やしお

ふつうの会社員の日記です。

稲垣さんの話のこと考えてた

 稲垣さんがおじさんと半同棲してる、みたいなネットの記事を断片的に読みながら、(ああ、ぜったい「ホモなんだ」「カミングアウトしたんだ」って疑わない人がこの地上に大量にわき出て、当分はそこここで目にすることになるんだ)と思って急にしんどくなってきた。
 二者関係を、友人、パートナー、妻/夫、同僚といった既知のカテゴリで分類できると信じて疑わない人たち。人間が二人いればそこには唯一無二でぜったいに他とは同一ではあり得ない関係性が存在する、という単純な事実をすっかり忘れてしまった人たち。


 二者の関係を、他人/友人/恋人/夫婦のいずれかに分類できるに決まってる、と思い込んでいる人はことの外多い。それで「どれに分類されるんだ?」という前提で材料を集めてく。稲垣さんが「精神は恋人」「自分の性別がわからなくなってきた」と言ったとしても、それはただそれ以上のことを別に意味してないのに、もう勝手に「ほのめかし」だと早合点してカテゴリ分けの材料にしちゃう。(あるいは「分類外」というレッテルを張って除外する。)
 カテゴリ分けをしたがってる周囲の空気を感じとったり、あるいは本人自身がカテゴリ分けできると思い込んでたりすると、意識的にか無意識的にかそれに見合うように考えちゃうし発言しちゃう。だからってそれを都合よく分類のための材料にしちゃだめだ。「精神は恋人」というのは「通俗的なカテゴリに照らし合わせると心理的には『恋人』が一番近い」というだけの意味で「こっちは恋人だと思っててセックスとかしたいと思ってる」ということを即座に意味するわけじゃない。「性別がわからなくなってきた」というのは「今までの捉え方では捉えられないと感じている」というだけで「自分は精神的に女だということを認めた」ということを即座に意味するわけじゃない。


 二者関係だけじゃなくて、性自認や性指向だってそうだ。男/女に分類できるわけじゃないし、異性愛/同性愛に分類できるわけじゃない。大雑把だからだめだということじゃない。どれだけでも細分化して分類はできるけど、結局のところ現実に存在しているその形態は唯一であって、分類すると原理的に現実のかなりの要素を捨てることになるってだけだ。これは分類が無意味だと言ってるんじゃない。分類が効果的なときはその枠組みで考えればいいけど、分類は作業仮説であって真実などではないし、こぼれ落ちるところがずいぶん大きいことを忘れない、というだけだ。


 人との関係性を分類するっていう通念は、たとえば「告白」っていう制度が一般化してることにも現れてるんだよなと思う。友人から恋人へ「告白」という儀式を通して境界をまたいで移行するという。「この人と話をしてたい」「一緒にいたい」「性交したい」という個別具体的な欲求や願望が先行するのではなくて、友人/恋人という分類が先行して、その枠組に従って欲求や願望が設定される。


 丁寧に具体的に「こういう関係性なんですよ」と親切にも説明してあげたときに、(そうか、こんな関係性もあるんだな)と受け取ってくれる人もいるけど、少なくない人がどれだけ説いても(そうか、ホモなんだな!)で片付けちゃう、その光景を見るのすごくしんどいなあと思って。そういうこと言っても「いやいや、だって別に同性愛のこと否定してるわけじゃないし」としか思われなかったりする。そうじゃない、分類した後で肯定するか否定するかということじゃなくて、分類することそのものへの疑いのなさが見ててしんどいってことなんだ。
 とりあえずワイドショー・バラエティ番組・ヤフコメ・ブコメ類を見ないことで防止するけど、次に実家帰ったときにぜったい母親が話してくるんだよね!