やしお

ふつうの会社員の日記です。

自己崩壊を夢見る同性婚 - マサキチトセ「排除と忘却に支えられたグロテスクな世間体政治としての米国主流 「LGBT」運動と同性婚推進運動の欺瞞」

 同性婚が実現したらあの人たちにも選択肢が増えていいじゃんね。今まで結婚できなかった人たちも結婚できてよかったね。
 そんな風に思っている人がきっと大半だ。そしてそんな人たちは自分のことを、「ホモとかキモい!」と公然と言い放つ人間よりは上等だと思って満足している。自分たちは差別主義者ではないと思って安心している。だけどそんな彼ら(私ら)もまた隠微に差別へ荷担しているのだということを、あるいはその新しい制度があたかも自由だよーみたいな顔でやってきて、平気で人の手足をもぎっていくのだということを、丁寧に指摘しているのが、「現代思想」2015年10月号(特集=LGBT 日本と世界のリアル)所収のマサキチトセ「排除と忘却に支えられたグロテスクな世間体政治としての米国主流 「LGBT」運動と同性婚推進運動の欺瞞」なんだ。
 近ごろ急に同性婚が盛り上がってきたなあ、よく耳にするなあとぼんやり思っていたところを、それがどういう文脈で「盛り上がって」きているのか教えてくれる。「LGBT」運動の流れとの関係や、同性婚「先進国」のアメリカ各州の実例も挙げながら示していってくれる。


 このエッセイが面白いのは、いったい何を「見ない」ことで、「差別への勝利としての同性婚実現」みたいな命題が成立するのかを見せてくれるところだよ。タイトルにも入っている「排除と忘却」というのが、「目の前にあるのに見ない」という態度のことだ。
 例えばその一つが、結婚というのが「性愛に基づく契約」とシンプルにイコールなんかでは全然ない、という当たり前の現実をいったん視界から遠ざける態度だ。本質的には無関係だけど、管理上・便宜上、都合が良かったので婚姻関係と結び付けられてきたいろんな制度がある。相続みたいに法律で規定されるようなものから、病院で家族として面会ができるとかの法律とは関係のないことまで、結婚という制度が諸々を引っ提げてくる。そこを温存したまま、こういう特権をあなたにもあげますよだなんてちゃんちゃらおかしいでしょうよ、という指摘だ。うるせえみんなに許せよ。権利をあなたにもあげましょうなんて、じゃあそこから疎外された人たちはどうなるんだ。そうした人たちへの差別的な構造を保存しておいて「差別への勝利」みたいな顔するんじゃあない、ってことだ。
 もともと「LGBT」運動が含んでいた色んな差別へのカウンターが、どんどん捨てられていった末に「同性婚推進」だけを残していった過程がアメリカの場合を例に挙げられている。AIDS問題だって貧困問題だってあったし、まだあるのに、それを捨てていった。


 今回のエッセイでは(もともと雑誌がLGBT特集であることもあり)LGBT運動に関する点についての指摘が中心だけど、きっと反差別運動全般について普遍的なことなんだろうな。
 差別の状態を解消しようとする。それはみんなにとってそれが「ふつう」であるようにすることを目指す。世間がそれを「風景」として受容する状態を目指す。だけど世間はそれをそのまま受け入れてなんてくれないのだ。「俺らとは違う」の差をどんどん矮小化していって、ほとんどいつも見てる風景と差がないくらいにまで小さくしたらようやく、受け入れてくれるっていうのが世間なんだ。
 今回で言えば「まあ対象が同性って違いはあるけど」と差異を矮小化した上で、「私らと同じように一人の相手を愛したりしてるんだろうね」という理解に収めて「じゃあ結婚制度に入れてあげようか」って話だ。例えばLとGだけ残してBとTを、恋人関係だけ残して他の関係性を、曖昧に視界から遠ざけるということだ。
 反差別運動体の側もそうした世間の空気を読んで矮小化に協力しさえする。そして矮小化に協力した反差別運動体が、世間に受け入れられて大きくなれる。
 それで世間が受け入れ可能な程度に差が小さくなったところで、ようやく資本主義システムがそれを取り込むことができる。ほんのわずかでも価値体系の差があれば、ぜったいに抜け目なく取り込んでくる(というか人類にそうすることを強要する)のが後期産業資本主義だ。まだそれが差として機能しているうちにそれをお金に変えるんだ。それは企業なり政治家なりが世間の空気を読んで、反差別的でフェアな者として評価され得することを期待しながら、ほんのちょっとだけ先取りして「同性婚推進」を公言するところから始まる。


 世間が受け入れ可能なレベルまで差異が矮小化される→資本主義システムに取り込まれる、っていうのはあちこちで起きてるんだろうなとこのエッセイを読みながら暗い気持ちになった。ほとんど不可避的に、強力にそうした形に従わされていく。
 今回のエッセイでは、この先日本もアメリカと同じ轍を踏むのかもしれないけど、せめて少しでもそうならない方向へ進むためにこの認識が共有されればいいな、といった感じで極めて慎ましく締めくくられていた。
 読み終えて、もしこうした道が不可避なのだとしたら、いったいどうできるんだろうということを考えてた。もうそれを押しとどめられないのなら、いっそガンガン進めた末に、矛盾が露呈する瞬間まで行ってみるっていうことはできないかなと思った。同性婚が(いろいろな差別を等閑視することで)実現されたとしたら、それを逆手にとってみんな友達同士で結婚してくんだ。「ゲイとレズビアンの(うち経済的な余裕がある)人たちにも権利をあげますね(それ以外は相変わらず耐えてろ)」なんてふざけたことを言った罰として、「じゃあ友達同士でも利用しーよっぴ」ってなって、「結婚ってなに??」という地点にまで世間を引きずり込んでいく。


 今までだって性愛抜きで、単に制度的な優遇を求めて友達同士で結婚してた男女だっていただろう。でも「男女で結婚している=性愛関係にある」というすっかり風景として馴染んだ社会通念に隠蔽されて見えなかった。だけど同性で結婚する/同性で性愛関係にあるというのがまだ馴染みきっていない現実が、「いやいや、うちら別に友達同士なだけだよ」「単に制度を利用したいだけだよ」とみんなに言わせたとしたらどうだろう。
 (えっなんかそれズルくない?)と言い出す人がきっと出てくるだろう。「恋人じゃないのに結婚してお得な制度だけ利用するなんて許せない!」そんなことを言い出す連中がきっと出てくる。そしたらこうだよ。「バカなこと言うな。そういうルールにしたのはお前らだろ」「だったらみんなでお得な制度を使えるようにしようぜっていうのが筋だろ」ってことで、もう最終的には年齢制限も人数制限もない「結婚」という制度ができて、一人でも割MAXみたいな感じで、一人で結婚する。
 さすがにそんな荒唐無稽な光景は訪れないとしても、そうした矛盾点を契機に特権化されたあれこれを結婚制度から解放してやるってことはできないんだろうか。「ちょっと待ってよ。結婚してなきゃあれもダメこれもダメってシステムの方がおかしいよね?」という認識をもう一度みんなが突き付けられるポイントにはなり得ないだろうか。制度が、そのルールを徹底化されることでかえって自壊する様を見ることはできないだろうか。


 だけどそのときは、矮小化して押さえ込むっていうあの世間力がまた働くから、また負けちゃうのかもしれない。「じゃあ本当に恋人同士にしか結婚は許してやんねー」って逆方向に振れるって可能性も大だよ。だって生活保護だって「不正受給がひどい!」とか言って「受けるべき人が受けられていない」ってよりウェイトの大きな問題を視界から遠ざけて引き締めたりしたのが世間力だったしね。認識が甘いかもしれない。
 それでも、もしこの道が不可避なのだとしたらやっぱり、いっぺんバカみたいな顔して「わーい同性婚やったー」みたいなこと言って、そ知らぬ顔で徹底して身を委ねたその果てで矛盾点にぶつけて馬脚を現すところをしっかり見てやるしかないんじゃないか。
 そんなようなことを読んだあと考えてた。



 経緯っていうのは一番最初に忘れ去られるものだけど、このエッセイがそれをこうして短くまとめて形にしてくれてるってのは、当たり前のようで案外やってくれる人が少なくて貴重だ。


現代思想 2015年10月号 特集=LGBT 日本と世界のリアル

現代思想 2015年10月号 特集=LGBT 日本と世界のリアル