やしお

ふつうの会社員の日記です。

30歳 男性会社員

 30歳になった。いろんな面での今の実感を記録に残しておこうと思った。


年齢の実感

 はっきり自分のことをおじさんと思うようになってる。でもこれは26歳くらいからそう思っていたので、「もうおっさんだなあ」と改めて思うという感じでもない。もともと28歳くらいの時点で30歳のつもりで生きていたので、(あらまだ30なの)という感じ。
 ただなってみたらなってみたで、30なんだなあ、自分が30歳って変な感じするときもある。この「変な感じ」は、現在の自分の視点を離れて、若かった時の自分の視点で今の自分を眺め直しているときに、30歳の自分なんてあんまり考えたことなかったなあ、なのに現に今自分がそうなっている、という齟齬からきているようだ。「10進法で桁が変わった」というだけのことなのに、20代から30代になったっていうのでやっぱり区切れ目を感じているところがある。
 この前会社で30歳研修を受けて、入社からこれまでをまとめるという宿題で「22歳」のことを書いている時に、22歳、若っと思って笑ってしまった。今23歳の後輩と(若いなあ)と思いながら日常的に仕事をしているので、「22歳だった自分」を突き付けられると不思議な感じがする。高専に本科5年+専攻科2年で計7年通ってた時は(ちょっとこれ長すぎだろう)という気がしていたのが、もう会社に入って8年かと思うとびっくりするけど、まだ(長すぎる)という感じはない。周辺がおじさんばかりだというのと、まだまだやらなきゃいけないことがあると思えているからかもしれない。


 はっきり自分のことを「おじさんだ」と思えるのは、後輩や甥っ子といった相対的に若い人と接することでそういう自覚が生じているからだ。甥っ子が生まれた8年前の時点で「自分はおじさんなんだな」ともう思っていたし、去年あたりから職場に後輩ができたりして、その年齢にふさわしい役割を全うしたいみたいに思っている。
 そうじゃない人、周りの人員構成が変わらずにそのまま周りと一緒に年を取ってる環境にいる人にとっては、もしかするともっと(えっ。自分30とかマジかよ)のショックが強かったりするのかもしれない。30歳なのに子供っぽい服装をしてるとか。社会的年齢と自覚的年齢との齟齬が、そういう人だと大きくなるのかもしれない。


身体感覚

 加齢に伴う変化を実感している。
 例えば二度寝ができなくなった。休日に遅寝遅起きにシフトするというのが昔ほど自由にできない。平日と同じ時間に眠たくなるし、どれだけ眠くても朝目が覚めて二度寝ができなくなっている。体は眠いと言っているのに脳が眠ってくれないという感覚だ。
 それから歯茎も後退してすき間ができてきた。(歯医者に言わせるとちゃんと歯茎のマッサージができて本来の位置に戻っているからこれでいいと言うが。)髪もまだ人に気付かれるレベルではないとしても薄くなってきている。もともと指に刺さるくらい固くて太い髪質だったけれど、柔らかくなっている。肌も昔よりは確かに若くなくなっている。
 ただ本人としてはそれを悲しいとか嫌だと思うことはほとんどない。年齢相応ならそれでいい。髪が薄くなるならなったで、別に隠したいともあまり思わないし、ただ他人をびっくりさせないようにソフトランディングできればいいなと思ってる。
 でも、親からしたら自分の子供が少しずつ老いていくのを見るっていうのは、どういう感じなんだろう? と思うことはある。


 一方で、全体としては20代前半のころよりも体がよく動いているという感覚がある。
 なんか筋トレとかをしてみたら体が基礎的に楽に動くようになってる。少し走ったりしても昔より息も楽だ。加えて細かいコントロールが全体的にきくようになっている。体を動かすことがより意識的にできるようになってる。どうすれば上手くいくか、もっと効率がいいかというやり方を考えることができるようになっている。
 あと老化していても、見た目の総体としてはまともになっている。髪型や服装への意識が例えば15歳のとき、20歳のとき、25歳のときと比べてまともになっている。中学校の卒業アルバムとかもっさりしてた。後は学生の頃よりはるかに人と話したり接したりすることが多くなって、表情筋が鍛えられているとかいうのもあるのかもしれない。
 身体にしても見た目にしても、もともとひどかったのが、多少まともな水準になっただけのことだ。


金銭感覚

 20代前半に比べると少し緩くなっている。というか26くらいの頃と比べても緩くなっている。
 もともと人と比較して財布のひもは固い方だったと思う。人に何かをするのはともかく、自分を甘やかせるのが特に嫌だった。実家がやや経済的に苦しかったので、親がつつましく暮らしてるのに自分が散在するのは罪悪感みたいなのがあった。そういう感覚がだいぶ薄れてきている。ペットボトル飲料もめったに買わなかったのに、最近ときどき買ったりしている。自炊がめんどくさくてお総菜や外食で済ませることが少し増えている。ただそれでも、自分にお金を使うより、人にお金を使う方が罪悪感が少ないという傾向は残ったままなので、自分を甘やかしてる分、余計に人にお金を使うようになっている気がする。
 単に収入が逓増しているから意識が変わってるってだけだと思う。


対人関係

 他人との距離の取り方が上手くなっている。丁寧にフォローするところと、ぞんざいになっているところと、メリハリがついてきている。
 だんだん遠慮の解除が適切にできるようになってきている。これくらい言っても大丈夫というラインが体感として身に付いてきている。20代前半(特に就職する前)は人付き合いの機会の絶対量があまりに不足していたせいでそのラインが分からずに、よほど慣れた人でないと遠慮のレベルを高く設定し過ぎて、(こんなこと言ったら失礼だろうか)(嫌われるだろうか)という恐れが強すぎて、緊張感からよくわからないことを喋ったり、喋りすぎたり、喋らなすぎたりしていた。年上/年下、先輩/後輩、子供とかと付き合う経験が少なすぎて特に同学年以外だと変な感じになったりしていた。


 あと何度か出張や旅行で海外に行ってみて、相当はっきり「こうしたい」と言わないとまるで通じない、ということが良く分かった。日本だと「受信者側が解釈を負担する」という前提で成り立っている社会システムのせいで/おかげで、あんまりはっきり言わなくても通じる。かえってはっきり言うと「相手の受信者としての解釈能力を低く見積もっている」ことになって相手に失礼になってしまう。そういう社会でずっと生きてきたからそれが普通だと思っていたけど、実際にそうじゃない社会をお試しで体験してみたら、はっきり言うのが苦じゃなくなった。
 こういうのは結局、(あ、これくらいは大丈夫なんだ)という成功体験を積んで、自分を安心させていくのが必要なんだろう。小学生の頃は親が見知らぬ他人と当たり前みたいに世間話をするのを見て、(どうやったらあんなことできるんだろ。自分には一生無理かもしれない)と恐怖していたけれど、実際におっさんになってみたら、できるようになっていた。


 今年↓で対人関係についてどう考えるかまとめてみて、ある程度基本的な方針がはっきりした。「人(自分&他人)の自尊心を満足させること」といった方針を決めたので、あとはその辺がどれくらい徹底して運用できるか、継続して試してみたいと思ってる。
  人間関係のデザイン方針 - やしお


家族

 結婚して子供ができて家庭を営むみたいなイメージは、10代の頃は漠然と勝手にそういう風になるもんだと思ってたし、25くらいまでは割とはっきり子供もほしいなと思ってたけど、20代後半からはかなりどっちでもよくなった。反動で「俺はどうでもいいし! 負け犬じゃねーし!」って、肩ひじ張って「どっちでもいい」と言ってるんじゃなくて、本当に自分にとってどっちでもいいという感じになった。結婚するならしてもいいし、子供ができるならそれでもいいし、独身ならそれでもいいし、そのへんの条件が多少変化しても、どの道自分は自分を幸せにできるはずだ、という確信みたいなものがあるようだ。ときどき一時的に、ああいいなあ、子供と暮らすってうらやましいなあと思ったりするけど、割と一過性だ。
 その辺の話は28歳のときに↓にまとめていて、今も感じ方はほぼ変わりない。
  人生に納得がいく。穏やかに幸せ。28歳。 - やしお


 ただ、プライベートで話し相手がいないのは精神衛生上よくないというのは割とはっきりしている。今は職場で人と話す機会もあるし、割とよく遊んでいてたまに旅行とかいく友人もいるので助かっている。ただこの先どうなるんだろうと思うことがある。その友人とルームシェアするっていう選択肢もあるのかなあ(その友人も結婚するという気は全くないようだし)と思ったりもするけど、まだ特に何もしてない。


 あともし今後、母親が健康面でどうにかなったらどうしようかなと思うことがある。もう仕事辞めて岐阜に戻るのかなあと思ってる。この前、会社の30歳研修のときにそういう話にもなって、結構みんな親の介護とかは不安なんだなと思った。父親が急死した時、当然しんどいとかつらいとか悲しいとかそういうメインの感情はあるけど、一方でほっとした気持ちもあった。めちゃめちゃ介護が大変とかそういうことにはならなかったな、っていう安堵があった。
 そりゃ「親の面倒を子供が見るのが当然視されている社会システムがそもそも変なんだ」と言えばそうかもしれないけど、現にその条件で生きている以上はしょうがないからね。


仕事

 今現在は何かとても充実感に満たされている。
 以前に↓でも書いたことだけど、仕事に対する満足感は、仕事の内容そのものに依存すると言うより、「自分がより良く変わっている」もしくは「自分がより良く変えている」という実感が持てる状態、その形式に依存するようだ。
  改善活動を熱心にやる意味って何 - やしお


 もともと高専(専攻科)を出て技術系として就職しているから、昔は漠然と(自分は技術者になるんだなあ)と思ってた。だけどあんまり技術を磨いてどうこうという職場ではなかったせいもあって、結局今はもっと効率よくやりたい、そういうチームをデザインしたりマネッジしていきたいって方に関心が移っている。ちょうど今いる職場の中で、そういうことを考えてやろうと思ってある程度できる位置にいて、実際に成果も出てきていて楽しい。元々管理職になりたいという気持ちはほとんどなかったけれど、そんな経緯で、もし課っていう単位で役割や運営を本気で考えて実践できるなら(失敗も含めて)面白そうだ、という気持ちに移ってきたのは、就職する前の自分では想像もしていなかったことだ。
 とは言え、もともと「最適でありたい」という気持ちからそう思ってるだけなので、また環境が変わったら「技術者になりたい」とか「営業にんげんとして腕を磨きたい」と思うようになるかもしんない。その組織で相対的に自分がピッチャーをやるのが最も勝てそうならそうしたいし、ボールボーイをするのが全体最適になるならそうしたい、みたいな感じ。
 でも会社を辞めてフリーターになったとしても、同じように思えるのかなとはやや疑問に思ってる。まるで無茶なことを言う人ばかりの中で、お金の不安も抱えながら働くといった環境に入った場合でも、そう思えるだけの強固な基礎工事が自分の中でできているだろうか、とはちょっと思ってる。


思考

 ものを考える力はだいぶまともになってきた。20歳の頃に比べたらもうぜんぜん、25歳の頃と比べてもそこそこ良くなってる。仕事の上でも普段の生活でも、物事を把握してどうするか判断するのが早くなってる。
 この前、これで20代も終わりだしと思って↓をまとめた。
  認識の枠組み - やしお
 思考の枠組み、ベース部分はもうこれで行くことにして、個別具体的な案件(小説のことなり仕事のことなり全部)にどんどん適用していって、ひたすら考えて、どこかで限界点にぶつかるまで考える、っていうのをとりあえず続けていくしかないと思ってる。それで得られた知見を比較したり総合したりしながら、あっちこっちをどんどん繋げて、どんな景色が見えてくるか試してく。
 それで結果的に、枠組み自体が更新されるってとこまで持っていけたらいいけど、こればっかりは確証を持てるってことなくてやってみて後から見返してわかることだから。
 50歳くらいになって思考力(?)が最大になればいいなと思ってる。


道楽

 ブログ(はてなダイアリー)を、別アカウント含めて11年やってる。「考えてることを整理して残しておこう」というブログと、創作のブログ(と、あと短い読書感想文)っていう構成でやるなんて5年前10年前は考えもしなかった。
 単に習慣になってダラダラ続けてるだけという面もあったりして、そのせいで、じゃあもっと大きく腰据えて作ってみよう、というのが阻害されている。それでいっぺん止めてみたらどうかなと思いながら踏ん切れずにいる。このまま続けてみてもいいし、止めて腰据えて大きいもの作るのでもいいし、どっちいこうかなっていうのは決めてない。


 本を読む量自体は特に増えも減りもしていないけど、その中で小説が占める割合が年々減っている。もともと20代半ばの時点でも小説以外の本(新書とか)をそこそこ読んでいたけれど、もう少し人文系のしんどい本でも読めるようになってきてそっちに興味がシフトしていってる。
 勉強したいことがたくさんある。よく「だから学生のうちにめいっぱい勉強した方がいい」と言う人はいるけど、今勉強したいなと思うことはこの歳になって、ここまでの積み重ねがあった上での「これを勉強したい」なので、学生のときにやってても身に付かないようなことだからしょうがない。




 総じてハッピーだ。本当に人生に満足してる。大病も大怪我もなく、お金の心配もせずに生きてるなんて許されるんだろうかって気がする。どこまで行けるかわからないけど行けるところまで行ってみたいという感じ。