今朝歯をみがいていたら、先週読んだ匿名ダイアリーのことを急に思い出した。
上司「そこでダイガエ案として」
新人「ダイガエ案ってダイタイ案のことですよね?ダイガエだと世代交代したっぽくてわかりづらいのでやめてもらえませんか?」
上司「あーっと……新人君は市立と私立の区別つけたいときは何て読む?」カキカキ
新人「なんかイチリツとかワタクシリツとか読む人いますけど、どっちもシリツ以外おかしいですよねそれ。
区別したいなら○○市立と市町村名を付けて読むとか、
シリツと読んだ上で(ワタクシリツ)って後から付加するべきで、最初から読み方を変えるような誤った日本語は正すべきです。」
上司「オウフ……」
そのあと、はやく正確に伝えることを重視していてね…っていう話をしたらしいけど、
新人君はイマイチ納得できなかったらしく、プリプリしているそうだ。
『新人君が新人研修で「D」を「デー」って言うタイプの上司の発言をイチイチ..』
もし自分が彼に本気で答えるとしたら、どうするだろうとぼんやり考えてた。
じゃあ「進捗」を「しんぽ」って読むのはダメなんだよね? (きっと当然だ、って顔をするだろう。)それなら「重複」を「ちょうふく」でなく「じゅうふく」と読むのもダメだよね? (これもたぶん当たり前ですって顔をする。)じゃあ「独擅場」は「どくだんじょう」ではなく「どくせんじょう」、「捏造」は「ねつぞう」ではなく「でつぞう」と「正しく」読まないといけないってことになるよね。(これはどうだろう、勉強熱心な原理主義者なら「当然です。私も常にそう読んでいます」と言うかもしれない。もし知らなければ「でもそれは慣用読みが定着していますから」と言うかもしれない。どちらでも構わない。)
実は僕自身も君と同じように正しい読みで読んだ方がいいと思ってる。
読み方だけじゃない。表記にしてもそうだ。例えば「臭」という字がある。この字の下側は戦前までは「大」じゃなくて「犬」だった。上側の「自」が「鼻」を意味して、犬が鼻でにおいをかいでいるという意味だった。その意味が戦後の新字切り替えで切断された。例えば「弁」という字もそうだ。もとはわきまえる・処理するという意味の「辨」、話すという意味の「辯」、バルブの意味の「瓣」の3種類だったのが、全く無関係の冠という意味だった「弁」に統合されてしまった。弁償(辨)も関西弁(辯)も安全弁(瓣)も、同じ字になっているというのは意味がわからない。
同様にかなも意味が切断されてしまった。それだから旧字・旧かなが全面的に復活してくれればいいと思ってる。もっと言えば古語も復活してほしい。完了表現や強調表現などが豊富にそろっていて現代語よりも機能性が高い。小学校で最初からそのように教育してくれれば良かったのにと本当に思うときがあるよ。
でも僕にとって疑問なのは、じゃあいったいどこまで遡れば「正しい日本語」に行きつくんだろうということだ。君が言う「正しい読み方」だけではまだ足りない、旧字旧かなを復活させても足りない、文語を復活させるにしても、どの時代の言葉を復活させればいいんだろうか。読み、表記、文法、あらゆる面で「正しさ」をどこまで追求すればいいんだろう。そして実際、君が旧字旧かな、古語を使わないのは、「正しさ」の追求としてはまだ足りないのに、どうしてそこで「正しさ」を止めてしまうのだろうか。
正しさの追求を中途半端に停止させてしまうのはなぜなのか。その停止線の位置、正しさと誤りの線引きはどこにあるのか。読み方一つとっても、「じゅうふく」は許さないのに、「ねつぞう」は許すという違いは何なのだろうか。「テレビアナウンサーがそう読むようになった」、「辞書にその読みが記載されるようになった」、といった境目は結局、普及の程度ということになるだろう。
「みんなが使っているかどうか」で正しさが決まるという見解は、とても言語の目的にかなっているように思える。そもそも言語が他人に意思を伝達するためのツールだとするなら、「普及していること」=「他人に伝わること」が正しい言語の条件だというのは理解できる。
では「みんなが使っていること」を正しさの基準とするなら、その判定方法はどうなるのだろうか。人によっては「アナウンサーが採用した時」、「辞書が採用した時」になるのかもしれない。あるいは人によっては自分の所属するコミュニティ(学校や会社、バイト先、家族、地域)で使われているかどうかという線引きになるのかもしれない。
例えば僕は岐阜の出身だけど、学校で掃除の時間に机を持ち運ぶことを「机をつる」と言っていた。物を捨てることを「ほかる」と言っていた。けれど今は神奈川に住んでいてそれでは伝わらないから使わない。この土地では「正しくない日本語」ということになる。同じように伝わらないから、僕は、旧字旧かなも古語も普段は使わない。そして他人がもし、慣用読みやら抜き言葉や二重敬語を使って僕に語りかけてきたとしても、それで意思の伝達ができているのなら訂正したりはしない。
ボーダーラインの設定はどうしても、「必ず誰にとっても同じ」ということにはなり得ないのではないか。どうしても主観的でしかあり得ないのではないか。
時間的・空間的に一瞬たりとも、規範的な言語というのは存在し得たためしがない。というより、そうした曖昧な姿をした言語に、ある体系を与えたものが文法などの規範だった。その規範に従って現実に存在する言語の方を「誤っている」と言うのは、物理学が現象を説明できないからといって現象の存在自体を否定するのに似た、本末転倒なのではないか。説明できないのだとすればそれは、体系が不十分だということを意味するだけではないのか。
「正しい日本語」を自分なりに定義して守ろうとする人、ギャル語やオタク語をどんどん作って言葉をずらしていく人、なるべくみんなに合わせていればいいやっていう人、母国語話者じゃない人、外国語を翻訳する人、専門分野で新しい概念を表す言葉に出会っている人……そうした色んな人の影響や偏在を何もかもひっくるめた上で曖昧に、絶えず変容しながら漂っているのが言語なんじゃないか。
最後は少し蛇足だったかもしれない。もともと僕自身、20歳くらいの頃は「正しい日本語」派だった。だけど、「正しいっていうのは何だ?」ということをきちんと考えようとした結果、誤用や慣用を許すようになっていった。転向したとか軟化したというより、より先鋭化させた結果の寛容だった。
僕の認識が君の役に立つかはわからないけれど、何かの参考になればと思ってお伝えした次第です。よろしくお願いいたします。
これを短く言うと、最初の「上司」が言っていた「はやく正確に伝えることを重視していてね…」とほとんど同じになる。