やしお

ふつうの会社員の日記です。

自我が中学生

 例えばこんな人が職場にいたとする。

  • いつもウェブ見てる(いちおうブラウザは細くしてる)
  • タバコを吸いにいって戻ってこない
  • 残業時間になってから仕事をはじめる(はじめないときもある)
  • 昼休みになると資料をチャッとかっこよく手に取って、バサッと机に投げたりして仕事できる男の雰囲気
  • 同じことを何度も説明させる(メモを取らない)
  • その割に「自分はわかってる!」アピール
  • 人の話に割り込んできて、結局何もしない
  • トラブルを自力で解決しようとしない、「○○が××だからできない」と言ってウェブ見てる
  • 人が話してる最中にほかごとしてる。で、質問すると「何の話?」と言われる
  • 打合せ中にカチカチマウス音がしてると思って見たらマインスイーパしてた
  • 必要性のわからない質問をする(自分の質問・行動の位置づけを把握していない)
  • 職場をお散歩(?)してる
  • 資料の余白で字の練習(?)してる(同じ人の名前を漢字でいっぱい書いて、かっこいい字を書こうとしてる)
  • 片づけない。借りたものを返しにいかない
  • 社長宛に会社方針の提言書をなぜか作成している(平社員が社長にコンタクトをとる機会は一切ない会社で)


 例えばっていうか、実際にいるんだけどね。上記全項目をその一身に体現した存在、Aさん、50代男性。(もちろんたまに仕事してるときもあるし家に帰れば中学生のお父さんだから、一面的な見方だってのはわかってる。)
 それで最初は見るたびにすごくいらいらしてたんだけど、最近はそんなにいらいらしなくなってきた。慣れとはちがう。あるときはっきり「そうか、この人は自我の発達が中学生程度なのだ」と認識してからあまり気にならなくなった。そのかわりときどき、異様な哀しみや切なさに襲われる。
 もともと相手にいらいらするというのは、相手に何か期待をしている、この場合で言えば自分と同じような態度で仕事をしてほしいと期待しているのに、それが裏切られるからいらいらしちゃう。でも「自我が中学生」と思えばもはやそうした期待を抱くこともなくなるから、いらいらは解消されたんだと思う。
 20代の自分が50代の人に怒ったりするのは本当につらいから、いらいらから解放されて本当によかった。


 Aさんのもろもろの行動が、ちょうど自分が中学生くらいのときと似てるんだなってある日ふと気づいた。
 たしかにぼくも中学生の時、ノートの端に人の名前で漢字をかっこよく書く練習してたり、アルファベットの筆記体で自分のサイン(?)の練習したりしてた。それから身の丈にあってないこととか平気でしてた。なんか、催眠術のやり方を覚えて友達にかけようとしたり(ぜんぜんできてない)、サラサラのおかっぱ(ヒカ碁のアキラみたいな)のミステリアスさを出そうと思って髪伸ばしてみたり(髪質は針金)。だめ思い出すとつらい。
 自分の身の丈や他人から自分がどう見えてるかという点を度外視して、「自分はすごい」を肯定するためだけの材料を集めてる状態。


 みんなそれなりに生きてく中で、理想の自分(有能な自分)と現実の自分(たいして有能ではない自分)の差を自覚して、ショックを受けて、でも受け入れて、その差を今度は意識的に埋めようとしてく。そんな作業をいろんな面で少しずつ繰り返して自我が発達していく。
 変な例だけど、初めて自分の歌声を録音して聞いた時のショック。あんなに気持ち良く歌って上手いと思ってたのにヘタクソだったショック。でも実際他人にはそう聞こえてるんだと認めて、録音して聞いて直して聞いて直してを繰り返して少しずつ上手くなってく、それか「歌はたいして上手くない自分」として肯定する、みたいな。
 生まれたばかりのときはすべて自分の欲求が叶えられてしまうせいで幼児は全能感を持つことになるけど、そのうち自分は全能じゃないとわかってくる。今度は母親に全能感を投影して、でも母親も全能じゃない、父親も全能じゃない、全能ということはあり得ないんだって突き付けられて、そのフラストレーションで第一次反抗期がくる、でもそれを受け入れて安定していく。そうやってスタートしていったサイクルは多かれ少なかれ生涯を通して続いていく。


 Aさんのサイクルはだいぶ手前(中学生付近)で止まっているか、それとも止まっているように見えるくらいすごくゆっくりなんだ。現実の自分を知るということはとりもなおさず自身を客観視することだけど、そうした習慣を持ち得ていないように見える。
 別に自分とAさんが違うってことを言って安心したいわけじゃない。そうした習慣を持ち得る契機(決定的な敗北の体験)がたまたまなければ自分だってAさんだったかもしれない。
 「自分はすごい」と思いたい欲求や、ウェブ見てたい面倒なことしたくないといった欲求をなくせだなんて無理な話だし、前者がなければ向上心も生まれようがないのかもしれないけど、自身を客観視する習慣がなければそうした欲求をコントロールすることが難しい。自分にとってすごくなくてもいいこと、すごい自分でありたいこと、そのためにすべきことの弁別は、自分自身を客観視することなしには難しい。
 一般的にその習慣を持つことが良いか悪いかの価値判断は措いておいて、さしあたって自分はそうした習慣を持ち続けたいなと、その方がより面白い体験ができる可能性が高そうだからそっちを選択したいなと思ってる。


 そんなことを考えつつあと8時間でまたAさんに会う、日曜日の夜。