やしお

ふつうの会社員の日記です。

認識の枠組み

 自分が物事をどう把握しているのか(それを、自分がどう認識しているか)について一度全体をまとめておきたいと思った。
 (1)認識の枠組みの概形、(2)それがもたらす価値観、(3)枠組みの限界点、(4)関係する過去記事へのリンク の4つに分けている。






(1) 認識の枠組みについての基本的なアウトライン

体系、システム

 ある命題が、別の命題から論理で導出される。こうして論理で結ばれた命題のネットワーク(システム、体系)がある。その根本には「何からも導かれていない命題」がいくつかあり、それらがそのシステムの仮定(=前提、公理)である。



 論理は客観性、仮定は主観性に属する。
 論理は「こうだから、こうなる」という形式によって、「誰にとってもそうである」、あるいは少なくとも「誰にとってもそうであり得ると、自分が信じられる」ものであって、客観的である。
 仮定は何からも導かれていないため、「とにかくこうだ」と決めて導入するものであって、主観的である。


 自然科学、数学や物理学が持つ理論体系は、仮定や論理に自覚的でありこうした体系性が比較的明確だ。しかし科学以外でも、仕事、人間関係、感情、文学、映画、どの分野であってもこうしたモデルから捉えることはできる。そうすることでよりクリアに自分がどう物事を見ているのか、その見方の限界や制約はどの辺にあるのかを把握することができる。


体系で把握する

 ある出来事や現象、思考について、それが「どこから来るのか」と「どこへ行くのか」を考えるということが、「システムとして把握する」作業になる。
 「どこから来るのか」というのは、その物事が「どうしてそうであるのか」を考えることであり、前提の方へ向かって論理の矢印を逆方向に辿ることである。一方「どこへ行くのか」というのは、その物事を前提として何が起こるかを考えることであり、次に導かれる命題に向かって矢印を順方向に辿ることである。
 こうして組み立てていってシステムとして物事を把握する。これを意識的に実践していく。


 こうした捉え方によって、物事の相対的な位置関係が明確になる。
 「正しさ」に対する不安が解消される。「こういう前提があるから、こうなる」と確信できるし、「この前提が崩れたから、そうならない」と断言できる。はったりや経験則に頼らずに物事を断言するということができるようになる。


 私自身が20代の初め頃にこのモデルで物事全体を見直したら、今までふわふわと独立して浮いていたあれこれが、自らの場所を見つけて落ち着いていった。社会通念や大人たちから教えられてきた色々の、「どうしてそうあるのか」が明確になった。あるいは今まで曖昧に信じていたことを、前提にまで遡って検討した末に廃棄したりした。
 当然が当然であることを、常識が常識であることを次々に止めていった。
 こうした認識の更新があらゆる分野で一斉に起こったのは、大袈裟ではなく、「世界の見え方が変わる」というような体験だった。


手放しの真実は存在しない=相対主義

 ところでこのモデルを採用するということは、「誰にとってもそうであるような真実など存在しない」という立場を選ぶということを意味する。完璧とか真実とか、そんなものはない。
 「前提が主観的である」ということは、その体系全体が結局のところ主観的なものであるということだ。ある結論や命題はすべて、「この前提を選んだときにそうなる」としか言えない。絶対的な真実は存在しないという立場、相対主義である。


 体系は精緻であればあるほど、物事をうまく説明できればできるほど、あたかも「真実」のように見えてくる。揺るぎない視線のように振る舞い始める。たとえば数学や物理学は唯一無二の正しい理論、「真実」として一般的に曖昧に見なされていたりする。
 しかし数学や物理学と大まかに括っている内はよく見えなくとも、その一つ一つの体系(ユークリッド幾何学と双曲線幾何学だったり、ニュートン力学と相対論だったり)の射程範囲を眺めれば、お互いにずれていたり包含したりされたりする姿によって、それらが相対的に存在して、決して絶対的に君臨しているわけではないことがわかる。


 ある誰かが「これは真実だ」と主張しても、それはその人の認識において真実なだけであって、全く手放しに存在するような真実ではないと考える。真実は、主観性において存在し得ても、客観的には存在し得ない、という立場になる。
 ある体系が自立して自身の客観性を保証することができない。


体系のデザイン方針=オッカムの剃刀

 体系は結局、主観的なものでしかない。人が好きに選べばいい。ある物事を説明するのに、どんな体系だって作ることができる。
 極端に言えば、その物事そのものを仮定に据えてしまうこともできる。「とにかくそういうものだ」と言ってしまうということだ。(たとえば「どうしてこうするんですか?」と新人に聞かれて「とにかくそうなってるからだ」としか先輩が言わなければ、それはいきなりそれを前提として採用したということだ。)


 では体系の作り方は無法地帯かというとそんなことはない。数学や物理学でも、多くの人が採用して標準化された体系というものが存在する。そこには体系をデザインする方針があって、その方針が共有されているから標準化される。それが「オッカムの剃刀」と呼ばれるものだ。
 オッカムの剃刀は、より少ない仮定で現象を説明できるのが「よい」体系である、という価値判断だ。仮定は主観的なものだから、より少なければその分「誰にとってもそう思える」度合いが高くなる。同じ現象を説明するのに仮定を大量に採用しなければいけないのなら恣意的に見える。「なぜそうなのか?」と問うと「とにかくそういうものだ」という答えにすぐぶつかるような説明は説得力がない。仮定を減らす、削ぎ落とすという行為から、剃刀の比喩が使われている。


任意にシステムを切り取る=前提を切り上げる

 ある体系から一部を切り取ることができる。



 そうしてできた新しい体系で、「何からも導かれていない命題」がその体系にとっての仮定になる。これは例えば、「会社は持続的に金を儲ける」といったカバー範囲の広い仮定からスタートするか、「うちはこういう役割の部署だから」といった相対的に狭い仮定からスタートするかといった違いだ。どのレベルで仮定を設定するかを意識して、スコープの範囲をコントロールすることでより考え易くなったりする。
 例えば量子力学ニュートン力学を含んでいる。量子力学である現象を説明できたとしても、あまりに煩雑なのでかえってニュートン力学で説明した方が早いし分かりやすいというようなイメージだ。大は小を兼ねるが、小の方が使い勝手がいいこともある。
 毎回「会社の役目は○○だ」という仮定から始めるのは煩雑で、一度「会社は」という仮定から「だからこの部署の役目はこう」という命題を導いたら、あとはそこを仮定にして考えた方が便利だ。


 またこれとは逆に、より広い範囲の仮定を求めて掘り下げていくこともできる。これは際限なくどこまででも続けられるため、どこかで切り上げることになる。試しに「自分が生きている意味」といったものを考えた時に、家族にとっての自分の存在意義、社会にとっての家族の存在意義、世界にとっての社会の存在意義……といった形でより広いシステムを考えて、そこから意味を導くことができるが、この作業には際限がない。作業を切り上げたところ、「とにかくそれはそうある」と見なした点が仮定になる。作ろうとすればより広いシステムを作れるが、それをせずに切り上げているという意識が常に付きまとうため、切り取っている、零れ落ちているといった意識を伴うことになる。またそのために「完璧なシステム」といったものも原理的に存在できないという認識になる。


仮定の設定にまつわる任意性

 命題がA→B→C→Aと導かれるような場合、A、B、Cのどれを仮定に採用してもいい。
 例えばユークリッド幾何学の第5公準には、「どこまで行っても交わらない直線の組がある」、「三角形の内角の和は180°」、「全部の角が直角の四角形がある」、「ピタゴラスの定理」などなど、「同じことを言っている」とは一見思えない形をしていながら、どれか一つを(他の4つの公準と一緒に)前提に据えた瞬間、他が導けてしまうという関係(同値)になっている。


 こっちを前提すればあっちが導ける、あっちを前提すればこっちが導けるというようなことは日常的にもよく起こる。そうしたものが前提になっている時、どちらか一方が崩れてもその先が全部(もう一方も含めて)崩れてしまうので、両方の状態をウオッチしていないといけない。


違う側面で見ること/豊かであるということ

 ある楽曲について、対位法的にどうか、和声法的にどうか、リズム構造はどうか……と様々な体系から説明できる。そしてどの体系を適用してその現象を見るかは恣意的である。それだから、ある体系(価値判断)からその現象が否定されたとしても、現象全体を否定するには及ばない。弓の持ち方がおかしかったとしても、そのアニメ全体を否定する必要は必ずしもない。
 また、ある体系から見て否定されたとしても、別の体系によって肯定されていることもある。映画の中で「物理的にそんなことは起こり得ない」というようなことが起きていても、映画なり物語なりの論理からそれが明らかに必要であって導かれていることもある。


 現象(作品や物事)に様々な体系、網をかけていく。
 隙間を埋めて体系をより精緻にすることもできるし、別の体系から語ることもできるし、それを含むより大きな体系、メタ的な体系でも語れる。あるいはその作品だけのために体系を新たに作り上げることもある。しかしどれだけやっても「語りきれる」ということはあり得ない。網は、どれだけ細かくしても、重ねても、大きくしても、作り直しても、網である限り必ずそこから零れ落ちるものがある。
 そしてどれほど網をかけても、汲み尽くせていない、容易に収まってはくれないといった予感をいつまでも抱かせ続けるようなものが、豊かな作品ということになる。


二種類の正しさ:無謬性と妥当性

 体系について間違いがあるとすれば、論理の誤りか、前提の選択の誤りである。
 論理の誤りは、結べないところに矢印を結んで、導けないはずの命題を導いてしまっているというものだ。そうした誤りがなければその体系は無謬である。
 一方で前提の選択の誤りは、ある現象を語るのに適切でない体系を選択してしまっているというものだ。適切であればその体系は妥当であるということになる。しかしこの妥当性を見るという行為はその体系の外部にあってそれを含むような体系を措定しない限り語り得ないから、その外側の体系から無謬性を確認するということにほかならない。その体系の内部の「正しさ」が無謬性であり、外部から見た「正しさ」が妥当性である。


 一般に「間違っている」という指摘は、無謬性に関するものの方が妥当性に関する指摘よりもお互いの了解に落ち着きやすい。無謬性は論理=客観性、「誰にとってもそうである」という点にまつわる話だが、妥当性は前提の選択という主観性、「私がそれを選ぶ」という点にまつわる話だからだ。妥当性に関する争いは結局、「あなたがそう考えるという立場なのは分かりました。しかし私はそういう立場を取りません」という着地点しかほとんどなかったりする。しかしこうした「間違っている」という指摘に妥当性と無謬性という二種類があるという認識を欠いて、正しさが手放しの正しさであると信じている場合、不毛な論争を本人もよくわからないまま続ける羽目になる。
 例えば殺人犯の心理について考察して「こう考えればこの人を理解できる」といった論に向かって、「こいつは殺人犯を擁護している!」といった全く頓珍漢な非難なんかがそうだ。「ここでは殺人が人倫に悖る、という点は一旦括弧にくくる」といった作業仮説を明らかに立てた上での論に向かって、それを無視してまるでお門違いな非難を浴びせて論者を疲弊させるという光景はよく見かける。






(2) ここまでに示した基本的なモデルによって帰結される価値観などについて

自分で自分をデザインするという感覚

 「真実というものはない」、「生きる意味といったものは無前提に存在しない」という認識は、人は何をしても・しなくてもいい、自分自身で決定・選択できるという感覚に繋がる。「ああでなければならない」というものが最初からあるわけではないという認識によって、生きる上での無駄な肩の荷を下ろしてより自由であり得る。
 現実には様々な不可避の「前提」が自分自身の身に降りかかってくるとしても(例えば生まれや過去)、はっきり何が前提になっているのかを見つめるだけで楽になる。訳も分からず振り回されるという感覚もなくなってくる。


ゲームという感覚、組織・役割に忠実であること

 体系を選択しているだけだという認識は、ゲームをしているという感覚をもたらす。体系の種々の命題は、ほとんどゲームのルールそのものだからだ。ただしルールブックを他人が提示してくれるとは限らない。
 仕事にしても趣味にしても人生そのものにしても、例えばサッカーをするように、あるルールやレギュレーションがあって、それに対して最大限のプレーをしたいという感覚だ。「人生はゲームみたいなものと思っている」と言うと厭世的と思われそうだが実際には真逆で、自分が選んだゲームだと割り切れるから出口のない悩みに囚われずに注力できる。


 そしてまた、組織・役割に忠実でありたいという意識ももたらす。主観的なのは仮定の選択(=体系の選択)においてのみで、他は客観的だ。自分が選んだゲームなのだから、ゲームのルールには誠実でありたいという意識だ。そしてもはや自己の好みというものも希薄になる。「俺はドリブラーだから」とか「俺は右サイドバックだから」といった個人の拘りは消失する。そうしたところにアイデンティティを持たなくなる。この組織にとって自己の特性と状況を掛け合わせて最も「正しく」ありたいというだけだ。
 こう書くとまるで社畜のようだがそんなことはない。それもまた相対化されているからだ。「同時に複数のゲームをプレイしている」という状態なので、「それら複数のゲームを統合するゲームのルール」から考えていくことになる。


完成度7割でいい

 完成度は7割くらいでもいい、何もしないよりはマシだから、完璧を目指さないという方針がある。それは完成度が高まるに従って、かかる時間が指数関数的に(?)増加するという経験則から来ている。しかしそれだけではなく、そもそも「完璧」というものに至り得ない、という認識が前提されている。網はどれほど精緻にしても必ずこぼれ落としてしまうという認識がある。


罪を憎んで人を憎まず

 複数の体系で見る、任意に切り取って見ることができるという意識によって、物事を分離して見ることができる。先述の通り、ある作品がある体系で否定されたとしても、それで作品全体を否定することがないのと同様、ある人がある面で否定されたとしてもその人全体を否定するには及ばない。
 そうして行動や内面を分離して見たり、作業仮説を立てたり、一度何かを括弧でくくってあえて視界から外して見たりすることで、他人の事を考えることができる。「こいつはこういうやつだ」というレッテル貼りから自由に、他人をよりフラットに見ることができる。
 また「体系を組み立てる」という意識によって、相手の内在的なロジックを把握して、「どうしてこの人はこうする/言うのか」と相手の言動をより良く理解することができる。これは「こいつが馬鹿だからだ」という理解に比べて現実的な妥当性が高く有効だし、さらに別の言動を予想したり統合して理解したりもできる。


他人に物事を伝える

 相手に何かを伝えるときには、どこを出発点に据えて、どの地点を目指すのかを考える。そしてそこを結ぶ階段の一段一段の幅をどれくらいにするのか、相手の力量も勘案しつつ設計していく。これはあの体系のモデルをイメージしている。前提を相手と共有し、論理で命題を次々に導いていって、最後に目的の命題を導いて納得してもらう。「階段の幅」というのはどれほど途中式を省略するかということだ。
 こうしたイメージを欠いたまま、ただ伝えたいことを整理せず一方的に相手にぶつけながら、相手から質問がきたらそれに対する答えを返すといったやり方で了解へと進めていくタイプの人もいる。しかしこれではあまりに相手の負担が大きい。何かの発表やプレゼンテーションで、聴衆のレベルを無視して、前提を共有させる作業を省いていきなり話を始めたり、あるいは「階段の幅」が狭すぎて退屈させたり、あるいは広すぎてついていけなくなったりさせたりするというのはよく見かける不幸な光景だ。


自由であること

 人には様々な価値判断が内在している。自由であるということの第一歩は、そうした価値判断がどこから来るのかということを把握することだ。「本能」や「感情」を自明なものと見なさず、どういう制度(体系)によってそれが発生しているのか、より根本的な仮定を目指して疑い続ける。把握することでそこから解放されるとは限らないにしても、一体自分(の思考)が何によって規定されているのかを知らなければ自由は遠い。
 価値判断が来る根元をはっきりさせていくと、実は自分にとってどちらでも良いということがはっきりして、無益なこだわりがどんどん消えていく。そういう意味での自由さもある。


そもそも論

 体系として把握したいということは、仮定がどこにあるかを把握するということで「そもそも論」になってくる。
 スマホのゲームでこのアイテムを手に入れると有利に進められるな、課金しようかなとなっても、そもそもこのゲームをやる必要があるのか、本当にやりたいと思ってるのかと考えてみるというのが卑近な例かもしれない。
 「そもそも論」は嫌われることがある。仮定として一旦確定させた上で進めている話なのに、もう一度その仮定を蒸し返そうとするとみんなに嫌がられる。(私自身も「もう! なんで今更!」と思ったりする。)その辺は伝え方を工夫するとして、しかし時々は仮定に立ち戻って考え直さないと、案外仮定自体がもうズレてしまって結論が有効でなくなっていたりする。


妥当性のすり替え

 仮定aを採用すれば命題Aは肯定されるし、仮定bを採用すれば命題Aは否定される。実はより大きな体系から見るとbが肯定されるのでAは否定されるのだけれど、たぶんこの人はそこまで見えていない(検討していない)ので、あたかも仮定aに妥当性があるフリをしてAを肯定させてしまおう。そんな騙し方がある。
 「このアイテムを手に入れればこのクエストがかなり効率良く進めて時間の節約になるから課金した方がいい」といった論を、「そもそもこのスマホゲームをやる必要がないかもしれない」という疑問を無視して展開するようなことだ。他人が騙してくるばかりでなく、自分が自分を騙しにかかっていることもよくある。
 あえて「より根本的にどうか」を語り落とすことで、こうした「ズル」が意図的にできる。逆に言えば、体系的な思考ができていれば、こうした(意識的か無意識かはともかく)ズルから身を守ることができやすい。






(3) 基本モデルの限界点について

相対主義から見た絶対主義

 相対主義には次のような反論が存在する。相対主義は「絶対的な真理はない」という命題を導くが、「相対主義が正しい」という「真理」を前提している点で矛盾する。結局それは絶対主義でしかない、というものだ。
 しかしそれは、相対主義的な視点ではなく、絶対主義的な視点から眺めているために起こる矛盾でしかない。相対主義的な視点では、「相対主義者であること」は「相対主義を真理と見なしている」ことを意味せず、「相対主義を選択している」だけに過ぎない。また相対主義者の視線からは、絶対主義自体も数多ある体系のバリエーションの一つと見なされ、絶対主義者もまた絶対主義を採用しているだけに過ぎないものと見なされる。


 それではなぜ相対主義を選択するのかという問いが考えられる。絶対主義に比べて現実をよりよく説明できるからだとか、ただの好みだとか無数の答え方がある。では「よりよく説明できる」とはどういうことか、「好み」とはどうやって可能なのか、といった新たな問いが立てられる。そうした問答の果てに相対主義者は「とにかくそれは、そういうものだ」とぶっきらぼうに言って済ませることになる。なぜなら仮定の選択が主観的であることを許すのが相対主義なのだから、そう言って捨て置く権利があると言うだろう。しかし「そういうものだ」と当人が信じるのは何なのか、結局「なぜあなたがそれを選択するのか」という問いは宙吊りにされて、この地点ではもはや、相対的/絶対的という二分法自体が無化されてしまう。


論理・客観性・無謬性/仮定・主観性・妥当性

 <論理は「こうだから、こうなる」という形式によって、「誰にとってもそうである」、あるいは少なくとも「誰にとってもそうであり得ると、自分が信じられる」ものであって、客観的である。>と先に書いた。
 ここで言う「論理」は、「自明だ」と他人と自分が(もしくは自分のみが)信じられている状態が成立すれば良いので、形式論理的であるとは限らないし、場合によっては、自分を含めて誰も気づかない嘘を含んでいることもある。例えば他人から見て荒唐無稽でとても論理とは呼べないような論理であっても構わない。


 論理そのものもまたルールの体系として把握され得る。そしてその体系もまた、主観的な選択としての仮定を含んでいる以上、全体が主観的である。(例えば形式論理であれば、「トートロジーを正しいと認める」という仮定の選択に行き着くのだろうか。)
 あるいは妥当性というものが外側の体系によって語られる無謬性によるのだとすれば、その外側の体系の妥当性は更に外側の体系を措定することによってしか語れない。
 いずれも「より根本的な仮定を求めていく操作には、客観的な停止線が存在しない」という話であり、これらはもはや、客観性というものがこのモデルからは導かれない(主観性と客観性という二分法に必然性がない)ということを意味している。「自明だ」というのはどうしてそう思われるのか、どうして主観性が他者と共有されるのか、といった問いにこのモデルは答えてくれない。


単独性と二度現れる神

 このように、徹底してモデルを適用しようとすると、その果てで相対性と絶対性、客観性と主観性といった対立が成立しなくなる地点がある。それは「その個人がどうしようもなく選択してしまうこと」という点に発していて、この性質をかりそめに「単独性」と呼んでいる。単独性は、相対-絶対、客観-主観、一般-特殊といった対立軸で見ようとすると、途端にどちらか一方に捕捉されて見えなくなってしまう。一般化してしまえば「ある個人がただそれを選択しているだけだ」という特殊性へと回収されてしまう。しかし目を曇らせれば見えなくなるというだけであって、単独性は消えてしまうわけではない。


 「とにかくそれはそういうものだ」という絶対的な真理を例えば信仰、「神がそう言うからだ」と見なすとする。(特に宗教に限った話でもないため、「神」という名前で呼ばなくても良いが。)しかしその神は相対主義的な視点によっていくらでもある仮定の一つの地位にまで引き下げられてしまう。ところが相対主義を徹底させることで今度は単独性が現れてくる。「私がそれを選択する必然性」を私は説明できない。しかし私は選択する(せざるを得ない)。そうして人はもう一度、信仰だ、神がそう言うからだと呟くことになる。
 始めに絶対主義として神は現れる。それは一度、相対主義によって廃棄される。しかし単独性によって再び眼前に神を突き付けられる。
人によってそれは「神」という言葉で認識されるとは限らないが、そうした限界点が、このモデルを徹底した末に露呈されるということだ。


 なおここで「単独性」という言葉を使っているのは、柄谷行人の『探究II』で語られる「単独性」というものが、こういう位置付けに収まるのではないかと(今のところの私が)考えているためである。






(4) 関連する過去の記事


「間違っている」という指摘の位置づけ - やしお
 正しさには妥当性と無謬性があるという話と、その無分別が見せる様々な光景について。


無宗教ゎっらぃょ(><) - やしお
 「神」あるいは信仰が相対主義による否定の後にもう一度突き付けられるということについて。


この視界を更新する - やしお
 思い込みを廃棄する=より根本的に考え直す手助けをしてくれた本6冊の紹介。


会社のなかの筋を知る - やしお
 会社の中の筋論について。今回示した枠組みが比較的明瞭に出ている。


目的、現状、手段 - やしお
 体系を立て、現実と比べ、作り直して……という作業のサイクルについて。


人間関係のデザイン方針 - やしお
 体系が無限に畳み込まれている他人とその間の関係性について。


世間力試論 - やしお
 日本社会の各種特徴、受信側負担システムと世間力の強さ等について。言語も含めて体系として見ると恐らく同値関係になっている。


批評は個人の好みを越えてどのように可能か - やしお
 本記事の「違う側面で見ること/豊かであるということ」節の延長。


 また、以下の2007年の記事で「基本モデル」自体は既に確認していた。今回はその後についての再整理にあたる。
楽をしたいだけ - OjohmbonX
引かなくていいかもしれないボーダーラインを引くことしか頭にない人たちを減らしたい - OjohmbonX