やしお

ふつうの会社員の日記です。

強姦と和姦

 300人と性交達成後、強姦未遂で逮捕された男子大学生の話、「泣き寝入りしてる子も多いんだろうな」という無関係者のコメントを読むと、泣きも寝入りもしてないけど和姦とも言い難い子も多いんだろうなって思うよ。
 本人の意識では「別に犯された訳じゃない」「自分でいいと思ってしたこと」と確かに思ってても、実のところそれが作られた認識というか、本当に自発的に出てきたものではなかったりすることが結構あるんじゃないかな、とは思ってるの。


 不法販売の事例集みたいのであるじゃん。訪問販売で無理やり売り付けられるときの心理みたいの。
 とにかく早く帰ってほしいと思ってる。でも他人を家に入れてしまった、話を長く聞いてしまった、そんな負い目もあり(本当は負い目でもなんでもないはずだけど)、相手を怒らせずに穏便にこの場をおさめる方法として、商品を買うという選択をしてしまう。実際、相手は商品を買うまで何を言っても帰ってくれないし。そのとき自分自身の心理的な負担を軽くするために、「これはいいものなんだ」「自分がほしいと思っていた物なんだ」「自分がほしいと思って買ったんだ」と自分に思い込ませる。本人はそう信じているという。
 ぼくが小学生だった時に、訪問販売で母親が高額な浄水器を買わされたことがあるんだ。今でもすごく印象に残ってるのは、販売員が帰った直後からまるで言い訳みたいに母親がぼくに「ちょうど最近浄水器がほしいと思ってたから」とか「これはすごくいい浄水器でうんぬんかんぬん」とパンフレットを見せたりして一生懸命説明するんだよ! 夜、ちょうどぼくが入浴中に販売のお兄さんがきて2時間も居座ったせいで、風呂から出られずにのぼせ上がったぼくに。父が不在のなか、ぼくはふにゃふにゃしてるし、母は熱心にしゃべってるし、もう忘れられない夜です。
 今思うと夜に来るってのも「早く帰ってほしい」気持ちを高めるためのテクニックだったんだ。
(ちなみに浄水器はうちの台所に設置されたあと、でかい! じゃま! ということで頑張って返品、お金はぶじに戻ってきました。)


 そのことを思い出しながら、果てしなくしつこいナンパ攻勢を受けたときに似たような状況に陥ることはあるんだろうなと思うんだ。相手が逆上したらどうしようとか、周りに人がいるのに声荒らげたら注目されて恥ずかしい、といった負い目できっぱり振り切ることができずに、でもとにかくこの状況を解決したいとなったとき、相手の要求をひとまず呑んでしまう。まあ、とりあえずお茶だけなら、「ちょうど喉も乾いていたし」。そこからひたすら正当性の確保の連鎖がはじまるのかもしれない。「今日は特に用事もなかったし」「悪い人ってわけじゃなさそうだし」「顔もタイプじゃないってこともないし」「こういう系統の人も一度くらい試してみたいと思ってたし」……


 訪問販売はそれなりに啓蒙(?)も進んで、「あのときは納得して買った気がしたけど、そうじゃない、売りつけられたんだ!」と本人なり周囲なりが気づいてクーリングオフ、とある程度対処できるのかもしんないけど、レイプについてはまだまだ「嫌がる相手を無理やり」のイメージばかりで、「あのときは納得してセックスした気がしたけど、そうじゃない、犯されたんだ!」まではなかなか進まないのかもしんない。そう主張しても「このアバズレ女、男を嵌めやがった」みたいに言われるような世間様だしね。本人が違和感を感じてたとしても、相手が作り出した状況によって自分の思考が形成されることがある、という認識に至る契機がまるでなければ、ずっと自分が納得してやったこと、自由意思でしたことのままなのよね。そして自分の意思であると思うなら、それを否定することは自身を否定することなので、なかなか難しい。「いや、あのときは私も納得してたんだし……」


 こういう話すると、自由意思などなくすべての意思は環境要因で形成される、みたいなこと言ってると誤解されるか、じゃあその境目、ボーダーラインをきっちり示せ、と詰め寄られるかするけどそういうことじゃないんだ。意思の起源を問うことや意思の要因を分別することは、無益とは言わないまでもここでそのことを問題にしてるわけじゃない。不可分に、弁別し得ずに(究極的には主観的にしか弁別し得ずに)ないまぜになって存在し得る、ただそんな見方もあるってだけのことだよ。
 そんな見方で見ると「本人は納得してるんだから和姦」とも言い切れないよねってこと。


 ところで相手が結構ほんきで嫌がってる・困ってる状態で強く迫り続けるという場面を実際に見てみると、すごく奇妙なことに、ある時点から突然、嫌がるのをやめてむしろこちら側の意向を積極的に満足させようと努めたりする。(エッチな漫画とかである「快楽に溺れて理性を手放した」みたいなこととはぜんぜん違います。)昔はいったい何だったんだろう、あの突然の変化は……とただふしぎに思ってたんだけど、今はあの「解決」のための転向が生じてたんだろうという理解。
 強姦なんかの裁判で加害者が「合意の上だった」と主張してるのをよく見るけど、以前は、本人も強姦だと思ってるんだけど言い逃れるために/裁判の戦略上、そう言ってるんだと思ってたの。でも最近は、案外本気で「合意の上」だと信じてたりするんじゃないかなとも思ってるんだ。相手が途中で突然協力的になることを「熱心にお願いした成果だ! やっぱりあきらめずに頑張れば願いは叶うんだ! よーし!」ってただ自分の説得が成功して、相手が納得してくれたという認識でいるとすれば、「あれは合意の上だったんだ!」と本気で言えてしまう。


 でもさー。ある状況に追い込まれて成立した「納得」が結果的に本人にとっての納得になることだってあるじゃん? そこから恋人になるかもしんないしさ、浄水器買ってよかったねってなるかもしんないじゃん? そしたら「説得」も悪くなくない?
 という話はそれはそれであって、別にここで良い/悪いを決定したいわけじゃないしね。あるときは詐欺の手口として非難され、あるときは心理テクニックとして顕揚され、あるときはナンパの極意として実践されるこれを、客観的に良い/悪いと決定するには外部の体系を持ち出す必要があることだし。
 ここでは単に、常に合理的に自由意志で判断してるわけじゃない、ある状況に追い込めば(当人は自身の意思によるものと誤解したまま)判断を形成させられる、という至極あたりまえのことを、いろんな場面で自分にも相手にも適用して考えられればいいよね、っていうただそれだけなんだ。


 そいで、とりあえず強姦の話に限って言えば、何も腕づくで無理やり犯すことだけが強姦じゃないよ、「納得してた(してる)じゃん」が必ずしも強姦を否定する材料にはならないし、「あのときは納得したくせに後になってから無理やりだったんです! とか言い出して、悪女! 悪女!」という非難がいつでも成立するなんてこたぁないよね、ってこと。