やしお

ふつうの会社員の日記です。

大西巨人『神聖喜劇(二)』

http://bookmeter.com/cmt/42795539

これ登場人物たくさん出てきても、ダイアローグというよりモノローグになってる。語り手・東堂の分身がたくさんいる。村上少尉は方向(結論)が逆向きだけど東堂と同一軸上にいるし、村崎一等兵は語彙が違うけど一点(兵隊給料問題)に拘泥することで構造上の歪みを剔抉する態度は東堂と同じ、安芸の彼女は性差で徴兵されないって違いはあっても思考は東堂と同じ、と分身してる。そんな環境だから、大前田軍曹の異物感が際立つ。無学無知の勘違いが論理を破壊して転倒する、という作品のコンセプトを内包した上で、さらにはみ出してく存在、大前田。


以下メモ。

  • 1巻に比べると不正確な描写が減っている。不正確というか「文学的な」描写がなくなっている。それへの自覚が生じている。例えばp.276では自分の描写に対する疑いが書かれる。
  • そのかわり?引用がより激しさを増している。東堂に限らず他の人物も引用を重ねていく。作品外のテクスト(俗謡や民謡や俚諺など)や作品内の過去の言葉が引用されていく。
  • 2巻では形式がいろいろ変わる。戯曲形式、日記形式、インタビュー形式。しかしそれが(彩りを添える、という以上に)どういう必然を伴っているのか、現実にテキスト上でどのように機能しているのかがまだよくわからない。残り3巻で何か反復されたり(例えば形式から離れて物語の中で)、何か主題体系を形作るようなことがあるんだろうか。
  • 節の頭に入る引用(エピグラフみたいなやつ)はアニメのアイキャッチみたいだ。これもどういう効果があるのだろうか。パセリのような役割って思って済ませて済むものなのかしら。
  • 村崎のインタビューは構造が東堂と同じというのは上の感想文の通りだけど、それ以上に、東堂の一人称小説の中にあって存分に方言や俗言を導入しようとすると(語彙に別方面から豊かさを齎そうとすると)、こうするしかない気もする。
  • 一見、主人公が特別な人間に見える。記憶力の高さなり聡明さなり何なり。しかしそれを否定していくというのが眼目の、一種のビルドゥングスロマンになってる。例えば村上少尉に促されて陸軍刑法をそらんじようとして仕損じた場面(p.33)なり、村崎一等兵の長広舌の中で兵隊の給料について教えられたり(p.401)、生源寺に命令・規則別物問答で助けられたり(p.326)、村上少尉との問答で橋本が異様な粘り強さを見せて出自を明かしたり、鉢田が「皇国」を知らないと言い放ったり、挙句二人して戦争目的は「殺して分捕ること」などと放言する……といった経過の中で、東堂なんてたかがしれてるんだよと優越性が剥ぎ取られていく。
  • むしろ形式的に特別なのは東堂より「安芸」の彼女。主要人物なのに唯一氏名が与えられない。さらに途中の戯曲形式で「女」と表記されると、同時に東堂の名前も剥ぎ取って「男」にしてしまう。自分の特別性を捨てるのと同時に東堂もそちらへ引き込むという。
  • 思い出したように風景描写が入る(例えばp.234)。バランスを取ろうということだろうか。「小説らしさ」を持とうという意図なのだろうか。これはある具体的な場所、環境で進んでいる事態ですよ、と思い出させるための。
  • 第四部第二は比較的短い時間を遡っていくように構成されている。時間操作がどうなってるかは後で全体を確認する。


神聖喜劇〈第2巻〉 (光文社文庫)

神聖喜劇〈第2巻〉 (光文社文庫)