やしお

ふつうの会社員の日記です。

安楽死を想像してた

 自分の意思で死期が設定できたらいいなあ。
 認知症になって、体は医療が進んでて元気なのに、よくわからないまま生きてて、自分で自分がコントロールできなくなるのは嫌だな。だったら自分で期日を決めて元気なうちに死んだらいいかも。そしたら色んな準備もちゃんとできる。
 ちゃんと苦しくなくて、ふつうに夜、布団に入ってそのまま、みたいな医療技術があればいいな。


 でも自分で期日指定する安楽死ができたら、きっと大晦日を選ぶ人が多いんだろうな、正月は火葬場がいっぱいで待ちが多くなるのかな。
 最初は「元気なうちに終わりたい」って思ってても、やっぱだんだん「その日」が近づいてくると(おれまだ元気なのに死ぬのかあ)とか思って「やっぱやーめっぴ」ってなるんだろうな。でも生前のうちに周りに言っちゃった手前引っ込みがつかなくなって、ギリギリのギリギリまで(あああー、やっぱ死にたくねえなーっ、なんで元気なのに死ななきゃいけねえんだよー)と思いながら、それでもカッコ悪いの嫌だと思って後悔しながら死ぬのはやだな。


 それなら半年とか1年とかを指定できて、その期間中どっかの日にランダムで、寝てる間に死んじゃうってのはどうだろ。そしたら「だんだん『その日』が近づいてくる」って感じはなくなっていいかもしれない。ついでに正月に火葬場が大忙しってのも分散されていいかもしれない。
 一日一日、真剣に「今日が最後の日かもしれない」って本気で、大切に使うようになるかもしれない。毎日まったく同じルーティンを繰り返しながら、でも内的には真剣に過ごすみたいな。でも朝起きた時に(ああーっ自分生きてた―)ってなる感じ、「良かった」っていうのとも違う、ほっとするのとも違う、なんかハラハラさせられる感じが疲れるかもしれない。


 それとも、半月ぐらいかけて、だんだん眠い時間が増えていって、なんとなく体がだるくなって、ちょっとずつ生きるのがじわじわしんどくなっていって、最後はそのまま眠ったまま死んでく、っていう安楽死プログラムはどうだろ。そしたら(あー、もうこんなしんどいなら死んでもいいかなー?)って自分でも納得がいくかもしれない。
 脳の認知度とか、身体の機能レベルとかで、細かく条件が設定できて、その条件が満たされると安楽死プログラムが発動して死んでく、くらいまで技術が発達したらいいのかな。


 そうやって決めた自分の選択を、周りの人が「うっひょーすごいな!」「おめでとう!」「最高だな!」ってほめて祝福してくれるような価値観になってたらうれしい。それなりにしっかり考えて決めたのに、「なんで死んでしまうの!」とか「勝手に自分で決めないでよ!」とか責められるようなことは他人に(家族でも)言われたくない。「うーん……」みたいな微妙な顔もされたくない。
 ちゃんと制度が整ってくれば、自然と価値観もシフトしていくんじゃないかと思ってる。


 この前読んだ『かたき討ち』という江戸期の復讐に関する本で紹介されてた、このエピソードを思い出してた。
 山城忠久が「本多藤四郎と口論になってその場は収めたけど、相手に失礼な振舞いがあった」と福島正則に相談したら「そりゃすぐそいつを指名して切腹した方がいいよ。もし渋っても絶対おれが死なせるから」と言った。(当時、相手を指名して切腹すれば相手も切腹せざるを得ない、という通念が存在していた。)それで山城忠久はよろこんでいそいそ切腹した、って話。
 今の価値観で考えると「えー、自分も死んでんじゃん意味無いじゃん」って感じだけど、社会制度や社会通念があれば、たとえ「自分の命」っていう代替がない対象でも「捨ててうれしい」って価値観はきちんとできあがる。価値観なんて、たとえ自己の生命に関するものでも絶対的ではなく、その程度に相対的でしかない。


 制度にあわせて社会的な価値観もつくられてく、って言っても、社会的な価値観が基盤にないとそもそも制度ができない、って考えると、制度と価値観は両輪で少しずつ進んでいくものかもしれない。それだと自分がおじいさんになるまでに間に合わないかもしれない。認知症でわけわかんないけど体はちょう元気な人だらけで困るみたいな、ゾンビ第一世代とかになるかもしれない。
 でも実際にはたぶん、制度も価値観もできてないところにいきなり、ほぼ完成した技術が突き付けられて、無理やりせっつかれて、制度と価値観が追いかけてくっていう光景になるんだろうな。