やしお

ふつうの会社員の日記です。

叔父を想像する

 すっかり忘れていたようだが、私には叔父がいるのだった。年に一度か二度は顔を合わせて挨拶くらいはするが、数十秒しか会わない間柄であまり真剣に考えたことがなかった。
 ずっと山あいの田舎で暮らしてきて数年前、50代半ばで町に引っ越して一人暮らしを続けている。母は中学卒業後に都会の美容院へ住み込みで働き始め、叔父は高校卒業のあと一度就職したようだが、体を壊したか何かで辞め、それからは祖父母の年金で暮らしていたという。祖父母とも亡くなってしばらくは田舎で生活していたが、人間関係の窮屈さと金銭的な厳しさのため町へ出てきたという。今はメール便の配達の仕事で生活しているらしい。全て母経由で聞いた話だ。母は近くに住んでいる方が安心だと喜んでいる。


 叔父がいる、という事実はもちろんわかっていた。しかし叔父の側に視点を移してその人生を想像してみる、ということは考えたこともなかった。話を聞く限りでは交友関係が広いようではなさそうだ。特に何かに打ち込んでいるということもないようだ。本を読むということもなく、ネットをするわけでもない。テレビを見て一日を過ごすのだろうか。私の父の晩年とよく似ている。
 一体何を日々考えて数十年を過ごしてきたのだろうかと思うと途方もない気持ちになるが、それはまだ私の側の視点を抜け出していないだけであって、より誠実に叔父の側の視点に立てば、むしろそれが自然なようにも思われてくる。


 人生を有意義に過ごさなければいけない、人は何事かをなさなければならない、何者かにならなければならない、自分を表現しなければならない。そうした価値観を小学生の頃から刷り込まれて実際、将来の夢などの作文を書かせられたりする。そして大人になって会社員になってもその価値観は周囲に空気のように持続する。もはや呼吸するその空気自体を疑う契機を持てずに、無意識に信じている。しかし改めて考えてみるとそれは実に人工的な価値観であって、本来自分も一つの生き物だと思えば、ただ生きて、(子孫を残したり残さなかったりして)死ぬだけの存在でしかない。叔父の人生を考えて、いったいそれで満足なのかと怯えに近いような途方もなさを感じるのも、あまりに囚われきった見方でしかない。


 毎日なんとなくただ生きているというのが本来のあり方だった。しかし叔父自身が、あの「人生の目的」のような価値観から自由でなく、何かわだかまりを抱いて苦痛の中で暮らしているのだとしたら、それは辛いことだ。例えば世間的に名の通った大手メーカーに勤務して自分よりずっと金銭を得ている甥を見て、どこか後ろめたさを感じたりしているのだとしたら辛いことだ。自分の人生を振り返って、ああすれば良かった、こうすれば良かったと別の自分の人生を、他人の人生を投影させて羨んで後悔しているのだとしたら辛いことだ。その甥にしても「成功」した誰かにしても自分自身にしても、ただ毎日を生きているということに変わりはなく、本来それ以外はないと知っていて、てらいも意地もなく自分の日々を肯定して過ごしていてくれたらいいと願っている。
 現行の社会が、金銭的な余裕の差で人に生き辛さを感じさせるようなシステムになっているとしても、それはせいぜい現行システムの仕様でしかなく、揺るぎない自然の前提条件ではないし、そうした他人との差を詰める努力を払わなければならないといった強制もない。といった認識を言語として把握していなかったとしても叔父が、何か納得して苦しみもなく日々を過ごしていてくれればいいと思った。これは叔父を想像しながらほとんど、自分自身に言い聞かせているのだと思った。