やしお

ふつうの会社員の日記です。

茂木健一郎『脳のなかの文学』

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/7355720

出発点が主観性(仮定・公理、あるいは印象)にあって自身の正しさをついに証立て得ないし、完全に現象を捉えきれる体系はないと自覚した上でなお、より豊かに捉えられる体系を希求して進む物理学や批評たちに向かって「零れ落ちてるじゃんダメじゃん」と代替案なしに言われても……。「クオリア」の概念は事態を超えてくれないし。主観性をその都度導入して畢竟独語に留まる<印象批評>から他人へ伝えるために客観性を導入した<現代批評>へ止揚されたのに、本書は後戻りして独語に……しかも認識が妙に陳腐なのでちょっと耐え難い……

脳のなかの文学 (文春文庫)

脳のなかの文学 (文春文庫)


 16章あるうちの始めの3つまで読んでちょっと断念してしまった……。

文学の生き神となった後の小林秀雄だって、あらゆる意味づけの桎梏から解放されて、一つの無垢の魂となり、存在論的不安に駆られる時はきっとあったろう。そうでなければ、柳田國男の『山の人生』を引きつつ、聴いている学生たちを泣かせるような講演ができるはずがない。(p.54)

「そうでなければ、」「できるはずがない」という断定は、いったい……

重度の仮想酔いの気配のある文学者は、自らの肉体が生きてあることの逃げようのない息苦しさに敏感であったはずだ。一分間に二百を超す頻脈の発作に苦しんでいた百輭や、ベトナムで自分の同行していた部隊がほとんど全滅した経験を持つ開高が、三四郎の聞いた女の叫びを知らないはずがない。(p.57)

「はずがない」……
 作家が示した小説なり批評なりといった現象それそのものではなく、その作家本人の個人的なエピソードを引かずにいられない弱さもさることながら、この断定の貧しさには苛々させられる。心を鎮めて読み進めてもまたすぐ出てくる……。別に無謀な断定が嫌いなわけではなくて、それが他の帰結を導き寄せて現象を豊かに捉えたりはしないこの貧しさがいやなの。とは言え、本人が主観性や「クオリア」を大切にしたいというので、もうそれは好きにしておくれ……私は相対主義者なので別の体系の存在は否定しないよ……私は採用はしないけれど……
 とはいえ各論では結構、認識が一致しているところもあった。

特定の意味の体系に置き換えられてしまうものは名作たり得ない。

というのはそう思うけれど、「だから」「現代批評」にも「印象批評」を導入、というのはちとお門違いかと。そもそもそれは対立しているわけではなく批評は(というか体系は)すべからく主観性を持たざるを得ない、印象批評を包含している存在なのに。


 ただ、何かを(主観を交えずに)紹介しているところはなかなかおもしろかった。ペンギンの話とか。実は4章目から「紹介」が続いてすごく面白い、という展開の可能性もゼロではないけれど、それに賭ける勇気が私に足りなかった。
 それに、いやあ茂木は物知りですごいなあと思うし、もともとのタイトル『クオリア降臨』が昔のポケモンの映画のタイトル『ルギア爆誕』にちょっと似てて、よく考えるとぜんぜん似てないから、すごい。