やしお

ふつうの会社員の日記です。

空気を読まずに怒るのが難しい

 ちょっと前に、フリーランスの人が区役所のイベントの仕事を引き受けたら、会場をダブルブッキングしてしまった区の職員に「会場のキャンセル料をあなたのギャラから引く」とむちゃくちゃなことを言われた、という話が話題になって、実際いきなり理不尽なことにさらされても適切に怒るのって難しいよねと思った。
 そのフリーランスの人は、でもイベントに集まってる人たちに迷惑をかけられないから、と思ってその理不尽な要求を棚上げにした状態で仕事をこなした。本当なら「これが解決されなければ仕事は引き受けられない」と、イベントを台無しにしてでも突っぱねた方がいい話なのかもしれないけど、自分がその立場だったらそこまでできるんだろうか思うと結構難しい気もする。
 子供の頃からずっと「空気を読むこと」のトレーニングばかりしてきてると、必要なときに空気を読むモードを解除する、というのが難しい。


 ウィリアムズ選手を見習うといいのかもしれない。全米オープン勝戦をたとえ台無しにしても、「理不尽だ」と感じたら怒る。
 こうした「場を犠牲にしてでも怒る」というのは、その正当性の程度によって、許容されたり非難されたりする。飛行機や電車で怒って運行妨害した人のニュースがたまにあるけど、「そんな仕打ちを受けたのなら怒っても当然だよね」となるかどうかは内容次第になる。ウィリアムズ選手も、審判の方が間違っていると思ってる人からは擁護されるし、ウィリアムズ選手の方が間違っていると思ってる人からは非難される。


 ということは結局、どれだけ自分の判断に自信を持てるかが、「空気を読まずに怒ること」をできるかどうかに繋がるということになる。そして自信は、「それで周りが肯定してくれた」という成功体験の積み重ねによって生じる。批判される程度も社会の文化によって違っていて、たぶん日本の方が「自分を抑えて空気を読め」という考えが強い傾向にあるのだとすると、怒ることが肯定されにくい社会の中で、怒ることによる成功体験を積み重ねるのは難しい。


 自分は25、6歳の頃から「あんまり空気読もうとするのはやめよう」と思うようになって、会社の会議でも「自分はこう考える」をちゃんと言うようになってからかなり気持ちが楽になった気がする。きちんと筋が正しいこと、客観的な事実を集めて組み立てたことなら、周りが納得してくれるというありがたい環境だったおかげで、少しずつ自信が持てたんだと思う。
 それは感情的に怒ることとは違うけれど、「自分の筋論はたぶん間違ってない(みんな理解してくれるはずだ)」という自信は、いざ理不尽な目にあって怒らないといけない時に少しは役立つんじゃないかなと思っている。


 「怒り」以外でも、「暴力」でも同じだなと思うことがある。生きていると、いざって時に暴力を正確なタイミングで振るわないといけなくなる瞬間に放り込まれるかもしれない。通り魔に遭うとか。でも子供の頃から「他人に暴力を振るってはいけない」という教えでずっと暮らしていたから難しい。正当防衛と言えるのかどうか正確にすぐ判断するのは難しいし、正当防衛とは言えなかったとしてもやらないと殺されちゃうみたいなこともあるかもしれないし。
 そういうことを考え始めたのは、もしかしたら東北大地震津波を見たのがきっかけだったのかもしれない。恥ずかしいとかたぶん大丈夫とか思わずに全力で逃げた人は助かった、そういう微妙な差で生死が決まっちゃう。でも自分はそういう場面でちゃんとできるんだろうかみたいなことを、あれだけの災害であれほどの人が亡くなってしまうのを目の当たりにしたら、考えずにいられなかったんだろうと思う。
 リミッターを正しく外すことは難しい。