やしお

ふつうの会社員の日記です。

お金を払ってコンテンツを消費すること

 このエントリは、『はてなブログ×codoc連携サービスのプロモーションのため、はてなからの依頼を受けて投稿しています』。
 はてなブログで「ここから有料」やサブスクの機能が利用可能になるとのこと。依頼を受けておきながら、記事有料化にあまりピンときていない。その「ピンとこなさ」のことをあれこれ考えてたメモ。自分がインターネットやブログをどう思ってるんだ、みたいな話にどうしてもなってしまう。


お金を払うもの

 普段自分が何にお金を払ってコンテンツを消費しているのかを改めて見てみれば、翻ってピンとこなさがどの辺にあるのか見えてくるかもしれない。


 「お金を払ってコンテンツを消費する」のは「そのコンテンツがお金を払う価値がある」と自分が信じているからだと思えそうだけれど、必ずしもそれだけでもない。それにお金を払う習慣がある、払うのが当然だと思っているなど、金銭を支払うのに心理的な障壁や抵抗が少ないかどうかにも影響される。
 「ありがたいからお金を払う」というより「お金を払うからありがたいものに見える」とか、値段を高くしたら逆に売れたとか(ブランド品のような)、欲望は欲求と違ってみんなが欲するものを欲するものだとか、純粋にコンテンツの優劣だけで決まらない面が多々ある。
 この「お金を払うのを当たり前だ(仕方ない)」と思う感覚を、ここではさしあたり必要経費感とでも呼ぶことにする。


 一方でコンテンツ自体も、単に魅力的ならお金を払えるかというと、やはり価格が払えるレベルかにも左右される。


 そんな諸々から、お金を払ってコンテンツを消費しているものは、

  • 必要経費感が高い/低い
  • 価格に対するコンテンツの魅力が高い/低い

の2つの軸で考えるのがいいかもしれない。


  • 左下のエリア(必要経費感:低&対価格魅力:低)→お金を払うわけがないし意味がない
  • 右上のエリア(経費感:高&魅力:高)→素直に払える

と払う/払わないが割と明確でイメージしやすい領域だけでなく、

  • 左上(高&低)→仕方なく払う
  • 右下(低&高)→当たり前に払っているわけではないが、必要性と値段の損得を勘定した結果で払っている

という「スコア次第で払っている」グレー領域がある。


マッピング

 今自分がコンテンツにお金を払っているもので、この2軸だとどういう位置づけになるのだろうかと思って、マッピングしてみた↓



【左上エリア:仕方なく払う】

  • NHK:自分が想像する左上エリアの代表
    • 経費感:好き嫌い関係なく強制的に払っているのでマックス。税金と同じなのでもう可処分所得として見ていない。
    • 対価格魅力:ドキュメンタリーやニュースは割と見ていて魅力が低いとまでは言い切れないが、さすがに受信料が高いのでトータルで低くなる。引越し先アパートにたまたまBSアンテナがあって1225円/月から2170円/月にアップしてびっくりした。フールー、アマプラ、ネトフリ全部入るのと値段が変わらないのはすごい。
    • 関係ないけどよく「スクランブル放送にしろ」との主張も見る。個人的には逆に、国内の全在住者を受益者として(払っても払わなくても)、本来の目的・公益性に絞ってコンパクトにやって、価格に柔軟性をもたせて欲しい、とは思っている。サイゼリヤくらい本気で合目的性と効率性と品質を追求してほしいけど無理そう。
  • dアニメストア:よほどやめようかと思いつつ入っているサブスク。
    • テレビで録画していなかった/録画に失敗したアニメを見るのにたまに使うくらい。
    • 経費感:「絶対に払わないといけないもの」とは思っていないのでそれなりに低い(中位に近い)が、上記の保険のような位置付けで必要経費感が出て、ギリギリ払っている感じ。
    • 対価格魅力:550円/月。「過去のアニメをたくさん消費するのにがっつり使ってる」人であればかなり右側にシフトしそうだけど、テレビ放送の保険目的だと、比較対象が無料なので微妙に左側のエリアに入る。

 


【右上エリア:素直に払える】

  • 本・映画:右上エリアのティピカルなもの
    • 経費感:物心ついた時から、消費するには払うのが当たり前の感覚があるため高い。あと15年前に就職した時に「節約する、でも本と映画だけは好きに遣う」と自分の中ではっきり決めたのも、必要経費感が高いことに影響している。
    • 対価格魅力:本は相当「コスパ」がいいと思っていて高い。映画は劇場料金が漸増する一方、レンタルやサブスク配信が安価なため、相対的には対価格魅力はやや下がるのかもしれない。
    • 電子化(電子書籍や配信)もその延長で「お金を払うのが当然」という感覚がある。
  • CD:本・映画とほぼ同じだがお金のかけ方が違うもの
    • 経費感:就職時に本や映画を「節制の埒外」とした一方、音楽関係はその認識ではなかったので、若干経費感が低い。買うよりレンタルで済ませることも多かった。
    • 対価格魅力:本や映画とほぼ変わらず(好きなものを買ってるのだから当たり前だけど)。
  • 同人誌:どうしても欲しいもの
    • 同人誌即売会はほぼ行かないし、大量に買った経験もないが、よっぽどこれは物理で手許に欲しい(ネットだと消えたりするし)と思って買うことがある。
    • 経費感:同人誌の世界に強く「節制の埒外」の感覚があるらしいとは知っていて、その影響で払うのに抵抗感が全くないのかもしれない。儲けではなく、本という物理的な形にしたり流通させる諸費用を負担してるだけ、という認識があって抵抗感がない。あとはお布施に近い感覚。
    • 対価格魅力:一般的な書籍に比べて高くても小部数生産なら当然という認識と、本当に欲しいものしか買わないので高いスコアになる。
    • 新品のCDも、サブスク配信が一般化した後だとここに近い領域に来るかも。

 


【右下エリア:必要を感じて払う】

  • YouTubeプレミアム:払うと快適になる(強いられていた不便が解消される:広告なし、バックグラウンド再生可になる)もの
    • 経費感:基本無料で見られると、払うことが当たり前だとはあまり感じられず低い。
    • 対価格魅力:「作品」ほどではなくても、ついつい見てしまうレベルには魅力的なのでほどほどの位置。
  • Netflix:プラットフォームに有力なコンテンツが揃っているもの
    • これ以上コンテンツを消費するキャパ(時間・体力的余裕)が自分にないという理由で入っていないけれど、よほど入ろうかと迷うことが時々ある。
    • 経費感:比較対象がテレビだと、払うのが当然という感覚がなく低い。BS有料チャンネルに近い。
    • 対価格魅力:好きな映画監督作品がNetflixオリジナルで製作・独占公開されると魅力的に見える。
  • ニュースの個別記事や情報商材、メルマガの特定の回など:どうしてもその情報が必要なもの
    • 普段は無料のネットの情報で事足りて、詳しく知りたければ本を買っている。本当にたまに、ピンポイントでほしい/隙間の情報などが有料であったりする場合に買っている。
    • 経費感:「当たり前のようにお金を出している」感覚からは遠いのでスコアが低い。
    • 対価格魅力:魅力的なコンテンツだからというより、必要が生じてという感じなのでスコアがやや低い。
    • もともと新聞を取っていて電子版に移行した人にとっては払って当たり前感、必要経費感は高くなりそう。

 


※お金を払う対象に、コンテンツとプラットフォームの違いがある。本や映画などのコンテンツ単体に対して、YouTubeNetflixはプラットフォームに対して払っている。それも含めて3軸かとも思ったけれど、お金を払うことの感覚を決めるものとしてはあまり関係ないかとも思い、さしあたりこの2軸で見てみることにした。


マッピングの揺らぎ

 上記の様々な有料コンテンツのマッピングは、あくまで「今の自分にとって、あえてつけるなら」でしかない。自分の中でも時間経過で揺らいでいく。
 dアニメストアはあまりに使わなければより左下にシフトしてやめてしまうかもしれない。YouTubeプレミアムやNetflixなどはサブスクで払う感覚が当たり前になれば、上方向にシフトしていって、より払うことへの心理的なハードルが下がっていくかもしれない。もっと若い世代なら、既に上方向にあるのかもしれない。


 同じ人の中でも揺らいでいくし、同じ物が対象でも人の間で大きな差がある。
 例えば新興宗教の教祖が新刊を出したとして、熱心な信者にとっては右上に、無信仰の2世信者とかなら左上で仕方なく買っている、全く無関係の人にとっては左下になって買わない、と大きな位置の差が生じる。



 これだと、NHKは「無信仰の2世信者が宗教にお金払う」と近い位置付けかと思うと、味わい深い。壇家の布施に近いかもしれない。
 もちろん「親ほど熱心な信者ではないが、コミュニティに所属している自分には納得して払っている」とか「信者ではないがその本を面白いと思って買っている人」など、この間にもグラデーションが存在して、もっと中間的な位置もある。


ブログのありか

 お金を払ってブログを見る習慣がないので、あのマッピングだと自分の中でブログは左下エリアにある。自分が払うならどういうケースになるか想像すると、以下の2パターンくらいだろうか。

  • 応援したい気持ちが生じてお金を払う場合。右上「同人誌」に近い
  • どうしても欲しい情報がある場合。右下「ニュース・情報商材」に近い

 左上(NHKとか)になるケースはちょっと考えつかない。知人や親族が会員制ブログをやっていて全く内容に興味はないが付き合いで入るとかかもしれないが、かなり特殊な状況かと思う。


 「自分のブログを有料化する」にピンと来ないのは、自分のブログ/記事が左下エリアから右上ないし右下に移るイメージを持てないから、と言い換えられるかもしれない。
 そのイメージの持てなさをもう少し見てみる。


セルフブランディング

 ブログを「ニュース・情報商材」に近い位置へ持っていってお金を払ってもらえるようにするには、きちんとプレゼンスを高めていかないといけない。

  • 定期的・高頻度の更新
  • テーマを絞って専門性を高める
  • 質を高める。えっよくここまで、と驚かれるような水準を保つ
  • 読みやすく、一記事が多くも少なくもない分量にする
  • 人の目に触れる機会をつくる。別のSNSからの流入を高めたり、アクセス解析をする

などを愚直にやれれば、プレゼンスを高められるのかもしれない。


 ただこれを愚直にやってしまうと、自分がブログをやる目的と齟齬が出てきてしまうので、ちょっと難しい。どうしても(は? ここはダイアリーなのよ)という気持ちになる。


はてなと私

 はてなダイアリーはてなブログの前身)を始めたのが2004年9月、18歳の時だった。もう19年も書いているのかと思うと意味分からなくなる。はてながブログサービスを無料で提供し続けているのも、正直意味分からない。
 当時はてなが何か野暮ったいけど玄人っぽい感じがしてかっこよかったとか、はてな百傑にはなれなかったとか、2007年にダイアラーたちがTwitterに行ってしまって寂しかったとか、色々な思い出は以前↓書いていた。
  はてなブログへの移行と、はてなダイアリーの記憶について - やしお
 

  • 「ネットで赤の他人の考えていることが見えるのはすごい」という動機を見失わないようにしたい
  • それなりに続けていきたい。仕事とかが忙しくてもやめてしまわずにいたい

と思ってやっている。
 その時の自分が思ったこと、関心のあったことを記録したいと思うと、どうしてもテーマの特定には不向きになる。仕事や私生活と両立させて無理せず続けようとすると、ほどほどの更新頻度になる。プレゼンスを上げる方策を続けるのが難しい。


インターネットへの信仰心

 このインターネットに対する感覚は、世代的な要因が大きいのかもしれない。


 初めてネットに触れたのが1996年頃、小5か6の時だった。インターネットカフェで、スタッフのお姉さんに教わりながら、ブラウザに一生懸命URLを打ち込んでウェブページを見たのが初体験だった。(現在のネカフェというより、コワーキングスペースみたいな雰囲気だった。)
 1999年、中2の時に貯金をはたいてPCを買い、家でネットができる環境になった。ホームページを作って、CGIの日記を置いて毎日書いて、17歳くらいまで続けていた。


 インターネットは地理的/年齢的に隔絶して、本当だったら存在も知らないはずの人の、考えていることや経験が垣間見えたり、知り合えたりする。信じられないことが現実になる、すごいものだとびっくりしたし、面白かった。
 インターネットのコンテンツ=素人が手弁当で作った面白いもの、という感覚が、現状はもうそういう世界ではないと理解していても、底の底で忘れられないのかもしれない。


物心ついた時にあるものとそうでないもの

 自分にとってのインターネットは、「物心ついた時に既にあったもの」ではなく、「思春期に新しくでてきたもの」だった。
 より若い世代にとっては、特別な場所でも何でもなく実社会と地続きなもの、当然にあるインフラでしかないのだろうと思う。


 思想家の柄谷行人が、明治憲法について、作られる前から生きていた世代と、生まれた時にすでにあった世代とでは捉えられ方が違っていた、とどこかに書いていたのをふと思い出した。「あいつらが作ったもの」と思っている人達と、「最初からあるもの」と思う人達とでは、スタンスが変わってくる。さらに下の「親の世代にとっても既にあったもの」の世代にとっては、より動かしがたいものに感じる。
 例えば我々にとって戸籍や氏名という制度が当たり前でも、それ以前の、

  • 人の名前は生涯で時々変わる
  • 「家」は一種の権利のようなもので、血縁はあまり関係なく養子で権利を継承させていく

時代の人々には、全く当たり前じゃない変な制度と感じられたかもしれない。(現代だと角界が近いのかも。親方株の取得で親方や部屋の名前は変わり、昇進等で四股名は変わり、親方/部屋と弟子は擬似的な親子・家族関係にある。)
 職場のローカルルールなども、作られた時を知っている人達と、そのルールがもうある時に入った人達、さらにその人達から「そういうもの」として教わった人達と、世代を経るに従って、ルールを相対視/絶対視する度合が変わってくる。
 しかし新世代でも、発生・成立の経緯を知ることで、制度を絶対視する(もしくは反動で全否定する)ような態度から免れることはできる。


 ある制度やインフラが「なかった時を知ってる世代」→「物心ついた時にはあった世代」→「前世代もそれ以前を知らない世代」で感覚に差が出るのだと思っている。
 インターネットが一般に浸透していく経過を見た世代にたまたま自分がいたのは、ブログでお金を稼ぐことも含めて、一種の「インターネットってこうだったじゃん」の感覚をもたらす要因になっているのだと感じている。


人口の多寡

 20数年前はインターネットへのアクセスにも、ウェブサイトの設置や情報発信にも今より一定の障壁があった。人口も少なかった。
 一定の障壁があり人口も少なければ、メンバーのモラルに頼って村も手弁当で回していける。しかしそれは過渡的で、障壁が下がって人口も増えれば、実社会と構成メンバーは変わりなくなっていく。
 インフラ整備には大きな資本が必要になるし、人が増えればお金を稼ごうという主体も増えるし、一個人が書いたものも思わぬ形で拡散して炎上するリスクも増える。手弁当ではできなくなる。


発信者側の適応とはてなブックマークの「ありがたみ」

 発信の技術的障壁が下がる一方で、炎上リスクに伴う心理的障壁は上がる。人口が増えた中で何かを出そうとするなら、

  1. 当たりさわりのないことだけを言う
  2. クローズドにやる
  3. 炎上を無視する
  4. 人の反応を事前予測してコンテンツを折り合わせる技術を身につける

といった対応を取ることになる。
 「その時に思ったことを書き残す」「それが他人も見えるようにオープンなところに置く」という(少人口時代のインターネットの価値観の)方向性を取ろうとすると、方針1、2とは相容れず、精神衛生上3も耐え難く、4の「炎上しない技術を身に着けながらやる」ことになる。


 個人的な体験だと、はてなブックマークはその訓練に有用だったのかもしれない。ここも人口が増えている。コメントで

  • 書いていないことを「こいつはこんなこと言ってる」と非難される
  • 書いてあることを「これが書いてないからダメ」と非難される
  • 本旨でない箇所が引っかかって大勢が形成される
  • 「実際に何が書かれているか」より、印象や先入観で判断される

といった経験はよくある。
 意図しないポイントで引っかからないように自分の意図を形作る技術は、多少は向上できたかもしれない。
はてな匿名ダイアリーは、匿名性を保つことでオープンとクローズドの中間にして、技術の不足で叩かれてもダメージを軽減させている。それでも記事を消してしまう人もいるので、非難による心的ダメージは(非難する側が想像するより)大きいのだと思う。


 ちなみに「長い」という文句もよく見るが、あまり適応しないように気をつけている。(本記事もそう)

  • いつも当初書いた内容から1~2割ほど圧縮はしている(意味なく冗長にしたいわけではない)
  • 一方で削り過ぎると「その時に自分が思ったことを書き残す」目的を逸脱してしまう
  • また冗長性を減らし過ぎると意図が通じずに誤解による非難を生んだり、短くしてもどのみち「あれが書いてない」と文句を言われる
  • 公的機関や報道機関や公企業ではない一個人が無料で公表したメモなので、むしろ「たくさん読ませてくれてありがとう」と感謝されるべき

といった認識でいる。
 あとは「はてなブックマークできる前からこっちはいるのよね」と思うと、何言われても関係ないような気になってくる。


 大炎上に見舞われる前に、人口の少ない時代からトレーニングできて一種の技術が身についた結果を「良かった」と素直に言えるのかはよく分からない。
 技術コストを素人に課すことが最善なのか、そのコストを負えない人々が書くのを辞めたりクローズドな空間へ移る方が良いのか。叩いて黙らせる方が良いのか。100字でも140字でも、反射的に放言して済ませる、言論公表者の責任から一方的に免れていると信じる人々の振る舞いに学習はしても、尊敬はできない、という気持ちはある。


 ただ、はてなブックマークについては、「読んでくれている人がいるんだ」と励みになった記憶、ブックマーク数が数百~千の時よりも3や20で本当にありがたい気持ちになった記憶の方を大事にしている。


記録を残すこと

 ブログ収益化の話からは外れるけれど「赤の他人の思考が共有される」点でインターネットはすごいという気持ちはある一方で、「後の時代に記録が参照できる」点では脆弱だとは思っている。
 歴史家・網野善彦の『日本の歴史をよみなおす』で、民家のふすま紙に再利用されていた非公式の記録から、当時の経済活動が明らかになっていく話を以前に読んだのを思い出した。公式には農業(収穫高・土地)しか記録されず、土地のない貧農だと思われていた家が、実は何艘も大型船を所有して大金を貸し付けていた海運業者だった、「百姓」の農業以外の経済活動をそうして明らかにしていく、といった話だった。
 一方でインターネット上の記録は、ふすま紙のように物理的なものとして残らないので、とてもはかなく消えてしまう。ホームページサービスやブログサービスも終了して既に失われたものも多い。いつかインターネット全体のアーカイブが取られる日が来るのかも知れないが。


 ブログに限らず、家計簿や読んだ本・見た映画の記録も、細大漏らさずずっとつけ続けている。自分のためにそうしているだけでも、百年後くらいになれば、当時の一般人の経済活動の記録として参考になるのかもしれない。
 ブログ記事を「後世に残したい作品」と思う気持ちは全くない一方で「何でもない一般人の非公式の記録」はある程度の数が残っていないと後で困るのかも、という気もしている。
 同人誌をつくってみたいなという気持ちがちょっとある。このブログの中で、主に家族や友人などの人間関係や気持ちに関する、一番プライベートに近い個人の記録を集めてまとめてみようかなと漠然と思っている。


ブログ収益化のピーク

 「ブログで稼ごう」といった話も、最近はあまり目にしなくなった。ピークは10年ほど前、2012年頃だろうか。

  • 2chまとめブログがアフィリエイトで稼いでいることに怒ったニュー速民が嫌儲板に大移動したのが2012年
  • ペニオク詐欺事件で多数の芸能人がブログでステルスマーケティングをしていたのが話題になったのも2012年
  • 自分がよく見ている旅行系YouTuberのおのだ氏は、2012年にブログを運営開始し、2014年に会社員を辞め、2016年から当初はブログの宣伝目的でYouTubeの動画配信を開始されている

といったことを思い出して、2012年頃はまだ「ブログで稼ぐ」がある程度現実感のある話であり得た時代だったのかもと想像している。自分自身でブログの収益化に本気で取り組んだ経験がないため、「これくらいの時期がピーク」と言える定量的なデータも、定性的な肌感覚もない。


 収益化の主流がブログ→YouTubeInstagramに移るのも、その昔ラジオ→テレビに移ったことの繰り返しかもしれない。
 技術的制約(通信量の制約)で、文字情報(ブログ)や音声情報(ラジオ)が一時的に主流になっても、その制約が薄れれば、映像(テレビ・YouTube)コンテンツが圧倒的に主流になる。メディアのヘゲモニーが移ってマスも移れば、収益化の有利さもそちらに移る。ラジオタレントやブロガーになって稼ごうという話もあまり聞かなくなる。
 ただ、それでも一定の需要はあって廃れきるわけでもない点もブログとラジオは似ている気がする。(人が減れば発信-受信側の距離の縮まった気軽な場になるかもしれないが、ふとしたことで外側に拡散されるリスク自体は減らない。)


趣味と実益

 好きなこと/得意なこと/稼げることの3つが同時に成立するのは稀で、かなり近い位置にいながら少しズレているので調整せざるを得ないケースがほとんどかもしれない。このうち「稼げること」の領域(マーケット)を自力でこちら側に引き寄せる修正はとても難しいので、大概は「好きなこと」や「得意なこと」をそちらに寄せるしかない。(新たなマーケットを創出する/未来の価値観を先取りできるケースも存在はする。)その過程で「本当にやりたかった/やるべきだったこと」や「本当に得意なこと」から逸脱しておかしくなったり苦しくなったりする状況は、企業でも個人でもありふれている。


 例えば詩歌(現代詩や俳句・短歌)でプロとして生計を立てることは、その世界で極めて高い評価を得ている人であっても、現在ではなかなか困難だと聞く。市場や消費者の需要に応えられるようにアジャストできるタイプの詩人や、偶然人口に膾炙してポジションが確立できた人などもいるかもしれない。ただ多数の作家は、それで稼げないとしても、自作や表現を曲げて「稼げること」に寄せる選択肢は取り得ない。それをやってしまったらそもそも書く意味がなくなってしまうのだろうと想像している。
 一方で小説は、物語の形であれば消費されやすい点でマーケットが形成されやすく、プロ志望者やアマ作家も一定の数が成立して、一定のプロ志望者・ハイアマチュアが存在すれば、エンタメ小説だけでなく現代小説の消費者も形成されて、プロ作家として生計が立てられる。将棋や野球も、(チェスやクリケットと異なり)歴史的な経緯もあり、プロ志望者・ハイアマチュア・一般競技者がその底に一定数あることでマネタイズが可能なコンテンツになり得る。
 好きなこと/得意なこと/稼げることがどの程度重なるかは、消費され易さの特性や、歴史的経緯などにも大きく左右される。無理やり一致させるように曲げることが幸福とも限らない。


 ブログという媒体自体も稼ぐのに向いていなければ、自分のやりたいことも収益化に向いていない。ただそれで無理して「稼げる」方向にアジャストすると、そもそもやる意味がなくなってしまう。


ブログ収益化の形態

 収益化の手法も複数ある。

  1. アフィリエイト
  2. 広告
  3. 記事の単独販売
  4. サブスク
  5. 投げ銭

 このうち「ブログの有料化」(アクセスの制限)の狭い意味では「記事の単独販売」と「サブスク」が該当する。


アフィリエイト
 だいぶ以前からAmazonをこのブログにも設定している。読書感想文を時々載せていて、本のリンクも貼っている。忘れた頃に(年に2~3回)1000円くらいのギフト券になって届くので、ありがたく本を買うのに使っている。ただこの額だと、会社で15分残業したくらいなので「収益化」とはちょっと言い難い。
 はてなアフィリエイト設定のページでは「自分の日記ページなどで小遣いを稼ぐことが可能なアフィリエイトプログラムの設定ができます。」と説明されている。

 「小遣いを稼ぐ」という言い方がなんか即物的で気に入っている。「アフィ収入を濡れ手で粟なんて思うな、糊口をしのげるわけないだろ、働け」と言われているような気がする。この個所に限らず、はてなブログのヘルプでもアフィリエイトは「それだけで生活するには向いていない」と強調しているのを見かけて、誠実だなとは思った。


【広告】
 はてなブログGoogleアドセンスの設定ができるらしいと知ってはいるけれどやったことがない。広告は消せるなら消したいと思っていて(なるべくシンプルでありたい)、ポイントが余っていた時に一時的に有料版にして消していた。
 YouTubeだと受信者側がお金を払うと広告を消せるが、はてなブログだと発信者側がお金を払うと広告を消せるのが、真逆でちょっと面白いなと思った。同じ広告でも、読み飛ばせる文章メディアと、飛ばせない映像メディアでは受信者側のダメージが違うといった特性の違いもあるのかもしれない。


【記事の単独販売・サブスク】
 今回のcodoc連携サービスで使えるようになるのがこれら。公開範囲に制限を加えるので、自分がブログをやる意味や目的からするとあまりそぐわない。


投げ銭
 codoc自体にはこの機能があるようだけれど、はてなブログでは使えないそう。公開範囲を妨げないという意味では、自分にとって導入可能な気がする。応援したい気持ち、お布施みたいな意味では同人誌に近い。
※お金を渡す/受け取る行為は、「あげたのに」「貰っちゃったから」と一種の負債感覚を発生させる。同人誌のように物体の受け渡しを伴えばまだ軽いかもしれない。匿名・コメント不可・低価格しか設定不可、といった制約がついた方が安全な気もする。「コメントできる」「評価がつけられる」機能は、意欲を掻き立てて定着率を高めたとしても、本来の目的を失わせたり、執着させたり、恨みを発生させる。VTuberでもないのだし、ブログの投げ銭でそこまでにもならないという気もするが。


ブログ有料化のピンとこなさ

 ブログでお金を払ってもらうには、以下の方向性がありそうだった。

  • 右下:どうしても欲しい情報がある場合。「ニュース・情報商材」に近い位置
  • 右上:応援したい気持ちが生じてお金を払う場合。「同人誌」に近い位置

 これに対して、以下のような状況だった。

  • プラットフォームとしてブログ自体が現在は収益化に向いていなさそう
  • 古いインターネットの価値観から以下の方針でやりたい
    • ①オープンでやりたい
    • ②テーマを特定せずにやりたい
  • しかしそれは右下「ニュース・情報商材」的な収益化には向かない
    • ①→収益化の方途を制約する
    • ②→プレゼンス向上に向かない
  • 従って、もう一つの道である右上「同人誌」的な方向が考え得る
    • しかし今回の新サービスは記事の単独販売・サブスクの機能追加→方針①と合わない
    • ①と反しない形だと投げ銭だが、今回の新サービスには含まれていない

 

 上記からすると、「記事の単独販売を使用するが、ほぼ100%を公開範囲に設定して、投げ銭機能に近似させる」が一番ふさわしい解に思える。
 なのでそうしました。↓の有料部分にはお礼しか書いていません。価格は100~50,000円が設定可能で、デフォルトで「300」と入っていた。デフォルト値と最低値の間をとって200にした。(自分の感覚でまあ払ってもいいかなみたいなライン)




 はてなから依頼をもらって、何を書こうかと思った。色々途中まで書いて放置したままのメモが手元にたくさんあり、その中から何か選ぼうとも思った(古層には10年以上前のメモもある)。
 でも、ブログの有料化そのものについて思うことを書くのが、いつもの記事を何気なく有料化するよりも、「その時考えたり思ったことの記録を残して公開する」方針には似つかわしいんじゃないかと思い直してそうした。


 全部が全部は難しいし、自分で全てをコントロールできるわけでもないけれど、せめて手の届く範囲は多少でも「本来こうありたい/あってほしい」を維持したいなと願ってる。
 結局19年間、はてなダイアリーを続けてるだけなんだと思う。

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