やしお

ふつうの会社員の日記です。

大型SNS第二種免許

 自動車が「走る凶器」と呼ばれるのは、その重量と速度によって人や物を容易に傷つけ得るからで、徒歩で移動する限りであれば絶対に起こさないような大事故が起き得てしまう。SNSなんかも、見知らぬ人にまでリーチする影響範囲や拡散速度のせいで、周囲の顔見知りとだけ喋っていただけの頃とは比べ物にならないほどの大事故(大炎上)が起き得てしまう、という点ではちょっと似てるのかもしれない。Twitterなどは「書く爆発物」みたいな感じだろうか。
 自家用車が普及する前までは営業車ばかりで、走っている車の量も少なければ、運転者もプロばかりだった。SNSも、誰もがスマホで特段の知識なしで利用できるようになる以前は、インターネットやPCにある程度習熟した人がほとんどで人口も少なかった時代もあった。さらに遡ってインターネット以前になれば、マスメディアで発信する側としてアクセス権を持っていた人はプロ(記者や作家やタレント等々)だけだった。
 自動車に道交法や運転免許や保険があって、一定の枷や網が張られて整備されているのなら、SNSもそんな感じになったりするんだろうか、みたいなことをぼんやり空想していた。


 歳を取ってきて、車の運転は結局あの重量や人間の反応速度や何やかんやを考えると「路線バスの運転」くらいが本来のあり方なんだろうなと思うようになってきた。「歳を取って」と言っても、20代半ばくらいから運転がだんだん穏やかになって、30歳くらいから改めてそう考えるようになった。
 人間ひとりが自分の手で、この1t強もある重量物を、時速5, 60kmとかで操るっていうのは、恐ろしい。本来無理のあることなんじゃないかという気持ちでいる。自動運転の方がむしろ本来の姿なんじゃないか、人間がマニュアルで動かしてるなんて百年後から見たら「恐ろしい」「野蛮すぎる」と思われそうだという気持ちでいる。
 教習所でも「流れもあるから、遅くし過ぎるな」と教わったりするし、極端に遅いのもかえって危ないかもしれないけれど、実は設定されている制限速度とか最徐行とか一時停止とかのルールは「せいぜい普通の人間の能力からすればこんなもん」でかなり妥当性があるんじゃないか、割とあれを厳密に守ってようやく「ちょうどいい運転」になるんじゃないかと思うようになっている。
 SNSも、バズりが気持ち良くて無茶する人がどうしても出てきてしまう。スピード出すの気持ちいい、かっこいい、俺すごい、が勝っちゃってる状態で、事故が起こる。あるいは無茶してるわけでもないけど不用意なこと(差別的だったり上から目線だったり)を書いて炎上する人もいる。スピードを出してるわけじゃなくて単純に不注意だったり想像力が足りない(自己中心的な)せいで衝突してしまう。SNSでも「かもしれない運転」が必要になる。


 そういえばその昔「交通戦争」という言葉があった。日本だと1959年(昭和34年)に年間の交通事故の死者数が1万人を突破して、大平洋戦争よりも死者数が多くなって「もはや戦争状態」ということでこの言葉が使われ出したらしい。1964年の東京オリンピック後からさらにモータリゼーションが進行して、1970年まで死者数が増加し続けた。
 東京オリンピック(1964年)から見ると敗戦(1945年)は19年前で、今(2020年)から見た19年前って、小泉政権が誕生、「千と千尋の神隠し」や「オトナ帝国」公開、ゲームキューブ発売、あゆと宇多田が人気、9・11が発生、などの年(2001年)かと思うと、「最近」とまでは言わないにしても(30代以降くらいなら)はっきり記憶がある過去だ。これくらいの時間的な距離だと、「あの戦争で死んだ人数より交通事故で死んだ人の方が多い」はかなり生々しさとインパクトを持ったのだろうと思う。「交通戦争」という言葉はたぶん、今の我々が思うよりはるかに強度のある言葉だったのではないかと想像している。
 運転者だけでなく歩行者への教育を進めたり、信号機、歩道・地下道・歩道橋、照明、ガードレール、標識などの整備が進んだり、交通事故やシートベルト不着用、飲酒運転の罰則が強化されたり、安全装置(エアバックやチャイルドシート)が普及したりといった対策が進んだ結果、現在の死亡者数はピークから見ると5分の1程度に減っている。
 こうした対策はEducation(教育)、Enforcement(法制)、Engineering(技術)の頭文字を取って「3E対策」と総称されるらしい。人のレベルを上げる、ルールを整備する、技術的に課題を解決する、という三つ巴で、事故を抑える/安全を達成する、というのは他の分野でも同じだろうと思う。この辺も3つにきれいに区分されるというより互いに絡み合っている。


 しばらく前にこのブログで「SNSでダイレクトに発信できるようになると、クリエイター(作家とか)の技術だけじゃなくて編集や校正(校閲)の技術も同時に備えないと炎上してしまう」といった話を書いた。
  クリエイターに編集や校正の技術が必須の時代 - やしお
 これも教育というか人のスキルレベルの話の一種だろうと思う。上記のエントリの中で、「叩かれなさ」を単純に上げようとすると「当たり障りのないことを言うだけ」の解にたどり着いて本末転倒になる、コンテンツの魅力と耐炎上性を両立しないと意味ないけれど、例えばウェブライターのARuFa氏はその意味で高度な両立を達成しているのではないか、といったことを書いた。もしSNSの免許があるとするなら、ARuFa氏は大型SNS第二種免許を即日交付されるレベル、ということになるのだろうか。
 技術的な解決で言えば、障害物検知みたいな感じで公言する前に事前に「それ大丈夫か?」と教えてくれたりリスクを点数で見せてくれるのかもしれない。法制で言えば、最近も炎上で追い詰められた当事者が自死に至るとか、虚偽・デマで権利衝突が起こるとか、そうした問題に「もうちょっと何とかした方がいいのでは」という話も出てきていて(法律じゃないにせよ)何かしらのルール整備が進んだりするのかもしれない。
 そうして整備がかなり進んでも、どうしたって事故の発生がゼロにはできないなら、起きた時にカバーできるような仕組みもできたりするんだろうか。運転するなら自賠責保険が義務化されているのと同じように、TwitterをやるならT賠責保険に加入するとか。


 その昔「交通戦争」と呼ばれる時代があって、運転する人が増えて「事故を何とかしないと」と社会問題化したのと同じようなフェーズに、SNSなどが今いるのかもしれないと漠然と思っただけ。