やしお

ふつうの会社員の日記です。

コンテンツと人格のあいだ

 ネットの掲示板でも、Twitterでも、はてなブックマークでも、誰かをただの「コンテンツ」として扱ってしまう人がどうしてもいる。級友や同僚にはそんな言い方をしないはずの、罵倒や非難を平気で浴びせる光景は日常的に見かける。
 コンテンツとして扱われた側は、自分は人格のある人間なんだと憤慨しても、そこには感覚の違いに深い溝がある。


人をコンテンツとして扱う感覚

 この前NHKで「炎上弁護士」の特集を見た。ある弁護士がクライアントの依頼で、ネット掲示板への誹謗中傷の書き込み削除の請求をしたところ、その弁護士自身がネット上で誹謗中傷にさらされることになったという事件だった。ネットに留まらず、脅迫の郵便物が届いたり、親族も脅迫されたり、地元商店街に張り紙を貼られたり、お墓に落書きされたりもしたという。
 最後に加害者と被害者が直接会って話をする場面が放送された。元加害者は「ネットのキャラクターみたいに感じていて、盛り上がっているからそれはそれでいいだろうと感じていた」と語っていた。みんながそう扱っていると、まるで人間ではなくコンテンツのように見えてしまう。
 芸能人はなおさら「キャラクター」としてのみ消費されがちで、人格のある人間だという側面が忘れられやすい。


 それから先日はてな匿名ダイアリーでブックマークコメントへの怒りを表明する記事を見た。登戸の事件に「人を追い詰めないような社会にすべし」と立派なコメントを書いたのと同じ人が、匿名ダイアリーの記事には当事者に対して心無いコメントを書いている、言っていることとやっていることが違う、という指摘だった。
 その記事のブックマークコメントでは、他者をコンテンツとして一方的に扱ってしまう人の、ある種典型的な自己弁護がいくつか見られた。
  はてなブックマーク - ブクマカの軽薄さについて

いちいち真に受けるもんじゃないとは思うが、弱音を増田に吐くようなメンタルなら大ダメージだろうな…
orisakuorisakuのコメント2019/05/28 20:53

https://b.hatena.ne.jp/entry/4669365022722564450/comment/orisaku

ブコメなんてその時の気分だからなー。矛盾を突かれたりしても割と困る
ardarimardarimのコメント2019/05/28 22:19

https://b.hatena.ne.jp/entry/4669365022722564450/comment/ardarim

"俺は許さんからな。"に草。匿名の増田に書いている卑怯者が、俺は許さんからなとか草しか生えないぞ。卑怯者がどの面下げて書いてるの?
rti7743rti7743のコメント2019/05/29 04:00

https://b.hatena.ne.jp/entry/4669365022722564450/comment/rti7743

正直、増田は大喜利のネタ振りくらいにしか考えてなくて、増田自身がブコメを読むことをほとんど想定してなかった
gachapininggachapiningのコメント2019/05/29 04:40

https://b.hatena.ne.jp/entry/4669365022722564450/comment/gachapining


 「真に受けるな」、「本人が読むとは思わなかった」、「気分で書いてるだけだから指摘するな」というのは、「私は一方的に好きに言うが、あなたはそれを甘受せよ」という態度であって、人間対人間としての対等な関係は想定されていない。
 匿名ダイアリーの記事でコメントに対して追記されたり、「おすすめの○○教えて」とコメントを前提するような投稿はよく見られる。それなのに「作者がコメントを読むとは思わなかった」と書いてしまうのは、自己を守るために認知が歪んでいるのではないかとも思う。「卑怯者が」という罵倒は、自分が直接攻撃されていないことに、まるで攻撃されたように感じて相手を罵ることで、後ろめたさを糊塗する態度なのではないか。


 動物園にいるような感覚かもしれない。檻の向こう側にいる相手と、それを一方的に観賞する立場にある自分、その関係性は疑う余地もなく当然だと思ってしまう。みんながそうしていると、さらにその立場が確固としたものであるように感じていく。リツイートやブックマーク数が増えると「コンテンツ」のようにますます見えてくる。
 動物に「お前を見ているぞ」と言われるとびっくりして、受け入れられずに「いいや、お前は檻の向こうで黙っていろ」と特権的な地位を守ろうとする。


スルースキルや有名税

 スルースキルや有名税といった言葉が、「檻の向こうにいろ」「一方的に見られていろ」を正当化するのに使われたりする。


 馬鹿にされれば傷つくし、非難されれば反駁を加えたくなる。しかし反論に相手が誠実な対応を示すことは少ない。誠実な相手なら最初から一方的に非難したりはしないからだ。反論しても、「より良い認識を持ちたい」という目的ではなく、「自分の立場を守りたい」が目的になっている相手には届くことがない。
 ごくたまに分かってくれる人もいるけれど、その「ごくたまに」のために疲弊を厭わず頑張るのは厳しい。それで「スルースキル」が出てくる。一種のバッドノウハウだ。(それでもスルーせずに毎回理知的に反駁する人もいて、本当に尊敬する。)


 「スルースキルを身に付けろ」というのは謂れのない非難や罵倒を浴びた側が、諦めの気持ちや現実的なコストから選択する方針ではあっても、浴びせる側が反論されて「黙っていろ」と相手を封じ込めるために使うための言葉ではない。自分は相手をスルーせずに非難しながら、相手には「スルーせよ」と求めるのは、図々しい。
 スルースキルが当然視され、そうした常識が定着すると、「スルーできずに反論する方が愚かなのだ」と相手を檻の向こうに押し込めて安心する態度の温床になっていく。あくまでもバッドノウハウでしかないという前提は必要だろうと思う。


 「有名税」という言葉も同じで、一方的に相手を際限なく叩くための免罪符として使う言葉ではない。以前NHKの「ねほりんぱほりん」で元子役が「有名税が高すぎる」と嘆いていた。既に芸能人として大きな収入を得ているわけではないのに、あれこれ言われたり写真を撮られたりする。それを「有名税だから」で片付けられるのはおかしい。
 非難や意見をするな、という話ではない。スルースキルや有名税を盾にして、自分の安全地帯を正当化するのは卑怯だ、というだけのことだ。


コンテンツとして扱われる側の感覚

 他者をコンテンツとして一方的に扱う人は、全体からすると多くない。それをもう少し定量化してみたいと以前から思っていた。


 はてなブックマークの利用者は、ブックマーカーとコメンテーターに大別されるのだと思っている(ROMを除いて)。後で読み返す・資料として保存したいといった目的のブックマーカーと、自分の意見や立場を表明する目的のコメンテーター。(両方の用途で使っている人もいるからばっさり二分されない。)
 ニュース記事にはコメンテーターが多くつくし、ライフハックや技術的な記事にはブックマーカーが多くつく。サンプルとして選ぶなら、資料として見ることもできて、何か一言言いたい気分にもなるようなものがいい。先日書いたものが比較的そうした種類のエントリで、かつある程度ブックマーク数があったので、ちょうどいいかと思って選んでみた。
  お金を貸して絶縁するだけの話 - やしお


 確認時点で総数が717件、コメント無しが380件(53.0%)、コメント有りが337件(47.0%)だった。ただし、記事からの引用やメモだけのコメントが10件あり、立場や意見の表明ではないからこれもコメント無しにカウントすると、無し390件(54.4%)、有り327件(45.6%)となる。



 おおよそコメンテーターとブックマーカーは半々くらいだろうか。
 コメントの内容を以下のように大別した。

  • 肯定:資料として参考になるとか、記事を書いたことへの肯定など(8件)
  • やや肯定:自身の経験などと照らして同情や共感を示すもの(69件)
  • 中間:単なる感想や、記事内容とは無関係の話(135件)
  • やや否定:記事内容への違和感や反対意見の表明(70件)
  • 否定:書き手への説教や罵倒(45件)



 実感として「否定されている」ように感じても、実際には全体の1、2割くらいだったりする。「他者をコンテンツとしてのみ扱う」態度に該当するのが説教や罵倒だとして、それも全体の1割にも満たない。(ちなみに「否定的=コンテンツとしてのみ扱う態度」ではない。)
 この実感と実際の乖離は、コンテンツとして扱われた側の人によく共通する感覚なのだと思う。


 黙って受容してくれた人達のことは見えないから、まずこの時点で半数を見落とす。はてなブックマークで言えば、コメントのあるもののみが一覧表示されるため、「コメントをつけていない人が半分以上いる」という事実が視界から外れてしまう。(以前はコメントの無いものも含めた一覧がデフォルトで表示されていた。)コメンテーターは圧倒的なマジョリティではなくても、そう見えてしまう。



 さらに「否定されている」と感じていると、否定でも肯定でもないコメントまでそちらの印象に引っ張られて否定のように感じてしまったりする。



 「実際には1~2割に過ぎない否定が、実感では7~8割の否定に感じる」という乖離はこんな感じじゃないかという気がする。否定、特に謂れのない非難や罵倒は余計に心が乱されるから、肯定的なコメントより大きく見えてしまう。受ける側もこの錯覚を忘れないようにする必要がある。


 ちなみに、否定したい記事をブックマークするのは変じゃない? と思ったりするけれど、これは自分がブックマーカーとしてサービスを利用しているからそう感じるだけだ。ソーシャルブックマークは「みんながいいと思ったものが共有できればいいよね」というコンセプトのものだと考えるのがブックマーカーで、「みんながどう思っているのか見えればいいよね」がコメンテーターの立場の違いになる。
 コメンテーターが増えれば、その一部である「人をコンテンツとしてしか見ない」人も増えてくる。しかし「過激な」コメンテーターの増加は、ユーザーのモラルの問題というより制度設計によるもので、それは運営側の専権事項だという気もしている。環境が設定されれば、そこに適応しようと行動を合わせていくし、中には過剰に適応する個体も出てくる。
 ブックマークとしての本来の目的に沿わせるのか、あるいは「真剣中年喋り場」みたいにしたいのかは、運営が方針を決めてコントロールすることだ。「人気のコメント」表示でスター集めにインセンティブを与えたり、コメントなしのブックマークをデフォルトで非表示にするのは、喋り場方向に舵を切っているのだと思うけれど、その方がアクティブユーザーを増やすには有利なのかもしれない。その一方で、いち早くコメントした方がスターを集められる状況は、自分の考えを一旦疑い直したり調べ直したりせず反射的にみんなの共感を得られそうなコメントを書く誘惑に駆らせて、ヤフコメに似てくる。


コンテンツと人格のあいだ

 改めてコメントを読んでいると、どうして赤の他人から馬鹿呼ばわりされたり説教されたりしないといけないのか、という暗い気持ちになってくる。いっそ最初から書かなきゃ良かったという気分になってくる。そうして記事を消したり書くのを辞めてしまう人も多くいる。「一般人の体験や感情が見えるようになったのはインターネットのすごいとこ」という古い信仰心があるので、そうした悪意に潰されて辞めてしまう人を見るのは忍びない。
 ただ道を歩いていただけで、通りすぎ様に嗤いながら「ブス」と言われる。抗議すると「いちいち気にする方が悪い」「家から出なければいい」「ブスは事実だろ」などと言われる。悪意にさらされれば外に出るのが怖くなる。
 個人的には7年前に初めてそんな目に遭って、反論しても意味がなかったという経験をした。そこから「スルーする」、「私は勝手に言うからあなた方も勝手に言っていろ」という方向に舵を切った。他人に何を言われたかではなく、自分自身で「自分は誠実だったか」「嘘でなかったか」をチェックするほかない。


 「コンテンツとしてのみ扱うな」というのは、「コンテンツとしては一切扱うな」という意味ではない。一切否定するな、一切矛盾した態度を取るな、といった非現実的な要求ではない。書かれていないことを「こいつはこう書いている」と言わない、書いてあることを「書いていない」と言わない、一部で全部を否定/肯定しない、相手の内在的なロジックや立場を想像する、書かれたことが現実の完璧な写し絵ではないという前提で見る、自分の常識や知識を疑い直す、分からなければ調べる、そういった言論公表者としての誠実さがシンプルに問われているだけだ。
 コンテンツであるという側面と、人格のある人間だという側面の両者が同時に存在するのだから、その両方を見る。他者を単に手段としてのみ扱わず、同時に目的としても扱え、というテーゼと通底している。


 自分を大事にしない人は他人を大事にできない。雑に書き、自分のコメントを「どうでもいい放言」と言って憚らない人は、他人の書いた物もそう扱う。「作品の細部に神が宿る」とよく言われるけれど、この自分の言動の一つ一つが、自分の人生、作品の総体を形成する構成要素なのだと信じる必要がある。
 他者を一方的にコンテンツとして扱ってしまう態度の根本には、自分自身を真剣に扱わない態度があるのではないかと思っている。ただこれは、他者から大切に扱われることを通じて「自分は大切な存在だ」という確信が得られていくような面があって、他者に大切に扱われない→自身を大切だと信じられない→他者も大切に扱えない→他者から尊重されない、というループ構造があるなら、そこを断ち切るのは結構難しいのかもしれない。構造を認識して客観視する、「自分は自分を大切に扱っているか?」を問いかけるところがスタート地点であり得るのではないかと考えている。