やしお

ふつうの会社員の日記です。

色川武大『百』

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/31302989

「永日」は赤裸々な内省のように見えて実はそうではない。自分の人生を徹底して考察しているようでも、これを書くこと自体の疑いには触れないからだ。「私は何か」という問いは「私は何かと問う私は何か」の問いをただちに導くが、本作はそこを語らない。だがそれを不実と詰るのは実作者と書き手の混同からくる謬見。p.178で私が対読者の言葉を書くことなどで書き手=私をあえて表明して先の問いを誘引しながら、なお語らない態度は、家と父=安全圏を保持する私の精神とパラレルである。形式を内容に合わせた実作者の徹底性をむしろ見るべき。


 読書メーターの255文字制限で書ききれなかったので補足。


 「p.178で私が対読者の言葉を書くこと」というのは、書く内容が重複することについて「もう少しご勘弁ねがいたい。」と読者に向かって書いてあること。このために作品内現実としては、本作の「私」が本作を書いているということになる。
 しかしそうであっても、「私」が色川武大だとは言えない。実際に本作中で「私」は「おにいちゃん」、「お前」、「貴方」、「兄貴」などと呼ばれるばかりで一度たりとも「武大」とは呼ばれない。仮に作者と同じ名前で呼ばれたとしても、それはただ名前が共通なだけであって、それでもなお実作者は「私」ではない。


 これは、「作品を作者から独立したものとする」という視点によって成り立つが、この視点はただ作業仮説に過ぎないものではない。原理的に、書かれてしまったものはもはや、書いた人そのもの、書いた人の全体ではあり得ない。そのために「私」=実作者とはどうやっても言えないのである。これは「私」が書き手を名乗ったとしても、ただ「書き手を名乗る私」になるだけで、実作者との差異を免れるわけではない。(例えば川村二郎による本書の解説はそうした差異への鈍感さに満ちている。)


 この作品の書き手は、自分の出生から現在に至るまでの人生を家族との関係から徹底的に内省している。にもかかわらず、それを書くこと、内省すること自体への疑いへは踏み込まない。特に、自分を人並みでない者と自惚れていると他人に見られるのを子供の頃恐れていた、という自省(p.176)に対して、これほどの分析を見せることとは抵触するのではないかと思われる。それは都合のよい隠蔽であって、不実である。
 この批判は一見成立するように思われる。しかしここには、「書き手を名乗る私」と実作者との混同が前提されている。現実はそうではなく、実作者・色川武大は、「内省すること自体への疑いへは踏み込まない」で作品を書いてしまう「私」を書いているのである。実作者当人の意識とは無関係に、テクスト的現実はこうなのである。


 その上で、書き手としての「私」が「内省すること自体への疑いへは踏み込まない」という不実な態度を取ることがフィクションとしてふさわしいかどうかが問題となる。内的整合性が取れているかどうかが問題なのだ。
 本作では、「私」は実家と父親を最終的な拠り所としている。どれほど無頼をしようと傷つけば生家に戻る卑怯な「私」、と「私」本人が内省している通りである。この卑怯さと、先の不実な態度は全く対称なものである。内省すること/書くことそのものへの疑念を目の前にしながら安全のために目を閉ざす自己防衛と、最後は実家と父親に依拠する自己防衛とは全く似つかわしい。「私」の態度として整合が取れているのである。
 そのような「書き手である私」を作品として実作者・色川武大は書いており、それは全く一貫性を伴って正しいのである。




 ほんとのところ、内省的な「永日」より、弟との子供の頃からの関係を描いた「連笑」や、不断に僕を責め立てる猫や猿の幻影を描いた「ぼくの猿 ぼくの猫」の方が好きなんだ。
 具体的な一行や一言がどうしようもなく鮮やかにぴったりはまってリアルが立ち上がってきてうれしくなっちゃう。「ぼくの猿 ぼくの猫」はタイトルも好きだけど、「ねえ、猫や犬は死んだらどうなるの、と誰か大人の人に訊ねたことがある。」という書き出しは、たぶん私の中の書き出しランキング(そんなのないけど)の中でもかなりキてる。


百 (新潮文庫)

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