やしお

ふつうの会社員の日記です。

国立西洋美術館 『ハンマースホイ展』

 この展示に私が好感を持つのは、直前に、同じく上野公園にある東京都美術館フェルメール展を見たことと無縁ではありません。(どのみち人は、コントラストにしか反応できません。)そんなわけで、フェルメール展がどんな様子だったのかを先にお話したいと思います。
 平日に行ったのですが、もちろん大変混雑していて絵を見るというより人々の中でいかに自分の位置を定めるかに神経のほとんどを集中させるという状態でした(もちろん自分が混雑の構成要素のひとつであることは自覚しています)。そして展示の構成は、およそ4分の3がフェルメールと同時代のデルフトの作家たちで、最後にちょっとフェルメール。人込みの中を進んでああ、ようやくこれで終わりか、疲れたなあと思うと階段に「この先もまだ展示は続きます」とあって上ってみると「フェルメール全作品、原寸大」と原寸大のパネルが壁にたくさん掛けられていてその向かい側にはお土産屋。せっかく上った階段をまた下りて進んだ先の出口には「フェルメール展限定スイーツ」。
 この商魂たくましさはテレビのバラエティ番組に似ている、「CMの後もまだまだ続くよ」。そういえば主催にはTBSがいた。


 商魂のたくましいことを否定しはしないけれど、ただ疲れてぐったりしてしまったので、よほどこのまま帰ろうかとも思いましたが、もともと行きたかったのはハンマースホイ展だったのだからと思い直して入ってみたら人のいないこと。同じ作品を5分、10分と眺めていても、寄ったり引いたりしても、順路を逆に進んでも、誰に気を遣うこともありません。
 展示はおおよそ製作年順に並んでいて、最後に同年代で影響を与えていると思われる数人の作家の絵画がいくつかあり比較できるようになっています。全く奇を衒っていないけれど(というより、そのために)とても好感の持てる構成でした。
 製作時期の順に見ると、作家が何を考えて進んで行ったかが知られて有益です。仮にハンマースホイのテーマを不安定さとするなら、構図としてはかなり安定していながら画面上部のディテールを下部より描き込むことや、人物の正面ではなく背中を、しかもただ壁を向いて何をしているのか知れない女の背を描くこと、窓枠や机の脚の影の平行をかすかに欠いたり、ピアノの脚をさりげなく描かないこと等々……によって効果を実現していたものが、最後にはそういうものを一切止して、止したところでどうできるか、ということをしています。獲得してはそれから免れて行く運動のダイナミックな繰り返し。
 そしてついに、主となる人物も静物もない部屋を描いてこの上ない豊かさを獲得します。それは、絵の枠に対して平行を保たない作中の水平線や、部屋の壁に窓の形を映して当たる外光などによって二重に外部を――絵そのものの外部と、絵に描かれたものの外部――を呼び込むことがその豊かさを支えているもののひとつと思われます。


 絵の内容自体は見ていて元気が出る、という種類のものではありませんが、作家がある場所での安住を自分に許さないでいる様子は、何というか、ああ俺も頑張ろう、という気持ちにさせられるものでした。