やしお

ふつうの会社員の日記です。

ウィリアムズ選手と怒りの位置付け

 USオープン 女子シングルス決勝でのセリーナ・ウィリアムズ選手の主審への抗議とそれに対するペナルティについて、およそ以下のような複数のストーリーで語られている。


【ストーリーA】 調子を落として苛立ったウィリアムズ選手はラケットに八つ当たりし審判に暴言を吐き、結果ペナルティとして1ゲームを落とし、終始冷静であった大坂なおみ選手に敗北した。
 当初の日本の主要メディアはおおよそこのストーリーだった。単にウィリアムズ選手を掘り下げるより大坂選手をフィーチャーする方がニュースバリュー(というより世間への受け)が大きいと判断されたために、「苛立つ調子の悪い36歳のベテランと冷静で絶好調の20歳のルーキー」という分かりやすい対比に落とし込んだのだと思われる。


【ストーリーB】 主審の判定は女性選手に対して殊更に厳しいものであり、ウィリアムズ選手の抗議はセクシズム、女性差別への抗議であって正当なものである。
 米国側の解説やメディアではこのようなストーリーで報道されているが日本ではそうではない、と例えば下記のブログ記事などで指摘がされた。
Dot Com Lovers: USオープン ウィリアムズ=大坂 ドラマにみるマイノリティ女性選手の葛藤と連帯


【ストーリーA'】 実際の試合や過去のウィリアムズ選手の言動から考えて、セクシズムへの抗議ではなく、調子の悪さから来る苛立ちや、敗北への言い訳づくり、またはアジア系選手への蔑視に基づくものである。
 ストーリーBによるウィリアムズ選手への擁護に対するカウンターとして例えば下記の匿名ダイアリーで展開された。
セレナ・ウィリアムズに賛同してる奴ら何なの


 試合そのものやウィリアムズ選手のキャラクターを見るとA(A')が妥当性のあるストーリーのように見え、一方でその行為の文脈上の位置付けを見るとBが導かれる。どの視点に立つかによって批判Aと擁護Bのどちらがより「真実である」ように見えるかが変わってくる。このため、Aが真実であると見える人からはBの人達は「現実の具体的な出来事を無視している」と見えるし、Bが真実であると見える人からはAの人達は「問題を不当に矮小化している」と見える。


 米国の主要メディアや著名人のツイートなどでストーリーBが概ね支配的だというのは事実だろうと思う。一方で、では米国民がおしなべてBの立場でウィリアムズ選手を擁護しているかというとそうでもない。米国のYahooニュースにもコメント欄が設けられているが、この米ヤフコメで人気のコメントになっているのは「なおみや主審には品格があるが彼女にはない」「彼女とNYの観客はなおみと審判に謝罪すべきだ」といったものばかりだ。あるいは「なぜYahooは勝者の記事を載せずにセリーナの記事ばかり載せるのか」という意見や大坂選手に対する賞賛のコメントも目立った。
 例えば9/9朝の決勝戦後の比較的早い時点の記事↓
Serena Williams Meltdown Leads To US Open Tennis Final Loss, A Major Upset
 9/11 オーストラリアのヘラルド・サン紙が風刺画を発表したことに対しての記事↓
Serena Williams depicted in Australian newspaper's racist cartoon
 9/13 表彰式でのブーイング時に大坂選手がウィリアムズ選手から何を囁かれたのか、インタビューで明らかにしたことについての記事↓
Naomi Osaka tells Ellen what Serena Williams whispered to her
 人気コメントの傾向自体はこれ以外の記事でも概ね同様だった。


 主要メディアの当初報道のされ方に日米間でストーリーの差が見られたことは確かだとしても、一般人の反応としてはほとんど日米で差がなくストーリーA(A')が支配的なのかもしれない。「アメリカでは世間の感情と主要メディアのトーンの乖離が大きい」と言い得るかもしれないし、「日本では主要メディアが世間の受け・俗情に寄り添い過ぎている」という言い方もできるのかもしれない。
 ただそうであったとしてもこれは、Aを採用してBを廃棄するという種類の話ではなく、どちらも妥当性があると考えた方がより現実に近いのではないかと感じている。Aに対してはA'の形であの匿名ダイアリーが補足しているため、ここではBに対するB'として補足をしたい。


ストーリーBに対する補足B'

 USオープンの決勝が行われたのは9/8だったが、8月末に以下2件の「事件」が彼女あるいは女子テニス界に起きている。


 一つが、ウィリアムズ選手が全仏オープンで着用したウェアが来年の大会では禁止されることが発表されたというもの。
 黒い全身タイツ状のスーツを着用して今年の全仏オープンに出場して話題となっていた。これはファッション性の追求によるものだけでなく、彼女が昨年に長女を出産した前後、あるいはそれ以前から血栓に苦しめられており、血栓対策としてもこのスーツを着用していたという。しかしフランステニス連盟は品位の問題として大会の後でこうしたスーツの着用を禁じるドレスコードを新たに追加した。
8/25の記事↓
Serena Williams' badass black body suit is now banned from the French Open
日本語記事↓
セリーナ・ウィリアムズの命を救ったスーツをフランステニス連盟が禁止


 もう一つが、女性選手が試合中にシャツを着替えたことでペナルティを取られたというもの。
 高い温度・湿度の中で行われたUSオープンの試合中にアリーザ・コルネ選手がシャツを着替えたところペナルティが与えられた。シャツの下にはアンダーウェアを着用しておりトップレスになったわけではなく、また着替えは素早く行われた。男性選手が試合中にシャツを脱いでもペナルティが与えられなかった事例がいくつも存在したため、セクシズムないしセクシストと批難され、最終的にUSオープン運営側が謝罪するに至った。
8/29の記事↓
US Open apologizes for penalizing player who took her shirt off on tennis court - ABC News
8/30の記事↓:こちらでは男性選手が試合中にトップレスになっている事例の写真も掲載されている
Alize Cornet's penalty for removing shirt was 'unfair', Women's Tennis Association says - ABC News (Australian Broadcasting Corporation)


 今回の決勝での抗議の話を知った時に、ある映画のことを思い出した。日本では今年7月に公開された『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』は、70年代にトップ女性テニスプレイヤーであったビリー・ジーン・キングが、男女間の待遇格差(賞金額が女性は男性の8分の1程度だった)を解消するため、当時の連盟を離脱して女子テニス協会WTA)を設立していくという実話を題材にした映画だった。
 キングは現在74歳で、今回の件についてもツイッターでも反応しワシントンポストにも寄稿している。いずれもウィリアムズ選手を擁護するものだった。「女性が感情的になれば『ヒステリック』と言われペナルティを受けるが、男性の場合は『率直な物言い』として波紋を呼ばない」とツイートしている。なお余談だがUSオープンの会場は彼女の名前を冠した「USTAビリー・ジーン・キング・ナショナル・テニス・センター」である。


 既存の地位を失ったり秩序を破壊したとしてもトップ選手が自ら進んで不正義を是正させていく、あるいはトップ選手だからこそそうしたことが可能なのであるからそうすべき、という観念や義務感がもしあるのだとしたら、そして直近で性差別的な事案や自身への不当な圧力と感じられる出来事が複数発生していた中で、自身の試合中に不当だと考えられるジャッジがあった時に、たとえこの試合を破壊してでも声を上げる方が重要である、という価値判断に傾いたとしても、さして不合理ではないように思える。こうした内在的なロジックが働いている可能性を考慮すると、ストーリーA'によって一切を説明付けるのは難しいような気がしてくる。


 ウィリアムズ選手が自己正当化のために性差別や人種差別への抗議を都合良く利用しているという側面がゼロではないという指摘があったとして(そしてそれを証し立てる過去の言動が存在していたとしても)、そのことによってストーリーB(B')が無化されるわけではなく、逆にストーリーB(B')によってA(A')が免ぜられるわけでもない。
 そしてこの線引き、あるいは混合率の措定は、例え当人であってさえ困難だ。その試合で彼女が抱いた感情や思考を、当人がどう認識しているかを正直に語るということは本人にもその気があれば可能だが、その感情や思考が何から形作られているのかという機序は本人であっても同定することはほとんど可能ではない。そうであるなら、可能性を一方に確定させず、両方を可能性として複合的に見ておくのが、他人としてのせめてもの慎ましさだろうと思う。


擁護と批難の論点

 より正確に言えば、彼女を擁護/避難するかは以下の観点が含まれている。

  • (1)「あのペナルティは性差別的である、男性選手なら同程度の抗議でも1ゲームを取られはしない」という主張は妥当か
  • (2)彼女の態度は妥当か


 (1)に関しては実証的な検証が可能である。過去のケースを洗い出して検証すれば、「男性選手と変わりない」「男性選手の方が緩いまたは厳しい」「男性・女性選手のどちらの場合でも審判の判断が一定していない」といった結論のいずれかに帰着する。協会・運営・審判が、判定や処分を撤回する・謝罪するかどうかはこの結論に従えば良い。実証主義的な観点に立てば、そこに議論の余地は生じない。(個人的には、コーチ自身が認めている試合中のコーチングによる1つ目の警告、ラケットの破壊による2つ目の警告、verbal abuseによる3つ目の警告と、それら警告の累積によるゲームペナルティ自体は妥当なもので、性差別にはあたらないのではないかと現時点では思っている。)


 一方で(2)に関してはさらに以下の観点が含まれ得る。

  • (2-1)彼女が「不当だ」と断じたことは妥当か
  • (2-2)不当だと感じた彼女がその場で抗議したことは妥当か


 ストーリーA(A')やB(B')で論じられていたのは(2-1)の成否である。彼女は自己正当化や敗北への苛立ちのために抗議したのであるから彼女が「不当だ」と断じるのは隠蔽ないし嘘である、というのがストーリーA(A')であり、(あの試合での客観的なジャッジメントの妥当性、つまり(1)は別にして)直近に彼女の周りで起きた事件や彼女が置かれた文脈から考えればあの時彼女が「不当だ」と断じるに至った内在的・主観的なロジックには一定の合理性がある、というのがストーリーB(B')である。
 そして(2-2)は、もし不当だと感じたとして、あの試合を破壊してでも抗議すべきか、あるいは感情を抑えて試合を尊重すべきかという論点である。米ヤフコメでも「class」ないし「classy」という言葉が頻出する。これは「品位」や「品格」、「一流であること」といった意味で、「セリーナはトップアスリートとしての品位がない」という形で批難されている。ここをどう感じるかというのは、個人・コミュニティ・社会の持つ価値観の基底に近い部分であるために、分かり合うことが難しい。実のところここが擁護派/批難派の断絶に大きな役割を果たしているのではないかと思っている。


(2-2)あるいは怒りと抑圧のバランス

 この(2-2)を考える時にいくつかの映画のことを思い出す。
 まずアメリカ映画の『タンジェリン』と日本映画の『彼らが本気で編むときは、』で、どちらも公開時期が近かった(日本公開が前者が'17年1月、後者が同年2月)ことと、どちらもMTFの女性を主人公にして彼女の人生観なり態度決定なりが主題とされていたという共通点があったためについセットで思い出してしまう。『彼らが本気で編むときは、』はトランスジェンダーの女性が「女よりも女らしい」ことで自他ともに肯定されるという世界で、不当な目にあっても耐え忍ぶことが肝心である(正確にはある「物」に怒りを仮託する)という価値観が描かれている。(それが作中で相対化されることなく肯定されるという意味では、この映画は差別の再生産に資しているとしか言いようがない。)一方の『タンジェリン』は真逆の世界で、彼女たちは「女らしさ」によって他者からの評価を欲しているようには見えないし、不当だと感じればただちに感情を爆発させて相手を詰問するし場合によっては暴力さえ辞さない。それは画作りの面でも対照的で、ソフトフォーカスや浅い被写界深度、柔らかな照明を多用して生田斗真演じる女性リンコを「女性らしく」写そうとする画面と、全編スマホ撮影で自然光の中で高い彩度とコントラストでくっきりと映し出される画面の差としても現れていた。





 それからアメリカ映画の『フロリダ・プロジェクト』と日本映画の『万引き家族』は、これも公開時期が近い('18年5月と7月)ことと、ホームレスをかろうじて免れている水準の貧困家庭とそこで生きている子供たちを描いた作品という共通点を持つ。『フロリダ・プロジェクト』の母親は感情を露わに怒ったり罵ったりしている一方、『万引き家族』の大人たちは声を荒らげることはない。『万引き家族』の作中で最も感情の奔流が見られるのは、安藤サクラが警察官(刑務官だったかもしれない)への質問に答えることなくふいに涙を溢れさせる場面だと思うが、それも無言で涙を流す。





 こうした映画の対比によって、だから日本では「空気を壊さないこと」や「感情を露わにしないこと」の方が優先され、アメリカでは「不当さを感じた場合に直ちに怒りを表明すること」の方が優先されている、と断じるには材料があまりに足りていない。また実際、米ヤフコメの反応が反証にもなっているし、例えば越智道雄著『ワスプ(WASP)』では波風を立てたがらず恥の感覚に鋭敏であるというアメリカのWASP男性の気質が描かれている。


 しかし空気を読むことと感情を露わにすること、場と個のどちらを優先するかという感覚には、個人・コミュニティ・社会によって相当程度の差が存在するということは分かる。そしてその点を踏まえると、自分の感覚で、あるいは自分が属するコミュニティや社会の感覚で言えば「classyではないから不適当だ」と当然視される行動が、別の感覚を持つコミュニティでは「そこで怒りを表明するのは当然だ」と許容されるということは十分に考えられる。ここまで疑ってかかれば、ウィリアムズ選手が試合を破壊してまで怒りをその場で表明した態度も、自分自身の感覚で「みっともない」「トップアスリートとしてふさわしくない」と自然に思えることが必ずしも自明ではないと感じられてくる。


 こうした場と個のどちらが優先されるかというのは、そのコミュニティ・社会がコミュニケーションにおいて受信側/送信側のどちらの負担を前提して構築されているかによるのだと考えられる。日本の社会では受信側の負担を前提しているために、個を抑圧して空気を読むことが優先されることになる。これについては以前に書いたからここでは繰り返さない。
受信負担の社会で起こるあれこれ - やしお




 あの匿名ダイアリーの記事には一定の説得力があって、しかしあれによって「邪悪なウィリアムズ選手による横暴」と片付けられてしまうことにもかなりの違和感が残る……と思っていて、一度そのことを整理して片付けておきたいと思ったのだった。