やしお

ふつうの会社員の日記です。

美姫神話

 安藤美姫、このプリンセス・オブ・ビューティの名をもつ女は、まるで神話のように父親も妊娠も不在のまま子を産んだ。そして人々は、カラクリ人形が決められたタイミングと動きでカタカタ踊るように、彼女を指さして騒ぎ立てる。


 人々はいつでも上昇と下降の、王政の物語を希求している。
 王とは比較され得ない力を得た存在であり、それは非日常的であり反倫理的である。人々の非日常性/反倫理性への欲望を仮託された存在が王なのである。自身でそれらを実現するわけにはいかない人々、日常と倫理を保たざるを得ない人々が、自身の欠落を埋める何かを王に見出し、どうにかやり過ごす装置としての王政。人々のスケープゴートとしての王。
 ある人物が王となるには、非日常性/反倫理性を顕現させて上り詰めなければならない。これは実際にその人物が非日常的/反倫理的に振る舞うかどうかというより、結果的にある王が誕生した時にひるがえって彼の上に人々は非日常性/反倫理性を見出すのである。


 例えば競技であれば人々は競技者に対して、日常を捨てて打ち込みたいなどといった非日常への欲望を投影する。何か私的な事柄を優先したスポーツ選手に対して「気が緩んでいる。人生をかけて取り組まなければだめだ」などという全く身勝手な放言を人々がするのは、そうした欲望の押し付けが成就されなかったフラストレーションによる。
 中でも非凡な競技者に対しては、そのような欲望を一身に浴びせる。それは王への期待である。
 美姫は女性として世界初の4回転ジャンプを成功させ、そうした期待を浴びることになる。ジャンプという身振りは全く上昇に似つかわしい。そして実際、彼女はフィギュアスケートで世界女王となる。


 しかし王は、固着して非日常性が日常性に転化するともはや人々の欲望を受け止められなくなる。そのとき王は衰退や滅亡によってそうした欲望を受け止めるか、もしくは非日常性/反倫理性を何か別の対象に担わせる。この「別の対象」は多く王子が引き受けることとなる。(例えばスサノオヤマトタケル光源氏など。)人々のスケープゴートとしての王と、王のスケープゴートとしての王子。中心としての王を周縁から喚起する存在が王子である。あくまで完全な外部ではなく、また内部でもなく、その境界にあることが王子としての資質となる。王家の血縁であるという点で内部でありながら、追放や放浪によって外部に接している。こうして境界・周縁から中心を喚起していく。


 女王の地位を浅田真央が担うようになり、衰退する元女王のミキティ選手。このとき彼女は衰退する元女王であると同時に、中心を喚起する王女としての役割をも担ってゆくことになる。
 彼女はコーチとの恋愛に陥る。公的な存在であるコーチと私的な関係を結ぶ。人々はそこに反倫理性を見出す。(実際に反倫理的かどうかではなく、人々がどう見做すかが重要である。)さらにシーズンを欠場する。世間には「事実上の引退」などと呼ばれながら、なお当人は引退を口にせず選手に留まる。引退してしまえば完全な外部となるが、あくまで選手として内部に留まりつつ、欠場という放浪によって外部に接するのである。
 こうして美姫は、真央、「まんなか」の意味の名を持つ女王を姫として周縁から支えていくことになる。


 そしてついに、このプリンセスは父親も妊娠も知られぬままに子をなすという、フィギュア界に留まらずスポーツ界でも類を見ない振る舞いを見せることになる。「人は結婚、妊娠、出産、子育てのプロセスを正しく踏まねばならない」、「競技者はその競技を人生の全てとして取り組むべきである」といったありもしない規範を夢見る人々にとっては過激に反倫理的な振る舞いである。
 ここで彼女を否定しようと肯定しようと同じことである。例えば私個人としてはこのニュースを耳にしたとき、極めて興奮し、爽快感のようなものさえ覚えた。そして「いっそ出産する映像を自分で撮影して、VTRをテレビ局に高値で売りつけて『養育費の足しにしようと思って』くらい言い放ってくれたらなあ」とあらぬ期待さえ抱いた。「もっとやれ!」の気持ちで彼女を肯定する者も、怒りながら否定する者も、反倫理性へのエモーショナルな反応という点でさして変わりなく、王制の物語から免れ得てはいない。免れるにはせいぜい無関心を決め込むしかないのだ。
 それと同時に、全く見事なことに彼女は、来シーズンは選手として復帰し、これを最後のシーズンにすると宣言している。あくまで完全な外部としてではなく、内部との境にあることを表明する。中心をこれ以上なく刺激する周縁の姫、王制の神話の登場人物としてあまりにも完璧な身振り。


 もちろん彼女本人が自覚してその物語を生きていると言いたいわけではない。彼女は選手として、あるいは一人の人として、その都度自身にとって最良の選択と信じた行動で人生を積み上げてきたのだ。もちろん世間の空気を感じ取って、それに報いるような行いをしたこともあっただろうが、おおむね当人の意識としては自身の選択による結果だろう。
 そうであるにもかかわらず、彼女を見る我々はそこに物語を見出さずにはいられない。そして物語の要素に彼女を押し込めて理解し、何か自動的に感情的な反応を示しているに過ぎない。そもそもスポーツ選手の競技自体に対する姿勢、競技のメタレベルでの選択に関して憤ったり歓んだりすること自体が極めて不自然なのだ。それは欲望の転嫁を経てようやく起こる事態であって、欲望の転嫁を起こせば即座にああした物語に搦め捕られてゆく。



 これ、たまたま山口昌男の「天皇制の文化人類学」を読んでたときにニュースきいたから書いてみただけで、たぶんあんま関係ない。でっちあげて何か言うのはどれだけでもできるからね。ミキティ選手にはがんばってほしいよね。うん。