やしお

ふつうの会社員の日記です。

連れ子をいっしょになって虐待する気持ち

 自分で書いたおブログの記事で、最初は自分でも気に入ってたはずなのに、他人からそこそこ否定されたやつだと自分でも嫌いになってもう読めなくなってしまう。なんかのはずみではてなのおブクマがたくさんついて、いくらか否定的なコメントが書かれた記事だと、もうクリックして読み返すことができなくなってしまう。


 否定的なコメントを別に肯定してるってわけじゃないのに、ふしぎだ。
 否定的なコメントのほとんどが、記事に書かれていないことの幻視や、書かれていることの誤読に基づいていたりすると(そんなこと言ってないのに)(ちゃんとこう言ってるのに)と思ったりする。そりゃそう読まれちゃうってことは書き方が悪いんだろうな、脇が甘いんだろうなとも思うよ。でもふつうの会社員が個人のおブログで書いてるんだよ。とにかくネームだけでも自分の思いが色あせないうちに書きあげておこうって書いてみたら、線が汚い、手書き文字が見づらいって怒られるんだ。
 人の目に触れるところに自分でさらした以上はネームでいいなんて甘えは許さない。ちゃんとペン入れしろ、トーンを貼れ、画力を上げろ、と言われるならもうそこは宗派が違うからごめんねとしか言いようがない。(今急にハンターハンターのこと思い出した。)俺は汚い絵でもなんでも、他人の、自分とは違う体系から生まれてくる思考が見えるのはありがたいと思ってる。目に見える範囲でインターネットがどんどんきれいになってくとしても、どっかでごちゃごちゃしてるのが残ってた方がいいよねという感じ。


 そうやって意識の上では否定的なコメントときちんと距離をとれているのに、どういうわけか自分の記事が嫌いになっちゃう。それはこういうことだと思ってる。
 否定されたのは自分じゃなくて、自分の持ち物が否定されただけだと頭ではわかってる。この記事が否定されただけで自分自身が否定されたわけではないのだから、自分が傷つくわけではない。そう考えたからといって、そう感じるのはなかなか難しい。自分がかわいがってる犬を他人に「頭わるいじゃん」と言われて、(うん。別に犬は自分じゃない、自分が否定されたわけじゃない)と穏やかでいられるわけがない。
 たしかに頭が悪い。お手とかできないしおしっこも勝手にする。「るっせえ、でもかわいいんだよ俺の犬なんだよ!」と言い返して相手が「ごめんね」って言ってくれるか、周りの人が「そうだそうだ! お前この犬のよさがぜんぜんわかってねえ!」と言ってでもくれれば溜飲が下がる。
 でもおブログでそんなことは起きない。一つずつ「そうじゃないんですよ」「こういうつもりなんですよ」と言ったって9割以上が徒労に終わるとわかってるんだからもう黙ってる。黙ってるとどうなるか。
 他人によってたかって「かわいいとこもあるけどお手とかできないよね」「勝手におしっこするとか無理」「こんな犬飼ってるとかどうかしてる」とどんどん言われて、でもずっと黙ってる。お前らより俺の方がこいつのことよく知ってるんだ、こいつがダメなんてことは俺の方が先に知ってるもんね、そうだよダメ犬だよ何言ってんの。と内面化していく。


 「ダメ犬だというみんなの誤解」に対して「でもいい犬なんだぞという自分にとっての事実」をきちんと実現しない自分、このねじれを解消しない自分、これを抱えているのはかなりのストレスだ。自分に自分で嘘をついていると感じている状態というのは、基本的に耐えられない。
 このねじれをどう解消するかは3通りある。誤解を直す、誤解に合わせる、視界から遠ざける。
 誤解を直すというのは相手に「自分が間違っていた」と言わせるか、周りが「こいつは誤解してる」と理解してくれるかという先に書いたとおりのこと。誤解に合わせるというのは「こいつはダメ犬なんだ」と自分でも思い込むようになること。視界から遠ざけるというのは、批判コメントを最初から見ないようにするか、批判対象(犬)を見ないようにすること。


 「自分で書いた記事が読めなくなる」というのは3つ目の「視界から遠ざける」なんだろうな。
 あとはてなの匿名ダイアリーで記事をばっさり消してしまう人がたまにいる。子殺し。これは「誤解に合わせる」や「視界から遠ざける」なんだろうな。(こんな記事クソだしな)と思って消しちゃうか、いい記事だと思ってるけどなんかもう耐えられなくて消しちゃう。別にどれだけ否定されたところで実生活に影響なんてこれっぽっちもないんだから、放っておけばいい。そんなこと頭ではわかってる。でも耐えられないんだよ。ねじれている状態ってそれだけ強力にストレスを与えてくる。


 そんなこと考えてて、あ、ひょっとして再婚相手が継子を虐待して、実の親まで加担するっていうのはこういうことなんじゃないかと思った。子供のことがかわいくないから虐待してるとか、親であることより恋人であることを選んだから虐待してるとかそういうことじゃなくて、構造的にどうしようもなく虐待してるんじゃないかと思った。
 たとえばシングルマザーが再婚する。再婚した夫が「ガキうぜえ」みたいなこと言い出す。とろいしバカだしなつかねえしめんどくせえし。母親は子供のことをかわいいと思ってる。この小さな家庭において母親の内面に「ねじれ」が起こる。ねじれには耐えられない。
 ここでねじれ解消の3通りの道があらわれる。誤解を直す、誤解に合わせる、視界から遠ざける。

  • 誤解を直す(その1):相手に「自分が間違っていた」と言わせる。母親が夫よりも経済的にか性格か何かで発言力が強くて「ふざけるな子供なんだから手がかかるのは当たり前だろう」と言って相手に「ごめんね」と意見を引っ込めさせ、ねじれを解消する。
  • 誤解を直す(その2):周りが「こいつは誤解してる」と理解してくれる。親類縁者なんかが夫を「お前おかしいぞ」といさめてくれる。周りの支えによって母親内でねじれが解消する。
  • 誤解に合わせる:そうだ、この子ほんとにウザいな。と母親も思い込みはじめる。元々はかわいくてもねじれには耐えられないので自分の考えを変更させて解消する。
  • 視界から遠ざける(その1):批判コメントを見ないようにする=夫と別れる。
  • 視界から遠ざける(その2):批判対象を見ないようにする=子供をネグレクトする。


 「誤解を直す」が一番いいんだろう。だけど夫の方が発言力が強くて、小さな家庭に他人の介入がほとんどない状態では難しい。なら「視界から遠ざける(その1)」で離婚すればいいかというとそれも難しかったりする。経済的に厳しい(不安感が大きい)とか、なにか踏ん切りがつかない、疲れちゃってて行動を起こせなくなってる、世間体のハードルを超えるだけの精神的な体力が確保できていない(親に反対されて結婚したのに離婚したらどう言われるかわからない)、夫に暴力を受けるかもしれない等々、いろいろあって難しかったりする。
 そうしてこの3つの道が閉ざされて、残りの「誤解に合わせる」=虐待する、「視界から遠ざける(その2)」=子供をネグレクトする、といった道に、本人もなんだかよくわからないうちに入ってしまう。本人の意識の上では「この子がトロいから」と思ってたり、本当によくわからないけど子供のことを考えたくなくなったりしている。


 こうやって想像してみると、自分で書いたおブログの記事さえなんか読み返せなくなっちゃうんだから、もし自分に連れ子がいて他の道が閉ざされた状況に陥ったらネグレクトとかしちゃうのかもしんない、と思えてくる。そうやって殺しちゃって、ねじれの対象が完全に消滅してはじめて、(えっ、あんなに愛してたはずなのに、どうして殺しちゃったんだろう)(とんでもないことしちゃった)と我に返ってうろたえるのかもしれない。
 つい最近、老いた女の小説家が「母親ではなく女を優先させている」といった言いぐさでそうしたシチュエーションを非難していたが、やっぱりそれは、あまりに想像力を欠いている。とてもじゃないけど、ああして考えていくと責めるなんてできなくなる。