やしお

ふつうの会社員の日記です。

冷たいと言われる人達

 理屈っぽい、親身じゃない、家族や友人も所詮他人、本音で話さない、去る者を追わない、他人に期待しない……そうした態度の人が「お前は冷たい」「ドライな人間だ」と言われたりする。


 理由や論理を抜きにして相手に自分の言いたいことが伝わるとは考えない。どれほど気心の知れた相手でも、親子であっても、言わなくても伝わるとは考えない。結論だけを言えば全て分かってもらえるとは思わない。自分ではない人間に考えを伝えるためには、論理という共有のツールを利用して道や階段を整備して一緒にゴールに辿り着くしかない。そう信じて丁寧に説明していると「お前は理屈っぽい」と言われたりする。


 後輩や友人であっても求められていないアドバイスはしない。相手の服装に「もっとこうした方がいい」と無遠慮に言わないし、相手の仕事に「それじゃダメだ」と聞かれもしないのに言わない。部下から相談を受けている上司ではないのだ。もしどうしても何かを伝えたければ「自分はこうしている」「昔は自分もそう考えていたが、こういう理由で考えが今は変わっている」とさりげなく言えば十分だ。
 あるいは学習機会を相手のレベルに合わせて提供する。仕事であれば相手がこなせる粒度でパッケージングして渡せばいい。ある機会を自己の学習に利用するかどうかは本人次第でしかない。他人ができるのは機会を適切なレベルとタイミングで提供することくらいだ。そんなある種の「距離」を正確に保っていると「お前は親身じゃない」と言われたりする。


 家族だから/親友だから遠慮はいらないという。しかし相手を「自分ではない別個の人格を持った人間」として扱うことを忘れれば軋轢が生まれるほかない。何かをしてもらえれば「ありがとう」と言うし、自分に非があると思えば率直に認めて謝るし、意見の対立があればきちんと話し合いたい。
 あるいは家族だから/親友だから付き合いを保ち続けなければならないという思い込みによって関係性に苦しめられることがある。無理をして付き合い続けるよりも距離を取った方が全体として最善であればそうする。
 家族だから、親子だから、親友だからこうでなければならない、といった通念や常識に縛られない。言わなくても伝わる、これぐらい許されるといった甘えにも委ねない。人間対人間として最高の関係を築きたいと望み、そのために手を尽くす。しかしそれを「他人行儀だ」「遠慮している」と言われたりする。


 本音で腹を割って話すことが仲間の証だという。酒席などで他人の悪口や不満を言うことでこの相手は自分に本音をさらけ出している、嘘を吐いていないと安心する。しかしそれはせいぜい「了解された本音」でしかない。お互いに共有され得ると信じられる悪口や不満でなければ成立しない。言っても理解されない、あるいは拒絶されると考えられる「本音」は回避される。一切を本当にアンコントロールドにして話しても伝わらない。どの道演出された「本音」の交換でしかないのであれば、何かを見下すことでお互いが怠惰に安心するタイプのコミュニケーションを取るよりも、ポジティブな種類の考えを表明した方が良いと考える。相手が本音を言っていないかもしれないという不安は自分に属するものであって、その不安の原因をただちに相手に帰すると見做して相手を責めるのは単純に間違っている。しかしそうした態度は「あいつは本音で話さない」と非難される。


 仲が良かった兄弟や友人でも、お互いの考えが変わって疎遠になるということもありふれている。たとえ大きな喧嘩や仲違いやトラブルが生じて絶縁することになったとしても、あるいは曖昧に疎遠になっていったとしても、そのことによって過去に楽しかった事実や思い出や感謝が消滅することにはならない。最後の別れ方のみによって「あいつは最悪な人間だ」「裏切り者だ」と考えるのは貧しい。それと同時に「でもあの時は楽しかったし感謝している」と考えればいい。1か0で敵か味方かのどちらかに相手を分類するのは貧しく、良かったことと悪かったこととが複雑に畳み込まれた現実をそのまま見ようとする方が豊かだ。
 そのように見れば、たとえどこかで別れることになっても構わなくなる。お互いの人生のあるタイミングでたまたま一緒になれて良かったね、ありがとう、で終わりだ。無理に引き止めることも無理に引き剥がすこともせずに済む。他人へ過度に依存せずに済む。こうして「去る者を追わない」という態度になるが、このことで「冷たい」「淡泊だ」と批難されたりもする。


 他人に期待すること自体は生活していく上で必須となる。店員に注文すればきちんと持ってきてくれるはずだ、といった期待の上で物事が処理されていく。ただそのレベルをどの程度に設定するかという問題があるだけだ。「ん」と言っただけで妻がお茶を持ってきてくれると期待するのか、「お茶を淹れて」と言えば出してくれると期待するのか、あるいは期待はできないと判断して自分で淹れるのかといったレベルの設定がある。仕事で相手にどれだけ前提や知識を共有しているか、どれだけ解決できる能力があると見做してどの程度の大きさで業務を渡すのかというのも同じことだ。
 他人に期待したが実現されなかった時、裏切られたと感じて相手が悪いと考えるか、期待の設定レベルが不適切だったと自分が悪いと考えるかは、これも程度によるとしても後者よりに考えておく方がお互いにとって楽になる。他人は自分でない以上、自分が考える通りに動くわけがない、と最初から考えておく方が楽だ。こうして他人に過剰に期待しない(適切な水準で期待する)という態度になるが、そのことが「冷たい」という評価へ繋がることがある。


 「冷たい」と言われる人達の目には彼らの態度が「温かい」と見えるわけではなく、相手の自己決定権を踏みにじっていると写る。親が子に、コーチが選手に、上司が部下にこうした侵犯をする時、本人の意識としては「教育・指導熱心だ」「面倒見がいい」というものかもしれないが、「冷たい」人達にとってそれはパワーハラスメントや過干渉に見える。
 他人を自分と対等な別個の人間として遇したい。その上でお互いに最も幸福な状態を実現したい。そうした営みが働いていること、その内在的なロジックを見ることなしに他者を「冷たい」と断じる人達の方が温かい人間であると言うことはできない。


 しかし自己決定権は(権利一般がそうであるかもしれないが)バーチャルなものであり、実態として存在するわけではなく、「あると考える」という仮定の採用の上に存在する。そのため「存在しないものとする」という仮定を採用したコミュニティも当然あり得るし、そこではきっと「温かい」人達が侵犯の連鎖を繰り広げている。一方で立場の強い誰かからの侵犯に耐えながら、他方で立場の弱い誰かへ侵犯をする、そんな連鎖のネットワークで成り立つコミュニティ。
 そんな「温かい」人による侵犯にさらされた「冷たい」人は、他人を直接的に変えられるとは考えず、別れを悪や裏切りとは捉えない持ち前の淡白さで、ただ「温かい」人の前から去るばかりだ。