例えば読書メーターでみんなの小説の感想とかを眺めていると、あまりに「書かれていること」を素直に受け入れて語っていると感じることがある。そして確かに自分も以前はそうした読み方しかしていなかったことを思い出す。
作者はどのようにでも書けたのに、他のどれでもなくこう書くことを選択した、という現実をとりあえず忘れて、作品が最初からゆるぎなく存在するように、「こういうお話」として、そのお話が面白いかどうかだけを見ている。そんな読み方。
なぜ一人称で書かれているのか、どうしてここで視点人物が変わるのか、なぜこの人物はこのタイミングで姿を消すのか、なぜ時系列ではなくこの順番でエピソードが配置されているのか、なぜこの語り口なのか……。そうした作者による無数の選択の上にその作物は成立する。それが書き手として戦略的な意図か否かはともかく、そうした無数の選択が寄ってたかってその作品の効果に資するのを見出だしたとき、読み手としては無上の喜びを感ずる。一方でその選択のうちいくつかがちぐはぐであれば落胆する。そうした作品の内的整合性を見ているのである。
もちろん、そればかりではなく物語も見ているし、登場人物に感情移入して素直によろこんだり悔しがるような読み方も持っている。しかしそうした「書かれていること」をただあるように読むことに加えて、先のようないわば書くように読むという読み方も加えれば、より読む喜びが深まるということを知っている。この「書くように読むという読み方」は、「書かれたもの」が最初からあるのではなく、誰かが現に書いたために生成されたのだ、という認識の上に立っている。
これは小説などのフィクションに限らない。ブログなどのノンフィクションに対するはてなブックマークを眺めていてもやはり、「書かれていること」をあまりにスタティックに読みすぎていると思わずにいられないコメントにあふれている。
家族や知人の愚痴や、事件についての感想や考察のブログ記事に、それは一面的な言い分だ、お前はアンフェアな人間だといった批判のコメントもそうだ。
そこには、書かれたものは書いた人の思想や認識そのものであるはずだという非現実的な措定が存在する。実際には常に、書かれたものは書いた人の思想それ自体からずれと欠落をはらまざるを得ない。「思想それ自体」というものがそもそも、言語を媒介としながらも、言葉のシーケンシャルな連なりに還元しようとする(書く)ともはや別物としてしか存在し得ない。
まるで無関係とまでは言わない。どこか似た姿をとどめてはいるだろうし、思想の一表現であるとまでは言い得る。しかしそれはその人そのものでも実際に起こった事態そのものでもあり得ない。例えば写真が実際に存在したある時空間の光を焼き付けた記録だとしても、それはその現実そのものではなく、ただ写真という別の現実でしかないのと同じことだ。
そんな当たり前の事などもちろん分かっていると批判する彼らは言うのかもしれない。しかし問題なのは、そうした当たり前の事実をいったん忘れることでしかあの「一面的な言い分を書いたお前は卑怯でアンフェアな人間なのだ」という一方的な批判を口にすることなどできない、という事実を彼らが忘れているということだ。
極単純な事実として、書き手がある現実をある程度正確に読み手に喚起させるにはそれなりの技術が必要となる。例えば姑の特定の振る舞いに苛立ちを感じてそれを文章に書き起こしたとする。そしてそれを読めば、まるで鬼のような無情な姑像がそこに出現する。実際には多少苛立ちを感じているだけだとしても、その苛立ちのみを切り取って言葉を整えてしまうと、もはやそれしか見えなくなる。そして読む者は「鬼のような姑だ」と読むか、あまりに「鬼のよう」が人工的に過ぎて一方的な言い分だと推定することになる。そして後者の判断のあと、一方的な書き方をするこいつはアンフェアで自己中心的な卑怯者だと断じて詰るのだが、実のところ単に書き手の書く技術、表現する技術が乏しかっただけだったりする。それで書き手はあわてて、「そんなことはわかってる」とか「たしかに私の書き方は一方的でした」とか追記することになる。
それでもなお、結局表現されたものを通じてしか他人の考えは計り知れない以上、その表現技術が稚拙であることは非難されてしかるべきだ、と強弁することも可能だし、別に誤りではない。ただ私は、職業作家でもなく、まったく無償で表現をした者に、非難でその口をつぐませるより、技術的拙劣さに目をつぶってでもなにか読むべきものを見つける方がはるかに建設的だと思って、そうした方針を選択するまでである。それはただ、私自身の喜びのための選択である。
ノンフィクションに対しては書き手と書かれたものとの距離をゼロとして、フィクションに対しては距離を無限大として見てしまうような両極端の読み方は、いずれも書かれたものが生成されたのだという現実を忘れ去ったときに成り立つ。それらはひとつの読み方としてあり得るにせよ、書き手と書かれたものとの現実的な距離を見ながら読めばより豊かな読み方が可能だということを実体験として知ってしまうと、もはや苛立たしいほど退屈な読みにしか思われないのである。