やしお

ふつうの会社員の日記です。

相撲界について

 「人は見た目より中身だよ」と思ってる人が誰かを嫌いになったときに、相手のこういう性格がこういう理由で気に食わないと、とても理性的に考えていれば「やはり自分は人を見た目でなくその性質で評価している」と安心するかもしれませんが、それはあまりに早計です。
 何かを肯定する身振りも否定する身振りも、やろうと思えばいささかの矛盾も生じさせずに可能だからです。それぞれ別の仮定を採用した体系を用意すれば、その体系内において矛盾を生じさせずに、ある現象を語ることが可能だからです。(ただ、これは十分にトレーニングを積んだ後の話、もしくは原理的な話であって、実際には肯定する方が難しい。自分の手持ちの体系にヒットするかどうかという確率的な話として。)
 そして、肯定するか、否定するかを決めている=どの仮定を最初に採用するか、その主観性は案外、見た目にあったりするので、よくよく見極める必要があります。
 なんか、背が高すぎるとか、背中が広すぎるとか、顔が、朝青龍内館牧子を足したまんま2で割らないみたいになっているとか……そういった条件が底にあって隠蔽されていて、まるで無関係に見える部分で肯定するか否定するかの態度を決定しているのかもしれない。


 といったことを、以前にふと思ったことがあるのを、『柄谷行人中上健次全対話』所収の「文学の現在を問う」(1978年)を読んでいたところこんな対話に出会ったので思い出したのでした。

柄谷 だけど中上君ね、まあほかの批評家がどうかは知らないけれど、ぼくの経験から言うと、あるやつを褒めようと思えばさ、徹底的に褒めることができるんだよね。貶そうと思っても徹底的に貶せるんだね。しかも、ちゃんと首尾一貫して、まったく合理的にね(笑)。
 だから、ぼくは論理性そのものは信じられないんだ。そういう選択っていうものを決めるのは何かって言うと……、
中上 好き嫌いか。
柄谷 最終的には、それしかないんだよ。


 その肯定/否定の身振りの決定=『好き嫌い』の決定が、本当のところどういうメカニズムでなされているのか、に辿り着かないまでもせめて、決定に寄与する条件くらいは見ておきたいとは思うのです。
 例えば「相手の背が高すぎる」という条件が成立すると、否定しがちになる、という部分程度までは何とか押さえられれば、まずは十分かなと考えます。そこから先「相手の背が高すぎるとなぜ否定しがちになるのか」という疑問の解決は(無益とまでは言わないにしても)再度「どちらでも可能」の構造に取り込まれてしまうので、まあ、見ても見なくてもいいかなとは思っています。
 そこすら見ずに蓋をして、「人は見た目より中身だよ」と自分は思えていると盲目的に安心しているのでは、ひたすら周回運動を繰り返すばかりで前に進めません。