やしお

ふつうの会社員の日記です。

予告編のへんな嘘のつき方の、気持ちがよくわかる

 洋画の予告で嘘をつく、しかも面白くなさそうに見せるって現象をよく見かける。
 「オデッセイ」は宇宙飛行士の救出劇っぽく予告では見せておきながら、実際にはサバイバル劇、火星版ダッシュ村みたいな話で、予告のイメージよりずっと楽しかった。
 「マネーショート」はウォール街で出し抜いて大もうけという予告だったが実際には、嘘だらけの金融システム、住宅バブルがはじけて一般人が苦しむ事態でもうけてる自分、もう何もかもに苛立って無力感にさいなまれる姿を描いていてずっと面白かった。


 一般ウケのために予告で嘘をつく、しかも逆につまらなそうに見せる。予告で期待して見に行った人は裏切られ、予告で失望した人は本編を見ないまま終わる。誰の得にもならない。ついでに原題は、「オデッセイ」が「マーシャン」、「マネーショート」が「ビッグショート」で、ここでも一般ウケのために誰の得にもならないことをするという姿勢が貫かれている。


 すごくよくわかるという感じがする。担当者個人のセンスの問題じゃない。こうしないと決定権者(上司だったりスポンサーだったり)に話が通せないからそうしてるだけなんだと思ってる。
 「以前これでウケたのでこうしました」と説明しやすくしてダサくなる。「誰に対しても説明できる」というのは「常識」とイコールだけど、常識からズレた瞬間にしか面白さが生じない以上、常識に寄り添えば必ずつまらなくなる。
 しかも決定権者が個人ではなく「空気」だったりする。実際には誰も明確に説明も結論も下していなかったりする。あとで誰かに責められたくないというみんなの心の集合体で、最終的になんとなくダサいものが出来上がっていく。説明しやすさの自主的な準備を、みんなで勝手に先回りしてやって作り上げて、誰が得するんだかわからないものを結果的に作り上げる。
 そうした内輪の論理が、そのまま丸出しで外に出てくる。
 誰が得するのかよくわからない「便利機能」みたいのを搭載させた家電を見るときと同じ気持ちになる。
 邦画の場合は本編を裏切ってダサい予告編はあまり見かけないかわりに、そもそも本編がダサいことが多い。これは洋画に対する予告編や邦題と同じことが、邦画では本編自体で起きているからだと想像してる。監督(脚本)のネームバリューが強くて「この監督なので」という説明だけで済む場合だとわりと大丈夫なのかもしれない。


 映画の「キング・オブ・プリズム」とかガジェットの「ポメラ」とか飲料とかお菓子とか、コンセプチュアルに突き抜けた作品や製品がふいにヒットすることがある。だいたいその場合、ものすごく担当者個人が頑張った、って美談(?)があとから出てくる。「これが絶対に面白いんだ」と強く確信して、会議を通したり根回ししたり他人を巻き込んだり試作したり陰で勝手に進めたりして、絶対にぬるめずに最終的に実現させた、って話になってる。
 邦画でも例えば「俺物語!」の脚本は、原作漫画のエピソードも押さえながら、徹底的に再構築して「この瞬間、この一点で観客全員を絶対に気持ちよくさせる」という内容になっていた。「絶対にこの自分がこれを最高に面白くさせられる」という強い確信がないとできない仕事だろうなと思って、「担当者が頑張った」の美談を想像しながら見てた。


 プレーヤー側の論理だと「本気でこれがいいと思えるものに殉じろ」、「コンセプトを絶対にぬるめさせない」、「それを他人に伝えられるように全力で言語化/視覚化しろ」でいいのかもしれない。でもそれはマネジメント側が採用していい論理にはならない。最悪の場合「お前がそういうプレイヤーじゃないからだ」と責任転嫁することに繋がる。最低限「そういうプレーヤー」の邪魔をしない体制、できれば「そういうプレーヤー」が育つような体制をつくらないと管理側の存在意義がない。
 上司のような位置にいる人が、なまじ過去のプレーヤーとしての経験や知識があったりすると、ついダメだししてしまったりするのかもしれない。それでプレーヤーを抑圧していく。抑圧されたプレーヤーは先回りして「本当に自分が最高だと思う仕事」ではなく「文句を言われないような仕事」をするようになっていく。
 いっそ決裁権者は「プレーヤーの説明は理解できる程度の知識はあるけれど、プレーヤーをとりあえず信用せざるを得ない程度に知識に欠けてる」くらいのレベルだとちょうどいいのかもしれない。プレーヤーが「俺がやんなきゃダメだなこの組織」くらいに思わせる空気感にするには、この程度の(一見)「できない上司」になった方がいいのかもしれない。米海軍の原潜艦長だったL・デビッド・マルケが「Turn the Ship Around!」の中で、自分が技術的に十分知悉している艦ではなかったため、細かい点は部下に委ねるしかなかったが、それが結果的に良かったと書いているのがちょうどその話になっている。(ちなみに「Turn the Ship Around!」の邦題は「米海軍で屈指の潜水艦艦長による「最強組織」の作り方」というダサいものにきちんとなっている。)
 プレーヤー側にしか一番生の判断は結局できないはずだと、とりあえず決済権者が信じてみるのもいいのかもしれない。


 洋画のダサい予告編、邦題、ポスターその他を目にするたびに、他人事じゃないような、ああーわかるー、ダサいかもしれないけどとりあえず文句は回避できるもんねー、という気持ちになる。昔は「ダサい! 作ってるやつらがバカだから!」と簡単に断罪していたけれど、自分がそちら側に回ってみるとそうなってしまう光景がよくイメージできる。そしてそれを止めるということが、かなり腰を据えないと難しいということもよくわかるので、同情したいような気持ちになる。