やしお

ふつうの会社員の日記です。

他人に秘密を背負わせざるを得なかったこと

 一橋大学の男子学生が、ゲイであることをアウティングされて自殺してしまったという話で、「一方的に他人に秘密を背負わせるのもどうなの」みたいなブックマークのコメントにそこそこ星がついていた。いきなり他人に重い鉄の塊を渡して「落とさないように持ってて」と一方的に要求するのは理不尽だろうという。だから渡した側にも加害の一面はあるはずだろうという。
 たとえば車椅子の人から申し訳なさそうに「階段を上るのを手伝ってくれ」と頼まれる。たまたま居合わせた4人で運びながら(運が悪かったな)と思うことくらいはあるかもしれない。しかし「どうして一方的に手伝わせるんだ。我々の負担になるんだから我慢しろ」と車椅子の相手に言うのだろうか? スロープやエスカレーターが設置されていない現実や、サイボーグ(?)が実現されていない現実に文句を言うのではなく、相手に向かって文句を言うというのは筋が正しいのだろうか。
 たとえば「血液型がB型の人間は気持ち悪い、生理的に無理」という価値観が一般化した世界や、徹底的に左利きに最適化された世界を想像してみれば、たまたまB型や右利きであるといってひどい生きづらさを強要されるのは奇妙なことに思える。同じことだ。同性愛者でも障害者でも女性でも外国人でも同じことなのだ。
 以前似たことを書いた。「同性愛者が彼ら同士で愛しあうのは認めないといけない」という言説について、一見理解のあるフェアな発言であるように見えて、そして本人もフェアなつもりでいて、実際には差別そのものになっている。
  差別のライブ会場 - やしお
 いずれも「なぜこの人はその塊を人に渡さざるを得なかったのか」、「そもそもこの人が鉄の塊を持たせられているのはおかしいのではないか」という疑問を無視することでしか成立しない。かけっこで「同時にスタートしないとフェアじゃない!」という。一見もっともに思える。しかし実際には相手は10メートルも後ろからスタートさせられているのだ。不当・不合理な前提を無視する態度の上で成り立つ、嘘のフェアネス。それで「自分はフェアなのだ」と思い込んでいる。
 前提にある現実を等閑視するというこの態度は、根本的には「自分が今の自分であるのは当然だ」と信じている点に由来するのではないか。「自分はこの人だったかもしれない」と心底思えるかどうかという程度が個人でかなりの差があって、この差からこうした態度決定や、あるいはたとえば左翼/右翼の違いが生じるという説明ができるのではないかと思っている。