やしお

ふつうの会社員の日記です。

アニメスクショのことなど

 アニメの画面キャプチャ(テレビをスマホのカメラで撮った写真とか)をツイッターなんかに載せる行為のことを改めて考える機会があったのでメモしておこうと思った。




 「許されるかどうか」には色々な面があって、法律でダメだからとか、社会や世間に叩かれるからとか、親や先生に怒られる、友人に嫌われるからとか、神が許さないからとか、たくさんある。全部ぴったり一致することはなくて、ちょっとずつズレている。適法だけど世間が叩くこともあれば、違法だけど許してくれることもある。どれを重視するかは別に決まっている訳じゃない。人によってもシーンによっても重み付けが変わってくる。
 信号無視も横断歩道の無視も道交法では違法(7条と12条)だけど、車が来てなくて、子供が見てなければいいやと思って違法行為をしたりする。事故になるとか、判断力のない子供が真似するとかの害悪と、遠回りせずにすむとかの利益をバランスして決めたりしている。
 絶対に違法行為をしないという信条の人ならやらないかもしれないし、親に禁止されてるからという理由でやらない人もいるだろうけど、いずれにせよ最終的には「それをすることを、自分は自分に許せるか」を考えて決めることになる。


 アニメスクショで現実的・具体的にどういう利害が発生するのかを考える時に、自力であれこれ考えるよりまずは著作権法を参照してどんな権利がカバーされているのかを見てみるのが早いかもしれない。著作権法の中には著作権(財産権)と著作者人格権(人格権)があって、お金関係は前者(複製権や翻案権が含まれる)、お金とは関係ないけど著作者としてされると困ることは後者に含まれる。
 著作者人格権では例えば、勝手に公開されるのは困る(公表権:18条)、自分が作ったものを他人の手柄にされるのは嫌だ(氏名表示権:19条)、自分が言ったことを言ってない、言ってないことを言ったとされるのは困る、勝手に変えられるのは困る(同一性保持権:20条1項)、変えなくてもおかしな文脈で使われるのは困る(名誉声望保持権:113条6項)、といった嫌なことのあれこれがカバーされている。


 著作権法では、権利者が民事上の請求(賠償や差止、名誉回復等の請求)ができること(112〜118条)や、罰則に関する規定(119〜124条)が定められている。ただ道交法などと大きく異なるのは、禁止や命令といったルールで全員が必ず従わないといけないというより、罰則の大部分が親告罪となっている(123条)ように、権利者の判断に任せる形になっている。引用など権利の制限が規定されている(30〜50条)ことからも、常に全部ダメというより幅を持たせてある。
 例えば引用は「公正な慣行に合致するもの」で「目的上正当な範囲内」なら権利者に無断でやってもOK(32条)となっているが、じゃあどこまでがいいのかは法律だけではよくわからない。それでいろんな団体や個人が、判例なども参照しながら「こうすれば良い」というガイドラインを示している。これは引用に限らず、著作者人格権も含めて「ここまでやっておけば権利侵害はたぶんクリアする」というラインを示すものだ。権利者がどこまで許してくれるか意思を明示していない場合でも安全なラインを示すというもので、「全員が守るよう強要するもの」という位置付けではない。


 パロディや二次創作も全部ダメ、写真に写りこんじゃったとか、ネットオークションで出品するから写真を撮ったとか、検索エンジンがプレビュー表示させるのも全部ダメ、ちょっとでも勝手に使ったら全部ダメ、とすることが世の中にとっていいのかというせめぎ合いもあって、権利者に判断を委ねたり、権利が制限される箇所があったりする。権利者の利害と利用者の利害のバランスがある。このバランスをどのラインで引くのが適切と考えるかは個人によっても企業によってもバラバラだし、国によってもバラバラだ。日本はその意味ではかなり権利者側に寄っていて、例えばアメリカはかなり利用者側に寄っている。
 アメリカでは著作権侵害に対してフェアユースを理由に抗弁できるけれど、Google Booksまでフェアユースが認定されるくらいにかなり広い範囲で認められている。アメリカでは著作者人格権を最小限でしか認めない傾向もあるようで、それは「実質的にどういう金銭的な被害があったか/見込まれるか」と「これによってどういう利益が全体に生じるのか」を具体的に見ていくという姿勢なのかもしれない。日本の場合はどちらかというと実質的な被害というより、著作権法の制限規定を超えているかどうかというのが判定基準になっているみたいだ。権利者側に寄った判断がされることがあるために(実質的にフェアユースっぽい判決が下されることもあっても)引用のガイドラインはかなり安全側に振らざるを得なくなって萎縮して、それって全体最適なんだろうかみたいな感じもある。なるべく自由である方がいい、最小限度の制約でなるべく全体が豊かになった方がいい、という考えからするとやや制約が強いようにも見える。
 著作者人格権にしても、「作り手の人格の延長上に作品があるはずだ」という前提、「作品は作者の不可分な一部だ」という考え方自体が自明に妥当だとは言えないはずで、「作品は作者と独立した存在だ」「公表した以上は自分の手を離れている」という考え方だってあり得る。財産権としては認めても、人格権としては捉えない、という考え方もあり得る。
 成文法中心の大陸法判例法中心の英米法とがあって、しかもその中でも判例の先例拘束力が弱いアメリカだからフェアユースという考え方があって、じゃあ日本の著作権法フェアユースの規定をいきなり入れて法体系として馴染むのか、というとそれも難しかったりするのかもしれない。
 そんな風に国によっても判断基準がまるで異なることを思えば、自分の国の現行法が引いているラインを無条件に「正しい」とみなすのは難しい。


 アニメスクショも程度問題で、例えばアニメの一エピソードをまるまるアップして「これ笑える」というコメントだけ付けるのはどうなの、だってそんなことしたらお金払ったりテレビ放送で見る機会が奪われる、実質的な(潜在的な)金銭的な被害が発生するからダメでしょ、とは思う。
 それから「宣伝になるからいいでしょ」と言うのは自己欺瞞で、ジャスティン・ビーバーくらい影響力がある人が言うならともかく、あるいは権利者の側が言うならともかく、やってる本人が言うのは単純に間違っている。自分が面白いとか変だなとかすごいなと思ったことを他人にも知ってほしい、同意してほしいという自己顕示欲や承認欲求の満足のためにやっていることを、あたかも利他的であるかのように語るのは自分で自分をだまして安心させている。
 そうした目的のためだけなら別にアニメスクショしなくてもいいでしょ、言葉で説明すれば事足りるでしょ、というのもその通りだけど、それは「現行法の権利の範囲が妥当である」を前提にした話になっている。その前提を共有しているか、もしくは「全員が確実に遵法精神を全うしなければならない」という価値観を持っているかでないとそれは成り立たない。


 アニメスクショは、現行の著作権法から見れば明らかに複製権を侵害している(制限規定から逸脱している)。ただそれは、例えば無許諾の二次創作が翻案権を明らかに侵害しているとしても、それで権利者の利益を逸失させていないなら黙認した方が全体にとってハッピーだと考えるのと同じような意味で、程度問題で考えればいいと感じている。
 それで、

  • 動画をまるまる載せるようなことはしない、画像もあんまり高画質なものを載せない
  • 作品名を書くか、文脈上でわかるようにしておく(もし見た人が気になったら自分で調べたり買ったりできるようにしておく)
  • 権利侵害を許容しないという態度をはっきりさせている権利者の作品にはしない
  • 権利者にやめろと言われればやめる
  • 遵法精神が世間にウォッチされているような人たち(企業の公式アカウントや有名人とか)の場合はリスキーだからやらない

といった感じで権利者の財産権を実質的に脅かさないように、あるいは自分自身がダメージを受けないようにやっていけばいいんだと思ってる。何か重大な見落としに気付くなり状況や環境が変わるなりして、やっぱり厳格に運用した方がバランスが取れているなと思い直せばまた態度を変えればいい。一方で「私は(現行法上での)権利侵害は一切しない」という態度決定もまた、それはそれでリーズナブルだと思う。結局は自分で考えて決めるしかない。
 わざわざ「俺は信号無視するぜ!」「みんなもしろよな!」と声高に言うのがおかしいように、正しいと思ってするというものでもなく、またこれは法律論というわけでもない。現行法に対しては違法であることを自覚しながらも、現実的な害を十分低減させつつ最終的に「それをすることを自分は自分に許せるか」を考えて個人がそうするというだけのことでしかない。