くらいかけて統治機構がよりトップダウン的な形に変容してきた、という話だった。


 それを思い出したときに、これと同じことが人の中でも起きていて真面目なのに借金を重ねてしまったりするのかもしれないと思った。
 何かお金が必要なことが出てきたとする。その時に「それはもう必要なことだ」と固定してしまう。それを前提にして物事を組み立てていってしまう。それだから部分最適にはなっていても、全体最適にはならない。ボトムアップ的というのはそういうことだ。一方トップダウン的というのは、そもそも自分は根本的に何がしたいのか、と問い直すところから始めるということだ。その大方針や大目的から順に展開するので、そのお金が必要なことも「そもそもやらない」という選択肢が出てくる。案件の優先順位をつけることができる。どの条件を固定にするかを自分で選択できる。
 もう頭から「こうしないといけない」と思い込んでしまえば自由度が下がる。やらないといけない→でもお金がない→お金を借りなければいけない、と本人の意識としては真剣に、不可避的に進んでしまう。そうして借金が増えてしまう。大きな方針で整理して案件を捨てることができないので、返すこともままならないまま、支出が増えて借金をしてしまう。ひどくなると「この借金を返すこと」が固定条件になるから、返済のために別のところから借りて多重債務者になっていく。


 似た形は探せばいくらでも見つけられる。例えば残業が増えるというのも同じ形だ。マネジメントが働かなければ優先順位の低い仕事や、会社の儲けとは無関係の仕事に忙殺される。仕事が自己増殖する。
   残業の沼からみんなで抜けたいよね - やしお


 それで「トップダウンで考えられないからです」と言ったところで「じゃあそうします」って変わるわけじゃない。もう少し根本的には、現実のあらゆる要素が自明じゃない、自分の接する世界を自分でデザイン可能だ、といった感覚の有無があるように思える。そもそも「変えられる」という確信がなければ変えようなんて発想が出てこない。現実に対して受動的であるほかない。
 子供のころは現実に対して受動的である場面が多い。家庭なり学校なり周りの大人から一方的に「こうだ」「こうしないとだめだ」と言われて、それを疑う習慣を持つ暇がなかったりする。「どうして?」「本当に?」と疑問を抱く習慣は、そう考えることを促すような大人(親なり教師なり)がたまたま近くにいれば身に付くのだろうか。
 そうした確信を持てないまま大人になって、それから身に付けるにはどうしたらいいんだろうか、ということを考えているけれどあまりいい案をまだ思いつかない。実際に自分で現実をコントロールできたという成功の記憶を小さく積み重ねていくしかないんだろうか。しかしどうやってその体験を得られる環境を具体的に整えればいいんだろうか、という点でまだ上手いやり方を見つけられていない。


 とりあえず今のところその友人が(私以外から)お金を借りられる環境にないのだけが幸いだ。とにかく消費者金融に手を出さないでほしいと思っています。