やしお

ふつうの会社員の日記です。

机の上の、花の効果

 テレビドラマやアニメで、同級生や同僚が死ぬとその机の上に花が飾られているのを見かけて、今まではそういうものかと、死を表すためのただの記号だと気にもしていませんでしたが、実際にはもっと暴力的に、目にするたびに否応なしに死んだことを突きつける装置なのだ、ということを知りました。


 職場で、私の背中合わせに後ろの席にいた人が先日、事故で亡くなりました。それで今*1、その人の机の上に大きな白い花が飾られています。
 先日の土曜日、休日のうちに亡くなっているのでその現場を見たわけではないし、その人の机の上はそのままで、背もたれには上着もかかったままなので、花さえ無ければ、ただ不在なだけだと、席を外しているだけだと意識に上らせずに安全でいられるのに花が、問答無用に視線を引き付けます。そして、死んだのだ、死というものは全く分かりませんがとにかく、死ぬという事態が発生した上での不在なのだ、と突きつけてくるのです。
 特に私は背中合わせなので、普段は目にせず仕事をしていれば忘れているのに、どこかから戻ってくるときは必ず目に入ってきて、思い出させます。


 初めてその報せを耳にしたとき、呆然としてしまったあの感覚を、小振りに何度も再現させる装置。
 初めて耳にした際の呆然――信じられない、というのは全く違います。登山中に滑落する事故、というのはあり得ない話では別にないとすぐに了解できました。滑落して、痛みの中で、少しずつ、諦めて、意識が手放されたのか、と想像が勝手に走る先で、結局、死ぬということが分からなくなる。例えばただ意識がなくなるだけと思えば分かった気になるし、そういうやり方で細かく分割して見れば分かっていると思えるのに、全体としてはそれでもなお漠然と分からなさが残って自分の存在を揺るがしに掛かられることを、不安と呼ぶのかとようやく知った気がします。
 あまり何でもかんでも東北の地震に結びつけるのはどうかと思いながら、記憶に新しいのでつい思い出すのは、北野武が「2万人が死んだ一つの事件」ではなく「1人が死んだ事件が2万件あった」と捉えよ、と発言したことの意味です。当時はそれを分かっていたつもりだったのに、今の自分から見返すとまるで違って見えます。この不安が全く突然、数十万の人々に暴力的に発生した事態を、何も想像できていなかった。どこまで行っても、どの地点から振り返っても、分からなさを恥じることは続くにしても、あまりに恥ずかしいと思うのでした。
 ただ、ここで「不安」と名づけてその言葉を使うと、まるで分かったようになり始めるので、その罠には気をつけないといけません。


 今度の通夜は道案内として手伝うことになりました。持っていなかった黒のネクタイや白無地のシャツを買ったり、あれこれ動いているうちは、あの不安に揺すぶられることがないと知って、遺族がしばらく葬儀やあれこれの事務的な処理に忙殺されるのは、私よりはるかに強いだろう不安に襲われないために必要な救いなのだと知りました。
 机の上の花の効果や、葬儀の効果の一部、あるいは不安と呼んだあの揺すぶりを見たことは、得難い経験でした。少し想像できる範囲が広がった気がしてせめて、無駄にはしないようにと思います。

*1:私の会社は今年、ゴールデンウィークの土日以外の休み6日分を夏に回しているので、今週は通常通り出勤しています。