やしお

ふつうの会社員の日記です。

陰謀論への免疫力を高める

 陰謀論に感染すると本人も周りも苦しい。免疫力を高める体質づくりには、以下のような習慣が必要だと思っている。

  • 「相手が愚かだから」で解釈しない
  • 「自分は全体を見えている」と信じない
  • 義憤ではなく好奇心で見る
  • 自分に一貫性を課し過ぎない
  • 標準理論をまず勉強する

 

 どれだけ予防的な習慣を取っても100%は保証できない。しかしリスクは低減できる。自分自身への予防措置として一旦まとめておこうと思った。


陰謀論の見た目

 陰謀論は「正しいもの」として現れる。整合的に(筋道が通っているように)見える。以下のような手段でその「正しさ」は支えられる。

  • 前提条件を見せない・隠蔽する:「既に証明されている」「明らか」「当然だ」といった言辞で、前提への疑問や遡行をシャットアウトする。
  • 検証不能な前提を導入する:実証的に存在を確認できないもの(闇の組織や神)、裏取りのできない人物の意図や発言、無関係な事象の結びつけ(この事件は○○から目を逸らさせるために起こされた)、恣意的に見出した意味、などを「事実」として前提する。
  • 反証を無視する:「条件が違う」「偶然」「でっち上げ」「信心が足りないから」などと、論理が当てはまらない事象・事例を排除する。

 

 これは意図して騙そうとしている場合に限らない。こうした論が現れるとみんなが「正しい」と信じ合ってしまう。
 ある種の日常的なトレーニングが、そうした「正しさ」を前に違和感・引っ掛かりを覚えて、その疑問を維持するのに有効だと考える。


「相手が愚かだから」で解釈しない

 「相手が間違っている」と感じた際に、「それは相手が愚かだからだ」とは考えない。「彼らは古い理論・固定観念に囚われているからだ」「メンツにこだわっているからだ」「真実を知らないからだ」といった安易な理由付けで停止しない。
 「自分が相手の立場でもそうするだろう」と納得できるところまで考える。子供や会社の新人など、明らかに自分と比べて知識量が少なく、見えている範囲が狭いと思える相手でもそう考える。これは陰謀論への免疫力を高めるためだけではなく、相手を頭ごなしに否定しないためにも必要な習慣になる。


「自分は全体を見えている」と信じない

 自分の持っている情報が全てだと思い込むと、その範囲で組み立てられた理論を「完全に正しい」ものとして認識してしまう。特に自分なりに色々と調べて努力した後は、その努力を無駄だと思いたくない気持ちが働いてそう思いがちになる。どれだけ調べても「自分が見えている範囲には限度がある」「その外側がある」と思い続ける。


 これは「相手が愚かだと見なさない」とも通底する。自分自身に限らずより一般化して「誰もが一定の範囲でしか見えていない」と考えることは、「自分の方が見えている(相手が見えている範囲は自分よりはるかに狭い)」と無条件に相手を過小評価することを制約する。


義憤ではなく好奇心で見る

 感情が駆動原理になると、フラットな見方が出来なくなってくる。(好きな相手の欠点も魅力に見えるなど。)特に怒りがきっかけだと、敵・相手を否定するための材料ばかりを集めて、「自分は正しい、相手が間違っている」論の組立てに汲々としてしまう。さらにその怒りが、「自分の損得から来る怒り」ではなく、「他人・世の中のための怒り(義憤)」だと、後ろめたさもなく突っ走ってしまう。(なお、本人が義憤と感じても、その怒りの根を丁寧に掘り進めると、個人的・利己的である場合はありふれている。)
 感情を元手にせず、「メカニズムを知りたい」といった知的好奇心を保つ。

 これは「相手を愚かだと見なさない」と同値になっている。「自分が相手ならそうする」と思えるまで考えることは、相手への怒りを乗り越えてメカニズムを見るようにすることと等しい。


自分に一貫性を課し過ぎない

 過去の言動と矛盾があれば、人に指摘されたり信用を失ったりする。また自分の間違いを認めるのは苦痛だ。それで自分の言動に一貫性を持たせようとするのは自然な価値観ではある。
 一方で一貫性に拘泥するあまり、誤りを認められなかったり、誤りである可能性を無視したりすれば、正しい(妥当性の高い)判断は下せない。


 「なぜ以前の自分と言動が異なるのか」を明確にする。前提が変わった・知らなかった前提が明らかになった、結び付けていた論理が誤っていた、目指すべき方向・結論が変わったなどの理由を明らかにした上で変化させた言動は、他者に対しても自己に対してもより納得され受け入れられやすい。
 一貫性を持つべきなのは、表面的な同一性ではなく、「客観性への誠実さ」に対してだと考える。


標準理論をまず勉強する

 標準理論をまずは愚直に身に着け、そこからの差分で新しい(ように見える)主張を眺めることで、その主張の妥当性や位置付けがはっきりする。
 例えば「お片付け術」は世の中に数多あるが、製造業でよく言われる「5S」はよくまとまっていて標準理論と言えそうだ。5Sの概念を知っていれば、新しいお片付け術が現れても「その新理論が5Sのどのステップに何を付け加えたものか、新規性はどこに存在するのか」(新理論の差分)が理解できて、「お片付け術のお片付け」ができる。やみくもに新たなお片付け術を勉強する前に、先に5Sの概念を理解するのが早い。


 様々な媒体が存在するが、より正確で標準的な論や通説が説明されている可能性が高い順におおよそ

  • 研究機関(大学など)のその分野の専門家が書いた書籍
  • 大手メディアの記事
  • 専門外の著者が書いた書籍
  • ネット上の個人の記事や動画、まとめサイト

となる。
 もちろん専門家の書いた書籍で極論が主張される場合もあれば、ネット上の個人の記事や動画でも十分な正確性・客観性を有して体系的なものもあり得るとしても、質の高い情報に出会える確率で言えばおよそ上記の通りになる。
 ネットの情報を長時間漁っていると、何か勉強した気になって「完全に理解した」ように思えてくるが、実際には断片的な知識ばかりが身に付いてしまう。狭い範囲で(前提や反証を無視して)「正しい」理論を完全に正しいものと思い込んでしまう。せめてネットで漁る場合には「それを否定する側の論理」を探す習慣を持つほうが安全だと思われる。
 書籍1冊の方がまだしも、まとまった形で体系的に語られていることが多い。


論理体系を相対化する態度

 これらの

  • 「相手が愚かだから」で解釈しない
  • 「自分は全体を見えている」と信じない
  • 義憤ではなく好奇心で見る
  • 自分に一貫性を課し過ぎない
  • 標準理論をまず勉強する

といった習慣は、そのベースで「論理体系を相対化する態度」が共通している。論理体系の客観性に対して誠実であるような態度がある。あるいは「相対化・客観視のできてなさ」への意識でもある。
 この「論理体系そのものに対する認識」については過去に↓でまとめている。
  認識の枠組み - やしお
 

心身の健康を保つ

 人間は機械ではなく生物で、常にフラットに思考できるわけではなく、その時々の状態に左右される。感情、とりわけ怒り(義憤)に突き動かされると見えなくなるのもその一つだった。生理的な状態(セロトニンなど神経伝達物質の多寡など)からの影響も受ける。気温・湿度・気圧など環境によっても判断の傾向は左右される。認知能力が低下したり、精神疾患であればなおさらだろう。
 自身の損得に関わる場合は、損をしたくない感情が強く働いて物事が見えにくくなる。損得の最大は自身の命に関するもので、特に冷静な判断が難しくなる(癌患者が医療とすら呼べない「治療法」を選択してしまうなど)。経済的な困窮も思考力を奪う。
 陰謀論と距離を取り得そうな習慣も、その土台となっている心身が健康でないと維持が難しい。


陰謀論以外にも

 陰謀論が「あたかも正しい理論として現れる」「その正しさは現実を矮小化させて(非妥当的に)成り立つ」ようなものだとして、そうした特徴は陰謀論に限らない。
 例えばメーカーに勤めていて、製品の品質問題が発生し、原因を特定しようとする。有力そうな要因Aが見つかる。その要因Aによって現象の発生が説明できる。「これが原因だ」と見なして対策を取るが、現象は再現性が低く対策の直接的な有効性の確認はできない。その対策品でまた同じ不具合が発生する。その後再度調査すると別の要因Bも見つかり複合的に発生していたことが分かる……といったケースはよくある。そうした真因の見逃しを防ぐため、製造業では(他分野へも波及しているが)、なぜなぜ分析(前提を遡る)や特性要因図(要因を視覚化する)などの手法なり枠組みが用意されている。


 ここで現れる「要因Aが現象を引き起こすメカニズム」は、「正しいように見える」「実はその正しさは、範囲を狭めて前提や要素を見ることで成り立っていた」という意味では、陰謀論とも共通する。関係者が多数いても、みんなが「早く解決したい」思いで、他の可能性を捨ててこのストーリー1本に飛びついてしまう様子も、陰謀論とも似ている。
 その意味で、陰謀論に抵抗する習慣は、陰謀論に限らない問題解決にも有効であり得る。(ただし例えば「相手が愚かだからで解釈しない」は「現象はたまたま起きたで解釈しない」などの読み替えは必要だろうが。)その逆に、なぜなぜ分析や特性要因図などが、特定の陰謀論の妥当性や位置付けの確認にも有効であり得る。




 ここで言う「習慣」によって全てが解決するわけでも、全てが防げるわけでもないが、せめて陰謀論に苦しめられる確率が下げられるのなら、それに越したことはないかと思っている。