やしお

ふつうの会社員の日記です。

アート無罪という甘え

 何か問題を起こして「アートだから」と弁明するのは結局、自己保身でしかあり得ない。常識や価値観の転倒を目的に「アート」を実行しておきながら、ひとたび問題が起きれば「アートだから」「表現の自由だから」と常識や価値観にすがる姿勢は自家撞着でしかない。
 一方で常識を壊すといい、他方で常識に助けを求める姿は、「アーティスト」の名にまるで値しない。


表現と制約を両立させること

 たとえば建築が安全に関するレギュレーション(建築基準法等)をクリアしながら表現していくのと同様に、他者を傷つけないことと表現することとは両立させられる。自身が表現したいもの、あるいは転倒させる価値のコアを精確に特定した上で、そのコアと現実的な条件がどのように折り合うか、昇華させられるかを模索する。
 そうした作業を曖昧に放棄しておきながら、そのことで問題を起こした末に「アートだから」と口にする。そうした振る舞いは、知性の欠如か精神の惰弱をしか意味しない。わからずにやったのなら知性が欠けているし、わかってやったのなら精神が弱い。


 両立させる作業は面倒で骨が折れる。しかし現実に本当に問いたいと願う表現者はそれをせずにはいられない。その作業は、自分が一体何をしているのか(しようとするのか)を問う作業だから、それなしに表現するということがあり得ない。
 知性が足りないわけではないのにこの作業を放棄して平気でいられるのは、そもそも表現を目的としていない人々だ。その行為で単に耳目を集めさえすれば満足する者は、両立させる作業に無関心でいられる。
 少し変わったこと、他の人がやらないことをして、「度胸がある」「すごい」と言われさえすれば満足な者にとっては、自己の行為を徹底的に問うインセンティブが働くことがない。自身が何をしているのか、この行為が現実的にどのような利害の関係性を生じさせるのか、この表現が過去の積層・文脈の中でいかに位置せられるのか、といった問いに無関心でいられる。それは、アルバイト店員が店の冷凍庫に入った写真をTwitterに上げて仲間内で「やべえwww」「すげえwww」と言い合うことと全く変わりない。それを「ふざけてしまった」「よく考えずにやってしまった」と認めることすらせず、「アートだから」で一切の責任を阻却しようという。
 表現への欲求ではなく、自己顕示欲の満足を目的としていながら、それを認められずに「アート」で糊塗しようとする連中の精神は惰弱である。


衝突しながら、なおやるということ

 それでも、どれだけ回避しようとしても、他者の利害と衝突することがある。これはアートに限らずあらゆる行為がそうした可能性を孕んでいる。
 極端な例で言えば、他者を殺害するというのは究極的な権利の侵害である。それでもどうしようもなくそうせざるを得ない場合がある。相手に殺されそうな中で正当防衛として、あるいはもはや回復の見込みのない者の安楽死として、回避の余地がなく殺害せざるを得ない。このとき、その個別具体的な状況において、「どうしようもなくこの自分はそうせざるを得なかったのだ」という弁明をすることになる。「あらゆる人が誰かを殺害する可能性がある(だからしょうがない)」などと一般論にすり替えて擁護するなどあり得ない。


 しかし同じことが、ことアートにおいては成立すると見なす者たちがいる。「あらゆる芸術行為は他者を傷つけるものである(だからしょうがない)」「表現の自由がある(だからしょうがない)」といった徹底的に空虚な言説によって、他者への権利侵害を一般的に擁護し得ると信じて疑わない者たちがいる。
 それはアートをその他の行為から隔絶して、無条件に特別視することでしか成り立ち得ない。しかしそれは同時に、アートをその他の行為と隔絶するものとは何か、という問いを問わないことでしか成り立ち得ない。仮にアートをその他の行為から分離する定義を与えたとして、では何故そのときアートだけが無条件に責任を阻却され得るのかという問いへの回答はまだ得られない。実のところこうした問いを繰り返した果てに見出だされるのは、「この私を無条件に守るため」という自己保身でしかない。


 それだから、「アートだから」ではなく「この私はそうせざるを得ないから」そうしたのだと答えるほかない。個別具体的に、なぜ自身がそうせざるを得なかったのかを言うしかない。他者の権利と衝突しても、その結果社会的な制裁、刑事罰その他を甘受してでも、「この私はそうせざるを得なかったから」そうしたのだと言明するのがアーティストに限らず、行為者としての責任の取り方である。


表現の自由の位置付け

 こうした場面で「表現の自由があるから」と擁護する人々がいる。それが擁護になり得るという考えは、権利感覚の歪みからきている。
 表現の自由は、まず国家に対する制約としてあって、個人間の利害対立の場面で云々するための存在ではない。表現の自由に限らず、人権体系の全体について、それを「守れ」と命じられている主体は国家である。表現の自由は、国家が「悪い表現」を決めて禁止したりしない、という原則である。これはより根本的には「国家は価値判断をしない(最小限に抑える)」という基本コンセプトから来ている。


 その意味で表現の自由愚行権と近い。「愚かなことをしても良い」というのは言い換えると、「それが『愚かであること』を理由に禁止されない」ということで、ここでは国家が「愚かかどうかを判断しない」という制約になっている。愚行権があるから愚かなことをしても無条件に許されると開き直るための道具では全くない。
 表現の自由にしても愚行権にしても、国家は価値判断を下さないという方針は、「完全な正しさ」が確定できないという原理に根差している。ある時点で/ある人にとって愚かな行為、無意味な表現に見えたとしても、それが別の時点で/別の人にとって正反対の価値を持つことがあり得る。(暴力装置を占有した)国家が一方的に価値を決定することで市民の自由を奪わないという制約であり、国家は余計なことに口を出さないという基本的なコンセプトがここにある。
 誰も実害を受けていないところにルールを作って縛るのは、全体にとって不利益である。


 国家に対する制約を個人間の利害対立の場面でいきなり持ち出すのは、権利感覚の歪みの表出である。ある問題、権利と権利の衝突が発生した時に、権利の主体であるこの私とあなたの個別の問題として捉えるより前に一般論を持ち出すのは、個別の掟や法、ルールよりも、一般法の方が優先されるという逆転した思考のあらわれである。「特別法は一般法を破る」という原則が法体系にある。それは一般論では取り込みきれない個別の事情に対しては個別のルールが優先されるということだ。ただ、その個別のルールの正当性を確認するときには、より広い一般論や目的・精神が参照されることになる。
 アート無罪という甘えは、特別法より一般法の方が優先されるという逆転した考えがないと生まれてこない。その意味でここには、「個」が弱く、中間勢力もなく、いきなり全体社会に接続してしまうという日本社会の特質が現れている。個人よりも組織や国家の方が重要であり、個人の意見よりも全体(世間)の空気感の方が重要であるという感覚が、実はアート無罪の根本にある。


表現の自由をめぐる事例1

 表現の自由をめぐる裁判の中で著名な事例をここで2つ振り返ってみる。一つが柳美里の「石に泳ぐ魚」裁判で、もう一つが赤瀬川源平の千円札裁判である。前者が表現の自由を不当に振りかざした例、後者が正当に主張した例となる。こうした事例を通して、表現の自由の使用法・作法をはっきりさせていく。


 '94年に発表された柳美里作小説「石に泳ぐ魚」は、実在の人物(一般人)をモデルにしてプライバシーを侵害し、裁判の結果、出版等による公表が禁止されることになった。(現在出版されているものは作中人物の特徴や来歴を大幅に変更した改訂版。)親族の逮捕歴や、顔面の腫瘍の手術歴等々、作者に私的に話した事柄を小説という形式で公表されたことへの苦痛について、プライバシーの侵害が認められた。
 この事例は、単に作者が下手なのが悪いというだけのことだった。最初から「改訂版」を書けば事足りたし、最初から自身の力不足を認めて作品を撤回すれば事足りたところを、力不足を棚上げにする代わりに表現の自由を掲げて最高裁まで上告したために事例として残ることとなった。
 自身が表現したいことのコアを精確に特定し、現実を換骨奪胎して作中に新たな現実を再創造するだけの力がなく、現実の持つリアリティに作者が敗北しただけのことでしかない。もしくは「私小説という形式があるから」「他の小説家もそうしてるから」と「常識」に曖昧に乗っかって思考を放棄した甘さが露呈しただけのことでしかない。作者の力不足で他者を害したという話を、「表現の自由だから」で擁護しようというのは、アート無罪の考えそのものだった。


 東京高裁の控訴審判決で、控訴棄却の理由として以下の箇所がある。

現実に題材を求めた場合も、これを小説的表現に昇華させる過程において、現実との切断を図り、他者に対する視点から名誉やプライバシーを損なわない表現の方法をとることができないはずはない。このような創作上の配慮をすることなく、小説の公表によって他人の尊厳を傷つけることになれば、その小説の公表は、芸術の名によっても容認されないのである。他者の実生活は、文学作品の形成のためであっても、犠牲に供されてはならないのである。

http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~suga/hanrei/11-2.html


 これはアート無罪に対する真っ当な否定である。種々の制約(それは他者への権利侵害の回避も含む)と自己の表現したいものとを両立させる努力を放棄しておきながら、「アートだから」「文学だから」で無条件に責任が阻却される根拠がない、と言っているに過ぎない。


 出版社側は

高裁判決は、「創作上の配慮」の必要性を説くが、これは、「司法裁判所という一つの公権力が文芸作品の表現それ自体や表現方法そのものの領域にあえて入り込んだ上」「新たに文芸作品の表現それ自体や表現方法そのものに規制を加えるものであり、小説表現の自由に対し明らかに萎縮効果を与える表現内容自体に対する規制である」

http://www.shinchosha.co.jp/shincho/200108/saiban.html
と、「公権力が表現の自由を侵害している」という言い方をしている。これが個人間の利害対立の場面でいきなり国家に対する制約を持ち出すという、権利感覚の歪みの表出そのものである。
 出版社は「公権力が表現の領域に踏み込んだ」だから「公権力が表現の自由を侵害している」と批難するが、論理が短絡している。この「だから」には「公権力が表現を云々すること自体が表現の自由への侵害である」という命題が前提されるが、表現の自由というコンセプトへの理解からすればまるで誤った認識だ。公権力が何を目的としてどのように表現を云々したかを問うことなしに、反射的に何もかも「表現の自由への侵害だ」と言い立てるのは思考の放棄でしかない。
 ここで裁判所は、現に権利が侵害されている・被害を受けている人からの仲裁・判断を求められている中で、個別具体的に「どのような表現がなされたのか」「どのように被害を受けたのか」を検討しただけでしかなく、単に「他人の権利を侵害しないことと両立するように努力はしなよ」と言っているだけでしかない。


 表現の自由は、市民に対する制約ではなく、国家に対する制約だという基本的な認識が欠けている。表現の自由は、ある個人の表現によって別の個人の権利が侵害されているという場面で、権利侵害を正当化するための都合のいい道具ではない。


表現の自由をめぐる事例2

 事例の二つ目が赤瀬川原平の千円札裁判でこれは、千円札モチーフの作品を発表したところ「通貨及証券模造取締法」違反で有罪判決を受けたというもの。'63年以降、赤瀬川は片面に千円札を一色で印刷した個展の案内状を作成したり、手書きの拡大図を作成するといった作品を制作していた。
 被害者がなく、被害が生じる可能性もないことへ、国家権力が制約を加えるのは表現の自由の侵害だと訴えた事案となった。「国家が不必要に市民を制約するな」という主張であって、これは「石に泳ぐ魚」裁判の事例とは異なり表現の自由の正当な使い方だった。


 ルールがおかしいという申し立てだから、まずはルールの目的がはっきりさせられなければならない。
 前提として法の中に、ニセ札づくりには「偽造」と「模造」という二つの捉え方が存在する。偽造は「使う目的で作ること」として刑法148条1項(通貨偽造罪)(以下「偽造罪」)で、模造は「(使うつもりがあるかどうかはともかく)紛らわしいものを作ること」として「通貨及び証券模造取締法」の第1条(以下「模造取締法」)で禁止されている。千円札裁判では後者の模造が問題とされた。
 「模造」に該当するものはかなり幅広い。赤瀬川の千円札作品のほかにも、百円紙幣に似た見た目(ただし裏面は全面広告で、紙幣側にも「サービス」と赤字で入っている)のサービス券が「模造取締法」によって有罪判決を受けた事例もある。こうした事例から類推すると、現在もジョークグッズとして販売されている百万円札のようなものでさえ「模造取締法」違反となる。明らかに誰もがパロディとして認知できるようなものでさえ禁止される。


 千円札裁判の高裁判決の中で、「模造取締法」の目的や位置付けが以下のように述べられている。

本件の保護しようとする法益は、刑法上の通貨偽造罪におけるそれと同じく、通貨等の真正に対する社会の信頼、ひいてはそれから生ずる取引の安全を守ることにあると解すべきであるが、特に通貨の模造行為は、未だ刑法の通貨偽造罪を構成する程度にまでは達していないものであつても、当該模造にかかる通貨が、その行使の場所、時、態様或は相手方等、その用い方如何によつては、なお通常人をして真正の通貨と誤認させるおそれがあり、欺罔の手段としても用いられる危険性を帯有する程度に達している場合においては、本法第一条により刑罰をもつてその模造行為を禁止しようとしているのである。

http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail3?id=20883


 「用い方如何によっては……誤認させる」というのは、パロディ品であっても例えば薄暗いところで上手につかませればニセ札と騙して使えるかもしれない。作った当人はニセ札として流通させる気は全くなかったものでも、それがニセ札として使われる可能性があれば誰かが被害を受けるから禁止する必要がある、という。千円札裁判でも百円札サービス券裁判でも、「実際の紙幣と同一の寸法」という点が判決の中で触れられているのを見ても、こうしたケースを想定しているのではないかと想像している。(明確に想定しているケースが述べられているわけではないが。)
 そう解釈すれば「偽造罪」と「模造取締法」とが同じ目的を持ちながら別個に存在し、かつ「紛らわしいものを作ること(模造)」だけで処罰される理由もそれなりに納得がいく。


 こうしてルールの目的の正当性がはっきりしたとしても、ルールの手段が正当なのか、またルールの適用が正当なのか、という点がクリアされなければならない。
 実際、この裁判での弁護側の主張は以下の3点だった。

  1. 「模造取締法」自体が憲法第21条(表現の自由)に違反する。少なくとも赤瀬川作品に適用するのは表現の自由に違反する
  2. 「模造取締法」は規制の範囲が広すぎる、「紛らわしいもの」の定義があいまい過ぎて憲法第31条(適正手続きの保障)に違反する
  3. 赤瀬川作品は「模造取締法」の構成要件に該当するかもしれないが、罰せられるほど悪いことではないし(可罰的違法性の阻却)、有害である以上に有益だから(実質的違法性の阻却)、罰せられるのはおかしい

 1つ目の前半がルールの目的の正当性、2つ目がルールの手段の正当性、1つ目の後半と3つ目がルールの適用の正当性に関する異議申し立てになっている。高裁判決では、目的の正当性(公共の福祉を守る法律である)のみによって、残りの手段や適用を曖昧に正当化している。「紛らわしいもの」の定義・範囲に関しては明確な回答がなく、公共の福祉と表現の自由のバランスに関しては「法律の構成要件だけ満たせば有罪だから」と議論を避けている。ほとんど回答になっていないという意味で不当な判決だとも思われるものの、結果的に赤瀬川側の敗訴となった。


 国家が市民に不自由=刑罰を加えることが正当化されるのは、それが具体的に他の市民への権利侵害を解消しようとする場合に限られる。(そうでなければ国家が市民を一方的に制約することとなり、誰も得をしない上に誰かが損をするだけのルールとなってしまう。)どういう権利侵害を解消するための法律なのか(目的)、どういう方法で権利侵害を解消しようとする法律なのか(手段)、その法律で「このケース」を裁くのは適当なのかという点がクリアされなければならない。表現の自由もこうした文脈の中で語られる存在である。
 その意味で千円札裁判は表現の自由に関して正しく異議申し立てをしていた。同じ表現の自由をめぐる事案である「石に泳ぐ魚」裁判との違いが以下のような点にある。

  • 国家が表現への規制を一般的にかけているのか
  • 国家が具体的な被害者(権利を侵害されている者)の救済のために、ある市民に制約を課しているのか

 こうした点を抜きにして表現の自由を云々することはできない。


 なおこの千円札裁判では芸術家を何人も呼んで芸術論が展開されたりした。「芸術とは何か」がここで語られたのは、「芸術だから許される」というより「なぜこの私がそうせざるを得なかったのか」を語ることである。また現代芸術の作品をいくつも持ち込んで法廷を美術館のように変えたりした。現実的な制約(起訴されてしまったこと)を逆手に取って現実を転倒させたりずらしたりせずにいられないという点で、ひたすらアーティストとしての態度を貫徹している。


ブラックボックス展」と表現の自由

 こうしたことを改めて考えていたのは、なかのひとよブラックボックス展」にまつわる騒動の中で表現の自由という言葉をちらほら見かけたからだった。予告なしに真っ暗な部屋に人が入るだけの作品で、女性客が男性に胸を揉まれる・キスをされるなどの性的暴行を受けるといった問題が起きた。擁護側は「アートが規制されるのはいけない」という言い方(アート無罪)の中で、否定側は「表現の自由の価値が毀損される」という言い方の中で、表現の自由との兼ね合いが挙げられた。しかしこの件で表現の自由が云々される余地はない。
 問題が起こらないように予防措置を取れば良かっただけのことでしかない。頭が悪く事前に予見できなければ即座に中止すれば済むことだった。そうした表現と制約を両立する作業を放棄していただけのことでしかない。なかのひとよのその他の言動からすれば知能が低いせいとは思われないから、自己顕示欲の満足だけを目的にした行為だったためにそうした作業をするインセンティブが働いていなかっただけのことだ。表現をそもそも目的としていないという点で、「アーティスト」の名に到底値しない。


 他者の権利を侵害しながら平気な顔でいる「アート」について、「表現の自由の価値を人々が信じなくなるからだめだ」という言い方で否定するのは短絡し過ぎている。そうした「アート」が蔓延ることで人々がアート一般を規制した方が良いと考え、結果的に国家による一律の制限に繋がることで表現の自由の価値が毀損される、ということかもしれない。しかしそうした事態で問われるのはまず、表現の自由のコンセプトに対する人々の理解であり、人々の権利感覚の歪みである。
 表現の自由はこうしたにせアートを擁護するために存在しているわけではなく、またこうしたにせアートによって価値が毀損されるような存在でもない。


 そうしたわけで、アートの名を借りた自己顕示欲の発露に対して表現の自由が云々されるのはお門違いだ。むしろ「誰も実害を被っていない中で国家が市民の行動を縛るな」という表現の自由愚行権のコンセプトからすれば、静岡駅前で「暑かったから」と下着姿になった女性が「公然猥褻罪」(刑法174条)の疑いで現行犯逮捕されたこの前の事例の方がよほど該当するし、不当な侵害ということになる。