やしお

ふつうの会社員の日記です。

末木文美士『日本仏教史』

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国家権力が宗教権力をどのように無力化したかというのは、国家に従順な国民が形成される意味でもとても重要な話だが、日本の仏教にとっては弾圧(信長の比叡山焼討ち等)→屈服(秀吉の千僧供養)→吸収(家康)という経過になっている。江戸時代初期の本末制度(本寺から末寺までの系列化)と寺檀制度(市民の登録先の確定)は、弱体化した寺側にとっては下位の寺に対する権力と市民からの収入を確保できるメリットがあったために進んで協力した。中間勢力が自身の無力化に積極的に荷担してしまう状況が形成されてしまうという。

 奈良時代あたりだとまだ宗派はばらばらじゃなくて一つの寺院に同居していたという話、イスラム教もシーア派スンニ派とあるけど完全に分かれているわけではなく一緒のところで教えられている、大学の学部みたいなもの、という話とよく似ていると思った。


 あと本覚思想というものが鎌倉仏教のベースというか前提にあるという指摘も面白かった。元々のインドで発生した仏教では人間とその他生き物はそもそも別扱いだし、そもそも全員悟りを開けるわけではなくて頑張っても無理な人は無理、そこは前提で別に議論の余地はなかった。ところが中国に入ってきて「人間とその他生物」という分離がなくなって、「じゃあ草木も成仏する」という考え方が出てきた。さらに日本に入ってくるとこの世界のあるがまま全てがそれでもうOKとさらに過激化していく。これが本覚思想だった。
 もともとの仏教は「世界をより精確に認識する」が目的で「そのためにプロセスを踏んで思い込みを引き剥がしていく」という手段が開発されたのに、本覚思想だともう「あるがままでオールオッケー」だとこの本来の目的と手段は無効になる。修行も何もなくなるし、より良く生きようとか努力しようとかもなくなる。
 いくら何でもというわけで、これに対する批判という形で鎌倉仏教の色んな宗派が興ってくるという。

日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)

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