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平行世界の措定なしでも「こうであったかもしれない私」という可能性の束は考えられる。そうした可能性に対してもなお「この私」と断言できる性質、特殊性に回収されない単独性が消去されずに残る。そこへ平行世界を導入して「私ではない私」を実体的に語り得るようにすると(例えシミュレーションだと言い張っても)、実際にはなお残存するその性質を無視できる。SFミステリとして本当に面白いけど、そこに触れながら都合よく特殊性へ回収させて済ませた態度が退屈。この著者はたぶん知っていながら、今回そこはいいやって捨てた侮りがいやなの。
- 作者: 東浩紀
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2009/12/18
- メディア: 単行本
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可能性の上の私、小説家でなかったかもしれない住人、テロリストであったかもしれない住人、住人の娘でなかったかもしれない風子、住人の娘であったかもしれない汐子、等々。そうした可能性に対しても住人、風子、という名前で呼んで、紛れも無くこの私と思える面と、それぞれ同じ名前で呼んでおきながら、「○○年の住人」といった形で私ではない私として対象化してしまう面。この差に触れながら、無視して片付けて済ませたとこがやだなと思ってる。
でもこれ、たまたま柄谷行人の「探究II」と平行して読んだからそういうこと言うだけで、それまでの相対主義的な見方しかしなかった自分ならもっと肯定的に読んでると思う。
だってこれ、住人が最終的に「ああであったかもしれない」「こうであったかもしれない」っていうあれこれのうち、主体的に選択する、本人にとって不可避の選択だけど、それとは関係なく、自分の選択として肯定するって話。そもそも主観的な選択なしには客観性はあり得ない、という事実を自覚的に肯定する話。
それ自体は今も(探究IIを読んだ後でも今のところ)そう思っているのでいいんだけど、それに加えて(そこからはみ出る話として)「単独性」という話を知ってしまった以上、そうした視点に欠けているように見えると退屈な気がしてしまうんだ。