やしお

ふつうの会社員の日記です。

中東の大雑把なまとめ

 ニュースや本で中東地域の話が出てきても今までよく分からなくて、一度自分なりに整理しておきたいと思った。特に第二次大戦以降に中東でどういう戦争・紛争が起こっていて、どこが対立・支援したのかという流れを理解したい。


 


三つ巴

 中東はイスラム教徒の国々、と言っても、実際には言語・民族・文化の違う地域に分かれている。すごく大雑把にいうと、

という三つ巴になっている。


 というのが大雑把な歴史になっている。詳しい人には怒られそうだけど、まずは大きな流れを把握して理解の取っ掛かりにする。


国家体制の違い

 国家元首が大統領(共和制)だったり、国王(王制・首長制)だったり、イスラム教の指導者(イスラム共和制)だったり地域の中でバラバラなのがまずよく分からなかった。
 これは、

  • 第一次大戦後にイギリス・フランスが地域を分割して直接統治しようとしたが、反発が強かったので親英仏の王家を据えて間接的に統治しようとした
  • その反発で1950~60年代に軍のクーデター等で共和制になる国が出てきた(アラブ民族主義)。(西側諸国と対立=ソ連に接近、ということで社会主義国になった。アラブ民族主義と左派革命運動はリンクしている。)
  • 一方で極端な西欧化の反動でイスラム法によって直接統治する国も出てきた(イスラム革命運動)
  • さらに2010年代に入って市民による民主化運動が発生して体制が崩れた国も出た(アラブの春

という第一次大戦以降の大きなストーリーがあるため。


という4種類に分かれる。(「アラブの春」以降は体制が安定していないため、一旦それ以前の状況で見ている。)
 地図で色分けすると↓のようになる。


王制・首長制の国

サウジアラビア第一次大戦後、イギリスの支援でアラビア半島の西岸に「ヒジャーズ王国」としてハーシム家を王家に据えて建国されたが、サウード家に攻め取られて消滅、サウード家が王家になってサウジアラビアとして統合して今に至る。


【ヨルダン】第一次大戦オスマン帝国を解体、ハーシム家を王家に据えイギリスの支配下に、現在も王国のまま。


クウェート第一次大戦後、イギリスの保護領に。18世紀からザバーハ家が首長で、1961年のイギリスからの独立以降もそのまま。


アラブ首長国連邦UAE)】19世紀に各首長国がイギリスの保護国に。1971年にアブダビ、ドバイ、シャールジャアジュマーンウンム・アル=カイワインフジャイラの各首長国で連邦に。その翌年ラアス・アル=ハイマが加入し現在の7首長国による連邦体制になる。


バーレーン】19世紀にイギリスの保護国に。18世紀からハリーファ家が首長で、1971年の独立以降もそのまま。


カタール第一次大戦後、イギリスの保護国に。サーニー家を首長に据えた。1971年の独立後もそのまま。


※1968年にイギリスがスエズ以東撤退を決めたことで旧保護国が独立するが、首長国が単独で独立するのは難しいためアラブ首長国連邦としてまとまって独立することになったが、バーレーンカタールはその時点で石油生産が好調で単独独立が可能だったためこの2首長国が抜けて、UAEは7首長国の連邦制になっている。


オマーン】19世紀にイギリスの保護国になる。18世紀からブーサイード家が王家で1971年のイギリスからの独立以降もそのまま。

アラブ民族主義で共和制になった国

イラク第一次大戦後、オスマン帝国を解体、ハーシム家を王家に据えイギリスの支配下に(ここまではヨルダンと同じ)。1958年の軍のクーデターで共和制になる(フセイン大統領)。2003年にイラク戦争フセイン体制が崩壊。


【シリア】第一次大戦後にハーシム家の王国に。(それはイラク・ヨルダンと同じだがシリアはイギリスではなくフランスの統治領。)第二次大戦後の1946年にシリア共和国としてフランスから独立するが軍によるクーデターが何度も発生、1970年のクーデターにより空軍軍人のアサドが大統領になり、現在はその息子が大統領。


【イエメン】19世紀に南イエメンをイギリスが、北イエメンオスマン帝国が支配した。北イエメン第一次大戦後、オスマン帝国解体に伴いハーシム家を王家に据えてイエメン王国になるが、1962年の軍のクーデターにより共和制になる。南イエメンは1967年にイギリスから独立、社会主義国としてソ連の衛星国になる。冷戦終結で1990年に北が南を吸収する形で統合、北イエメンの元軍人のサーレハ大統領が統合後もそのまま大統領になる)。「アラブの春」でサーレハ体制が終焉。


【エジプト】第一次大戦勃発時にオスマン帝国から分離されイギリスの保護国となる(スエズ運河があったので)。大戦後、反英・独立運動が激化したため国王を立てて独立させる。1953年に軍のクーデターで共和制になる(ナセル大統領)。2011年の「アラブの春」で体制が崩壊。


リビア】16世紀以降オスマン帝国支配下にあったが第一次大戦前にイタリアの植民地になる。第二次大戦でイタリアが敗戦、英仏の共同統治領に。1951年にサヌーシー家を王家に据えた王国となり親米英路線となるが、1969年に軍のクーデターで共和制になる(カダフィ大佐)。2011年の「アラブの春」で体制が崩壊しカダフィは死亡。
リビアは「直接民主制」を標榜して公式には政府も国家元首も存在しないことになっているため大統領ではなく「カダフィ大佐」という呼称が用いられていた。


チュニジア】18世紀からフサイン家が支配、19世紀にフランスの保護領となり、第二次大戦後に民族運動が起き直接統治が困難になったためフサイン家を王家に据えチュニジア王国として独立させるが、1年後の1956年に共和制に移行、大統領が社会主義政策を取る。一党独裁が続いたが「アラブの春」で2011年に体制崩壊

イスラム法学者が直接統治する国

【イラン】第一次大戦後、イギリスがイランを保護国化しようとしたが反英・独立運動が激化、軍のクーデターが発生しイギリス軍が撤退、軍人がそのまま皇帝(シャー)になった(パフラヴィー朝)。第二次大戦後アメリカがシャーを通してイランの急激な近代化・西欧化を進めさせた(白色革命)が、その反発で王朝が倒されイスラム法学者ホメイニ師)が直接統治する「イスラム共和制」が誕生(イラン・イスラム革命)。

その他

【トルコ】第一次大戦オスマン帝国が敗れたことで領土が分割され、ギリシャにいたイスラム教徒とトルコにいたキリスト教徒を交換し、イスラム圏の国家としてトルコ共和国になった(初代大統領はアタテュルク)。


イスラエル第一次大戦後、パレスチナはイギリスの委任統治領となり、ユダヤ教徒の入植が進みコミュニティが形成されるがアラブ人との反発が発生。第二次大戦後、イギリスはユダヤ人の移住を制限したが反英運動が激化したため委任統治を諦め、ユダヤ人がイスラエルを建国。


レバノン第一次大戦後、シリアから分離、フランスの委任統治領に。地域にキリスト教徒が多くフランスとの関係も良好だった。第二次大戦中に独立し共和制に。1975~90年に内戦が発生した後シリアの実質的な支配下に置かれ、2005年にシリアは撤退したが、国内に親シリア派と反シリア派を抱えている。


第一次大戦後のイギリスによる中東地域の分割

 イギリスの「三枚舌外交」と呼ばれる。第一次大戦中、オスマン帝国を倒すためにアラブ、フランス、ユダヤそれぞれに配慮した結果イギリスは3つの約束をする。

 この3つを同時に実現させようとしたことで、今の中東地域の大枠が決まっている。


 その中で特に割を食ったのが

となっている。


クルド問題

 クルド人第一次大戦時にイギリスから独立の約束を取り付けていたが、イラク北部で油田が発見されクルド人が独立して石油資源を脅かすことにならないようにとイギリスが考えたことで独立が反故にされ、クルド民族の居住地がトルコ、イラク北部、イラン北西部、シリア北東部の4か国に分断された結果、どの国でも少数民族として冷遇されることになった。各国それぞれで独立しないように力を削がれたり叩かれたりしている。独自の国家を持たない民族集団としては世界最大とされ、人口は3千万人程度いる。



 クルド民族は欧米や中東各国から自治権や領土をエサに利用されたり、その役目が終わったら逆に力をそぐために叩かれたりを繰り返してきた歴史がある。
 2003年のイラク戦争後、イラクは地方政府を含んだ連邦制になった。その一つがクルド人クルディスタン。戦後、イラクの他の地域が治安の悪化・経済の低迷に苦しんだが、クルディスタン地方政府は急速な経済発展と中央政府からの自立を進めていった。またISがシリアとイラクに拡大してきた時も、クルド勢力は対IS作戦に貢献してきた。
 2017年9月にクルディスタン独立の住民投票を実施したところ、93%が独立賛成票になって周辺との緊張を高めた。IS掃討にも協力したし欧米や国際社会も賛成してくれると考えて住民投票に踏み切ったが、欧米からも国連からも反対されてしまっている。


パレスチナ問題

 第二次大戦後、アラブの真ん中パレスチナイスラエルが建国され、パレスチナ人が難民になる。周辺のアラブ諸国は当然反発するしパレスチナ人のために立ち上がることは「アラブの大義」とされたが、現実には自国の行動を正当化する名目に利用されてきた面もあった。また最近はアラブ諸国イスラエルと協力する方向に舵を切ってしまいパレスチナ問題がクローズアップされることが少なくなってきている。
 当初はイスラエルvsアラブ諸国(4度の中東戦争)だったのがエジプトとイスラエルの和平合意ができて国vs国の直接対決がなくなった。その後はPLOパレスチナ解放機構)へ、さらにハマスヒズボラといった非政府組織へ相手が移ってきている。イスラエルの戦闘相手が国家→準国家→非国家へと変化していく。

イスラエル vs アラブ国家(40~70年代)

 第二次大戦中、アラブ諸国が枢軸国側(ドイツ側)に行かないようイギリスの呼びかけで「アラブ連盟」が結成される。(当初の参加国はエジプト、シリア、イラク、ヨルダン、レバノンサウジアラビア、イエメンの7か国。)第二次大戦後、アラブ連盟パレスチナ問題に対処する主体となる。



第一次中東戦争】1948年:イスラエルが独立宣言したため即日アラブ諸国が宣戦布告して戦争に突入。イスラエル優位で1949年に国連の停戦勧告を受諾。


第二次中東戦争スエズ戦争)】1956年:エジプトのスエズ運河国有化に対抗して英仏がイスラエルをけしかけてエジプトと戦争をさせる。途中で英仏自身も軍事介入したが、エジプトを支援していたソ連どころかアメリカを含む国際社会からも非難を浴び、国連の停戦決議を受諾、エジプトのスエズ運河国有化が認められる。(その後イギリスは1968年に中東から撤退する。)


第三次中東戦争(六日戦争)】1967年:イスラエルがエジプト、シリア、イラク、ヨルダンを突然空爆、制空権を奪って地上戦でも勝利し、わずか6日で4ヶ国とも停戦。イスラエルは旧パレスチナ地区の全てを支配下に置き大量のパレスチナ難民が発生


第四次中東戦争】1973年:エジプト・シリアがイスラエルを先制攻撃して緒戦で勝利するが、イスラエルがその後盛り返す。両者が痛み分けとなることで1978年のアメリカが仲介したエジプト・イスラエルの和平合意(キャンプ・デービッド合意)に至る。


 4度の中東戦争の全てに参加して中心的な役割を果たしてきたエジプトがイスラエルと和平合意を結んだことで、エジプトはアラブ連盟を追放され、連盟の本部もエジプトからチュニジアに移される。(その後エジプトはアラブ諸国と関係改善を進めて1990年にアラブ連盟に復帰し本部もエジプトに戻った。)
 これ以降アラブ諸国イスラエルの直接戦争は起こっていない。

イスラエル vs PLO(80~90年代)

 アラブ連盟によって1964年にPLOが設立される。パレスチナ難民の対イスラエル闘争の組織として設立され、1969年にエジプトのナセル大統領から「パレスチナ人の代表」として指名されたアラファトが代表になる。


【黒い九月事件】1970年:パレスチナ難民を最も多く抱えるヨルダンがPLOを武力排除した事件。第三次中東戦争後、ヨルダンが国内にいたPLOを支援してイスラエルを攻撃したが失敗し、イスラエルとの協調路線へ舵を切ろうとしたところ、PLOとヨルダン政府の関係が悪化、内戦へ発展する。さらにPLOを支援していたシリアとヨルダンの国家間の戦争にも発展しそうになり、エジプトの仲介で終結。ヨルダンはPLOを攻撃したことでアラブ連盟を追放され、PLOの本部もヨルダンからレバノンへ移った。「パレスチナ人を助けること」が「アラブの大義」とされていたのに、アラブ人同士での殺し合いに発展してしまった。


湾岸戦争】1990年:(湾岸戦争そのものについては後述。)クウェートへの侵攻で国際的に非難を浴びたイラクが「イラクによるクウェートの占領を非難するのに、イスラエルによるパレスチナの占領を非難しないのはダブルスタンダードだ、イスラエルパレスチナから出ていくなら、イラククウェートから出ていく」という論理を展開した。PLOがこれに乗ってイラク側に回ったところ、PLOは湾岸諸国からの援助を絶たれることとなり孤立化した。


インティファーダ】1987年末~:非武装の住民によるデモや抗議。イスラエルの下層労働をパレスチナ人が担っていたが、経済的な困窮や移動の不自由を長年強いられてきたパレスチナの若者が抗議する。


オスロ合意】1993年:アメリカが仲介したイスラエルPLOの合意。イスラエルによるインティファーダ鎮圧、非武装の住民への武力制圧に国際的な非難が集まったこと、鎮圧コストが嵩んだこと、下層労働の担い手がいなくなったことでイスラエル側が折れて交渉のテーブルについた。5年間のパレスチナ自治区が認められる。しかしその後合意事項だったイスラエル軍の撤退は進まず、ユダヤ人の入植が続いた。2000年にパレスチナ自治区をめぐる最終地位交渉があったが決裂し、緊張と衝突が再燃して第二次インティファーダが起きる。


 オスロ合意によって1996年にパレスチナ自治政府が設置され、選挙の結果PLOの主流派ファタハ自治評議会(議会に相当)、PLOアラファトが評議会議長(大統領に相当)となった。2004年のアラファト死去後はPLOアッバースが議長。

イスラエル vs ハマスヒズボラ(90年代~)

 パレスチナ自治区は「ヨルダン川西岸地区」と「ガザ地区」に分かれていて現状、西岸地区はPLOファタハ)が、ガザ地区ハマスが支配している。



 ハマスは1987年のインティファーダの時に、PLOの影響を受けずに民衆がイスラエルに対抗できるように設立された。(もともとはエジプトの「ムスリム同胞団」のパレスチナ支部だった。)徹底的な反イスラエル姿勢と福祉政策で民衆の支持を得て、2006年のパレスチナの選挙で第一党になった。
 一方でPLOファタハ)は自治政府に入る資金を利用して西岸地区を中心に経済発展を推進してきたが、一方で格差や腐敗も拡大していた。PLOは「イスラエルと妥協して得た金で潤っている」というイメージを持たれたこともあってハマスに選挙で敗れることになった。
 ハマスが選挙で勝利すると、ハマスファタハの武力衝突に発展、ファタハは大統領府のある西岸、ハマスガザ地区を支配する分断状態に陥った。また西側諸国がハマスを「テロ組織」に指定していたこともあって欧米からのパレスチナ支援が停止した。
 よく「イスラエルガザ地区空爆している」というニュースを見かけたけれど、これはハマスガザ地区にいるため。空爆は08年末~09年、14年に実施された。またガザ地区への厳しい封鎖も実施されて干上がっている。


 一方でヒズボラレバノンにいる組織。欧米は(日本も)「テロ組織」に指定している。
 レバノン第一次大戦後にシリアから分離されてできた国で、もともとキリスト教徒が多かった地域だったが、分離する際にその地域を超えて元来シリアだった領域までレバノンに組込んだことで、国の中に「我々はもともとシリアだ」と思う人々と「いやレバノンだ」と思う人々を作ることになった。(国境線を引いたのはフランス。委任統治領だったレバノン独立運動を抑えるためにそうした。)
 そうした対立に加えてパレスチナ難民の流入で内戦に発展(1975~90年)。内戦のさなかにイスラエルが侵攻したことに対抗して1982年にヒズボラシーア派イスラム主義組織)が結成される。ヒズボラは議会選挙にも参加して議席を毎回獲得している。ヒズボラはシリアとイランの支援を受けているので、アラブ諸国サウジアラビア、ヨルダン、エジプトなど)もヒズボラを非難している。
 2006年にヒズボライスラエルの緊張が高まったことで、イスラエルによるレバノン侵攻が起きた。


 2006年以降にイスラエルガザ地区レバノンを攻撃しているのは、そこにハマスヒズボラがいるため。
 ハマスヒズボラも、欧米やイスラエルからは「テロ組織」と呼ばれるが、現地の人達から見れば、行政もなく、教育・医療・福祉を他に誰も提供してくれない中でそれを支援してくれる組織でもある。それで地元住民からは支持されるし選挙で議席を獲得したりもしている。単純に「テロ組織」として切って捨てるのはあまりに単純化した認識ということになる。


 もともとその地域にいた住民を追い出して、宗教に基づいて一から国家を建設する、という意味ではイスラエルはISと同じとも言える。イスラエルは肯定するのにISは否定する、というのはある意味でダブルスタンダードになっているし、そうした認識はアラブの人達にはあるのだろうと思う。


イラン革命湾岸戦争(1979~91年)

 イラン・イスラム革命→イラン・イラク戦争イラククウェート侵攻・湾岸戦争、という流れがある。
 アメリカの支援でイランが急速に西欧化を進めていたが、その反動でイスラム革命が起きてイランが厳格なイスラム主義国家になる(これ以降アメリカとイランは断交)。イスラム革命が他の国(特にサウジアラビア)にも広がらないようサウジアラビアとイランの間に位置するイラクアラブ諸国と欧米の支援を受けつつイランと戦争する。戦争で疲弊したイラクが石油利権を求めて隣国のクウェートに侵攻したら今度はアラブ諸国・欧米からの反発を受けて湾岸戦争に突入した。
 アフガン戦争後、イラク戦争前の2002年にブッシュ大統領北朝鮮とイランとイラクをまとめて「悪の枢軸」と呼んだのはこうした経緯でアメリカはイラン・イラクと対立していたため。

イラン・イスラム革命(1979年)

 イランはソ連と国境を接して南側に位置していたので、ソ連の拡大を阻むためアメリカが援助してイランの脱イスラム・世俗化・欧米化を進めてきた。(ソ連以外にも中東地域に社会主義政策を取る国が多数存在した。)



 イランでは国王パフラヴィー2世により、農地改革・工業化・教育向上・女性参政権・女性のヒジャブ着用禁止や一夫一妻制などの西欧化が急速に進められた(白色革命:1963年)。この時イスラム教法学者のホメイニ師が国王を批判して国外追放となりフランスに亡命している。国王は反対派やイスラム教勢力を弾圧したため反発を招き、1979年に国王が退去、ホメイニ師が帰国し、イスラム法学者が統治する国家体制になった(イスラム革命)。
 その際イランのアメリカ大使館が占拠され人質を取られる事件が起こったためイランとアメリカは今も断交している。ちなみにCIAによるこの人質奪還作戦が、2012年ベン・アフレック監督主演の映画『アルゴ』で描かれている。



映画『アルゴ』予告編1【HD】 2012年10月26日公開


 欧米に反発してクーデターや革命が起こるとそのままソ連側につく(ソ連の支援を受けて革命を成功させる)パターンが多く、実際アラブ民族主義で50~60年代に王政から転換したアラブの国々は社会主義政策を取っているが、イランのイスラム革命は米ソどちらの勢力にも加わらずに成功した例で珍しい。

イラン・イラク戦争(1980~88年)

 革命後に混乱していたイランにイラクが侵攻したことでイラン・イラク戦争が勃発。イランのイスラム革命の影響を自国に及ぼしたくないアラブ諸国だけでなく、欧米・ソ連・中国もイラクを支援した。この時アラブ諸国のうち、サウジアラビアクウェートカタールバーレーンUAEオマーンの6カ国が1981年に湾岸協力会議GCC)を発足させてイラク支持に回っている。
 一方でエジプトを除くアラブ諸国と関係改善が進んでいなかったイスラエルや、アラブ諸国の中で反イラクだったシリア、反欧米だったリビア、イラン同様国際的に孤立していた北朝鮮がイランを支援した。(北朝鮮とイランはその後も核開発を始め軍事協力関係にある。)



 1988年に国連の調停で停戦、同年にイランのホメイニ師が死去してハメネイ師が次の最高指導者になり、翌年イランとイラクは国交を回復。
 ちなみに87年にイランが米軍の護衛するクウェートの石油タンカーをミサイルで攻撃、米軍が報復でイランの石油プラットフォームを攻撃して原油不安が発生したことが「ブラックマンデー」(株価大暴落)の原因になっている。

イラククウェート侵攻・湾岸戦争(1990~91年)

 イラン・イラク戦争イラクは膨大な戦時債務を抱え、かつ原油価格が安値で推移していたためイラクは困窮した。隣国のクウェートとはもともと油田の領有権の問題を抱えていたこと、クウェートOPEC石油輸出国機構)の取り決めを無視して大量採掘をして原油価格の下落を招いていたこともあり、イラククウェートを「油田を盗掘している」と非難し、一方のクウェートはイランに100億ドルの無償援助金の返還を求めたことで、両国間で摩擦が起こった。1990年8月にイラククウェートに侵攻し同日中にクウェート全土を占領、クウェートの首長がサウジアラビアに亡命する。
 クウェートを助けるためにアラブ諸国アメリカ・英仏などが加わって多国籍軍が編成され、湾岸戦争が始まった(イラン・イラク戦争では反米側だったシリアも多国籍軍に参加している)。



 1991年2月にクウェートが解放され、イラクが停戦に合意して終結


アフガン戦争(2001年)

 2001年のアメリ同時多発テロ(9.11)は、事件発生の数時間後にはその首謀者がビン・ラディン、組織はアルカイダと特定され、かくまっていたアフガニスタンタリバン政権)が国連の引き渡し要求を拒否したためNATOアフガニスタン空爆、1か月後には首都カブールが陥落してタリバン政権が終わった。(ただしタリバン自体は消滅しておらず、アフガニスタンの南部を支配している。)ビン・ラディンは10年後、2011年に隣国パキスタンで潜伏していたところを米軍に殺害された。


 もともとビン・ラディンの反米活動は湾岸戦争がきっかけになっていて、またアルカイダアメリカの関与で生み出されている。ビン・ラディン家はサウジアラビアの大財閥でウサマ・ビン・ラディンはその六男。父親が一代で築いた財閥で、サウジアラビアの王家、サウド家との結び付きも強い。


 1979年にソ連のアフガン侵攻がアルカイダ創立のきっかけになっている。前年に共産主義を掲げる政党がアフガニスタンの政権を獲得したが、内紛などで不安定だったためソ連に支援を求めたことで、ソ連アフガニスタンに軍事侵攻した。この同じ「1979年」にイランでイスラム革命が発生し、それまで親米だったイランが一気に反米化しアメリカと断交していたので、アフガニスタンの隣国であるイランを頼ることはできず、かと言って直接米軍を動かせば米ソの直接戦争になるためそれもできない状況に陥っていた。そこでアメリカとサウジアラビアパキスタンが協力してアフガニスタン内部に反ソ勢力としてムジャヒディン(イスラム義勇兵)を育成することにした(サイクロン作戦)。
 これにビン・ラディンは参加していた。(ビン・ラディンの死後にアルカイダを引き継いだザワヒリも参加している。)ビン・ラディンは実家が財閥で個人資産も豊富だったので対ソ戦の資金源になっていた。
 1989年にソ連がアフガンから撤退すると反共ゲリラの役割が終わり、新たにアルカイダとして組織された。ビン・ラディンはアラブの英雄としてサウジアラビアに帰国。


 1991年に湾岸戦争が勃発。イラクの隣国だったサウジアラビアイラクの侵攻を恐れて米軍の駐留を認めた。元来イスラム教と王政・首長制は相容れないが、「サウド家イスラムの聖地(メッカとメディナ)を守護する」という名目でサウジアラビアは成立しているため、異教徒の軍を駐留させた事態にイスラム世界から大きな反発が生じた。
 そうした文脈の中で、ビン・ラディンは1994年に反政府活動を初めたことでサウジアラビアを国外追放され、実家からも勘当される。その後、スーダンに行くが、そこも追い出されて1996年にアフガニスタンに戻ってくる。アメリカ全体に対する宣戦布告をしてサウジアラビアの米軍基地を爆破し、1998年にはケニアタンザニアの米国大使館を爆破した。そして2001年にアメリ同時多発テロを起こす。


イラク戦争(2003年)

 1991年の湾岸戦争イラクは敗戦し、その国連の停戦決議の中で、化学生物兵器弾道ミサイルの廃棄、核開発の禁止、査察の受入れが条件となっていた。1998年頃まで特にそれで問題なかったが、90年代末から査察の受入れを拒否するなど非協力的になっていった。イラクが挑発し始めたというより、アメリカがイラクに強硬姿勢になっていったことでイラクの反発を招いていた。(アメリカ人主導で査察が事前通告から抜き打ち方式に変更されたりしていた。)
 それから、イラク北部のクルド人、南部のシーア派ムスリムを保護するという名目で、イラクの南部と北部に飛行禁止空域が設定され、反発したイラクが空域内に戦闘機を飛ばしたり地対空ミサイルを配備するなどしたため、1993年に制裁として米英仏軍がイラク空爆する事件もあった。


 90年代後半からアメリカ共和党内部でネオコン新保守主義)の影響力が増大していたが、特に2001年のアメリ同時多発テロ以降、「フセイン政権を倒して民主化しないとアメリカは安全でない」という考えに傾いていったことで、2003年のイラク戦争に至っている。2002年にブッシュ大統領が一般教書演説で「悪の枢軸」としてイラク・イラン・北朝鮮を挙げたり、イラクと敵対的だったイスラエルもそれに乗っかって「フセイン大統領は核開発を進めている」「フセイン大統領はビン・ラディンと同じくらい危険だ」という発言をした。
 2002年末に「武装解除の最後の機会」として安保理決議が採択され、イラクは反発しつつも4年ぶりに査察を受け入れたが、2003年に査察委員会が「大量破壊兵器が存在する証拠はないが矛盾・疑問点が多々ある」という報告を出し、それを理由にアメリカはイラクを攻撃する安保理決議を出そうとしたが米英(と日本)が各理事国への説得に失敗したため、米英だけで反対を押し切ってイラク空爆を実施、イラク戦争が始まった。


 イラク戦争自体は1ヶ月弱でフセイン体制を崩壊させることに成功したが、戦後処理が杜撰で形式的な「民主化」を早急に進めることだけに注力した。特に軍や治安部隊、バアス党の解体、旧体制関与者の公職追放を進めたため、新体制を担える人材がおらず体制構築がうまくいかなかった。その結果、イラク国内の治安が急激に悪化し、反米感情も高まって米軍人の被害が絶えず、耐えられなくなった米軍は2011年末に全面撤退することになった。
 アメリカのネオコンフセイン体制の除去・イラク民主化を強硬に進めた背景には、湾岸戦争で亡命していたイラク人政治家によるロビー活動の影響もあったという。彼らはフセイン政権後のイラク政治を担おうとしたが、イラク国内に政治的な支持基盤を持たなかったため、それを宗教的な支持で補完しようとした。人口で過半数を占めるシーア派を持ち上げて、従来政治支配層にあったスンニ派を追いやった結果、宗派対立が激化した。(ISが「打倒シーア派」を掲げて台頭してきた背景の一つになっている。)


 アフガニスタンイラクも戦争自体は短期間で終結したが戦後処理が上手くいかなかった。現地住民から見ると「アメリカに依存させるためにわざと戦後処理をしないのではないか?(第二次大戦後の日本やドイツはちゃんとやったくせに)」という反米感情が高まる基盤になっている。
 もともとアメリカの中東に対する安全保障政策は「水平線の彼方(over the horizon)」というもので「米軍は中東に直接展開せず遠方で待機」というスタンスだった。それは第一次大戦後にイギリス・フランスが中東を植民地支配しようとしたらナショナリズムを喚起させてしまい、その鎮圧や撤退によるコストで国力を失ったことを反面教師にしたものだった。しかしその戦略がアメリ同時多発テロ以降変化した結果が、アフガン戦争とイラク戦争であり、しかし戦後処理で痛い目を見たのでまた直接介入忌避の方向に振れている。


アラブの春(2010~11年)

 2010年末からチュニジアを皮切りに市民による民主化運動がアラブ世界に広がった。
 そのうち、チュニジアリビア、エジプトの北アフリカの3か国と、アラビア半島南端のイエメンでは「アラブの春」によって体制が転換された。これらはこの記事の最初で書いた通り「1950~70年代にアラブ民族主義で共和制になった国々」で長期独裁政権が続いていた。しかしチュニジア以外は民主化が定着せず特にイエメンは深刻な内戦に突入してしまった。
 サウジアラビア、ヨルダン、モロッコアルジェリアでは政府側が妥協案を出したことで終息、バーレーンでは市民が徹底的に鎮圧されて終息、シリアは内戦に突入した。


チュニジア

 ジャスミン革命と呼ばれている。2010年12月、チュニジアの地方都市の路上で出店を営んでいた青年が、警官に違法だと咎められたことを苦に焼身自殺した事件が市民の怒りを呼び、反政府デモが発生した。2011年1月にベンアリ大統領が亡命し23年間の独裁政権が終わる。
 軍事力、武力によらず長期独裁政権の転覆が可能だという事例が示されたことで、アラブ諸国に「アラブの春」が広がるきっかけとなった。
 その後、政治的な対立も発生したが、「アラブの春」で同様に民主化しながら軍事クーデターで軍政に戻ってしまったエジプトの事例に対する危機感もあって、国内4団体が連合した「国民対話カルテット」が結成されて政治・宗教対立を調停して何とか民主化を定着させた。(国民対話カルテットは2015年にノーベル平和賞を受賞している。)

リビア

 カダフィ大佐独裁政権が市民デモを弾圧して犠牲者が拡大したため、欧州が軍事介入した。通常、欧米の介入を徹底的に嫌うアラブ諸国も、この時は反体制支持に回っている。2011年8月に首都トリポリが陥落して42年間のカダフィ政権が崩壊した。外国の力を借りて政権を崩壊させると、新政権も外国頼みになって地場勢力をコントロールできずに混乱する(イラク戦争などと同様の)状況がリビアでも起きた。

エジプト

 2011年2月にムバラク大統領が辞任し、30年の独裁政権が終わる。
 デモ参加者の市民には次の体制に対する共通認識がなかった。第一次大戦後にエジプトで結成されたイスラム主義組織「ムスリム同胞団」は、70年代後半以降は政治活動より社会活動を進めて市民からの支持を得ていた。一方でもともと特権層だった国軍は完全な民主化改革ではなく、既得権益を残したいと考えていた。
 民主化改革を求める市民、イスラム主義政党のムスリム同胞団既得権益を守りたい国軍、という三者三様だった。ムスリム同胞団が選挙で第一党になり2012年5月にムルシー大統領が選出されるが、ムスリム同胞団の身内贔屓やイスラム化によって国軍や市民の反感を買って、2013年に軍のクーデターが発生、ムスリム同胞団は弾圧されムルシーは死刑判決を受けた。民主化したのに結局もとの軍政に戻ってしまった。

イエメン

 2011年にデモが活発化し、2012年2月に大統領選挙が実施されサレハ大統領の22年間の政権が終わる。なお女性活動家タワックル・カルマンが2011年のノーベル平和賞を受賞した(イエメン人として初のノーベル賞受賞者)。
 その後内戦が本格化し、2015年には隣国サウジアラビアが軍事介入している。サウジアラビアが暫定政権(ハーディ大統領)側を支援し、イランが反体制側を支援しているため、サウジアラビアとイランの代理戦争のようになっている。約300万人が国内で避難民となり、7割近くが食糧不足の状態となって国内が荒廃した。シリア内戦の場合は難民がヨーロッパに押し寄せたため世界的な関心が高まったが、イエメンの場合は地理的に国外への逃げ道がないため、国際社会の関心が低い。2017年12月にサレハ前大統領が武装勢力に襲撃されて死亡した。
 つい最近(2018/12/5)国連の仲介でスウェーデンに体制派と反体制派の幹部が集まって和平交渉が始まるというニュースがあった。

シリア

 アサド政権が市民を弾圧して内戦に突入。リビアと違って欧米の介入がどっちつかずになったため泥沼化していった。アサド政権による自国民の弾圧を欧米は非難したものの、イラク戦争に懲りて軍事介入に消極的なアメリカと、リビアの成功(実際はその後失敗しているが)で軍事介入の意義を見直す欧州とで温度差が生じていた。中東諸国のうち、イランがアサド政権を、サウジアラビア、トルコ、カタールが反体制派を支持した。
 体制側・反体制側の勝敗が付かず内戦が継続した結果、2016年までに47万人が死亡、国民の半数が家を追われてそのうち4割が国外に避難、大量の難民が欧州に押し寄せている。
 シリア内戦によって反体制組織が武器や資金や戦闘員を増やして勢力を拡大したことがISの要因になっている。IS叩きのためようやく欧米も軍事介入することになったが、アサド政権の非人道性を非難しながらアサド政権には軍事介入せず、反アサドのISは攻撃する、という矛盾した状態になってしまった。


IS(2014~17年)

 イラクの反体制派とアフガン戦争で追いやられたアルカイダが同盟を結んでできた「イラクアルカイダ(AQI)」、イラク戦争後に体制側から追い出された「バアス党」、シリア内戦で資金や武器を得て強大化した反体制派、この3つが結びついて「イスラム国(IS)」となった。

 ISが支配地域で金融機関や行政機関を運営していた点が従来のテロ集団と異なっていたが、もともとフセイン体制下でイラクの運営を担っていたバアス党がISを支援したことで、そうした組織運営能力を獲得していた。


 ISは「カリフ制の復活」「サイクス・ピコ体制の打破」などを理念としている。カリフ制はカリフ(ムハンマドの正式な後継者)によってイスラム社会を統治する体制で、オスマン帝国までは残存していたが、第一次大戦で敗れたことで1923年にカリフ制は廃止されている。サイクス・ピコ協定第一次大戦中の英仏露でのオスマン帝国を解体し新たな国境線を引く密約のこと。カリフ制の廃止もサイクス・ピコ協定も、「第一次大戦で西欧によってイスラム世界を破壊された」という屈辱から来ている。


 「イラクアルカイダ(AQI)」の指導者はザルカウィだったが、2006年に米軍の爆撃で死亡。(2004年に日本人の香田証生さんが拉致・殺害された事件もザルカウィのAQIによって起こされている。)AQIの残党がISになっていくが、その時指導者になったのがバグダディ。
 ザルカウィはヨルダン人のためイラク人から見れば「外国人」だったが、バグダディはイラク人なのでイラクやシリアで活動する上では浸透し易かった。またバグダディはイスラム大学(現在のイラク大学)で博士号を取得したイスラム法の専門家で、かつサイエドの称号(ムハンマドの直径の子孫を意味する)を持ちカリフになれる資格の一つを満たしている。テロ組織の指導者としてだけでなく、イスラム教の学識と権威も備えた指導者として出てきたのがザルカウィだった。
 かつてイラクは世俗的で反イスラム主義の方針を取っていたが、イラン・イラク戦争後に疲弊した際に宗教の力を利用することにしてイスラム大学を設立、さらに湾岸戦争アメリカに対峙するためイスラム推奨政策に舵を切っていた。そうした背景が、バグダディのような人物が登場させている。


 2017年10月にISが「首都」と称するラッカ(シリア北部の都市)をクルド人主体の民兵組織が奪還し、11月にはイラク国内からも一掃された。


サウジアラビアから見たアメリ

 基本的に第二次大戦後、アメリカとサウジアラビアはずっと協力関係にある。冷戦下でのアメリカの中東政策は

  • ソ連の勢力拡大阻止
  • 石油の安定供給

が2つの柱だった。
 最大の産油国であるサウジアラビアを守るために、ソ連と国境を接していたトルコ・パキスタン・イランをアメリカは全面支援してきた。



 またアラブ民族主義で50~70年代に王制・首長制から軍制に転じていた国々が社会主義化して、東側諸国の援助を受けていた。サウジアラビアの隣国イラクも1958年に王制が倒れて親ソに転換した国の一つだった。サウジアラビアを始め王制・首長制の国々にとって体制転換の影響が及ぶことは恐怖だった。イラクを牽制するために重要だったイランも1979年のイスラム革命でシャー(皇帝)体制が倒れて反米になってしまう。
 その後のイラン・イラク戦争ではイスラム革命輸出の防衛のため、サウジアラビアは湾岸諸国と共にイラクを支持したが、続く湾岸戦争ではアメリカと共に反イラクに回る。そうしてイランとイラク湾岸戦争後、国際的な封じ込めを受けるが、どちらも石油大国なので制裁破りをする国が現れるせいで効果は限定的だった。経済制裁に限界を感じたことも、アメリカがイラク戦争の開戦に踏み切る要因になっていた。
 イラク戦争後、イラクがイランと同じようなシーア派イスラム主義政権国家になってしまったので、イランのイスラム革命の輸出を頑張って阻止してきたのが水泡に帰した。サウジアラビア始め湾岸首長制国家はイランとイラクが組む事態への危機感を抱く。あたかも「アメリカがイラクを破壊してシーア派台頭の脅威を作り出した、イラン有利の状況を作り出した」と見えるのでアメリカに対する反感・不信感が出てくる。


 「アラブの春」も王制・首長制の国々にとっては体制の危機だった。しかしアメリカ(民主党オバマ政権)は「民主化を支持する」という姿勢を見せたからサウジアラビアとしては失望する。「アラブの春」によって親米のエジプトでムバラク政権が崩壊した時もアメリカはムバラクを見捨てたし、1979年のイラン革命の時もアメリカ(民主党カーター政権)はシャーを見捨てているから、「いざとなったらアメリカは助けてくれない」と考える。
 湾岸首長国の一つバーレーンで「アラブの春」による反政府デモが活発化した際に、湾岸協力会議GCC)は合同軍を派遣してデモ隊を鎮圧したが、アメリ国務長官のヒラリーに非難された。サウジアラビアからすればデモ隊の鎮圧=イランの影響力拡大阻止という位置付けなので、それを否定されると「アメリカは利害関係を理解していないのでは?」という疑いを抱く。
 シリア内戦ではイランがアサド政権を、サウジアラビア・トルコ・カタールが反体制側を支援して、欧米もアサド政権の非人道性を避難していてオバマ大統領も「化学兵器使用がレッドラインだ」と言っていたのに現実に化学兵器が使用されても結局軍事介入はしなかったので失望している。
 それからアメリカはイランとの関係を改善させている。イラン革命時のアメリカ大使館占領事件をきっかけにイランとアメリカは断交したままになっていて、2005~13年にイランの大統領だったアフマディネジャドは反米・反イスラエルの強硬派で核開発も進めていたこともあって2006年にはイランに対する経済制裁も発動されていた。しかし2013年に穏健派のロウハニ大統領が勝利したことで関係が改善、2016年には対イラン制裁を解除している。


 イラクの戦後処理、「アラブの春」でのエジプトやバーレーンへの態度、シリア内戦への不介入、イランとの関係改善といった連続でサウジアラビア(と周辺諸国)はアメリカに対する期待感を失っていく。
 アメリカに期待できない=自力で何とかする、という話になって、軍事費も増加させていき、アメリカがイランへの経済制裁を解いた同じ2016年にサウジアラビアはイランと断交、さらにアラブ諸国にも断交を呼びかけている。イラン・イラク戦争の時(1981年)に対イランで湾岸協力会議GCC)が発足したという話をしたが、このGCCのメンバーに加えて、トルコ、アラブ王制諸国、アフリカやアジアのイスラム諸国なども加えた34か国の軍事同盟が2015年に発足された。その共同声明の中で「サウジアラビアが主導する」と明言されている。(もちろんイラン・イラク・シリアは不参加。)
 サウジアラビア:イスラーム諸国による対テロ軍事同盟の発表 | 公益財団法人 中東調査会



 アメリカがオバマ政権からトランプ政権に変わってから、アメリカは反イラン・親サウジアラビアの姿勢に戻った。サウジアラビアの作ったイラン包囲網的な軍事同盟にアメリカも乗っかって、「イランは核開発協議の合意を履行していない」という理由でイランへの圧力も強め、解除されていた経済制裁も復活させている。
 この軍事同盟は、対イランであるのと同時に、レバノンヒズボラパレスチナハマスという反イスラエル組織を糾弾しているため、親イスラエル姿勢をむき出しにしているトランプ政権の意向にも叶っている。
 これらを主導したのが現在(2018年)33歳になるサウジアラビアムハンマド・ビン・サルマン皇太子(MbS)。

トルコ

 トルコにとっての脅威は、シリア・イラクのISでも、シリアのアサド政権でもなく、国内のクルド人勢力だった。国土の1/3、全人口の3割をクルド人が占めている。



 ISの勢力拡大を阻止しながら、かつ直接米軍を投入したくないアメリカは、クルド勢力を支援して実質的に地上部隊として働いてもらっていた。それでトルコは対ISには積極的でなかったし、2015年になって対ISにトルコがようやく協力し始めた時は、それとリンクして国内のクルド勢力の弾圧を始めた。その結果、クルド勢力による反政府活動が激化してトルコ国内の治安が一気に悪化した。
 シリアの反アサド勢力を空爆していたロシア軍機をトルコ軍が撃墜する事件が発生してから、トルコとロシアが緊張状態になったりしていたのに、その1年後の2016年末には逆にロシアの側についてアサド政権を支援する側に回っている。いつまで経っても直接シリアに手を下さないアメリカよりも、やる時にはやるロシアについたことで、アメリカ・サウジアラビアによる「反アサド」からは離れた。


 今年2018年に、サウジアラビアの反体制ジャーナリストのカショギ氏がトルコ国内のサウジアラビア領事館内で殺害されるという事件が発生した。サウジアラビア側が言い訳を出すと、それを否定する証拠を(領事館を盗聴していた)トルコ側が小出しにして、少しずつサルマン皇太子(MbS)を不利な状況に追い込んでいた一方で、アメリカはサウジアラビアMbSをはっきり非難するわけでもなく煮え切らない態度を続けていた。
 これまでの経緯を見れば、中東域内でMbS主導で覇権国家になろうとするサウジアラビアをトルコは牽制するし、親サウジアラビアに一気に偏っているアメリカ(トランプ政権)としてはMbSに決定的なダメージを与えたくない、という意図でこうしたことが起こっているのだと理解できる。

カタール

 カタールサウジアラビアなどと同様に湾岸の首長制国家だが、ここ2年、サウジアラビアらからハブられたため元々仲良くはなかったイランやトルコ(あと中国)に急接近している。
 2016年5月のアラブ・イスラム諸国サミットの後、カタールのハマド首長が「イランは地域大国」と発言したことをきっかけに、2017年6月に湾岸諸国とエジプトから断交されて国境も封鎖、経済制裁も受けたが、輸出入先をイランやトルコに振り分けることで多少の物価上昇だけで耐えている。サウジアラビアバーレーンUAE・エジプトの4か国がカタールに対して「関係改善の条件」としてイランとの関係縮小、トルコの軍事基地閉鎖、衛星テレビ局アルジャジーラの閉鎖、など13項目を突きつけたがカタールは拒否している。
 サウジアラビアカタールを屈服させて属国化させようと強権的な方針を取ったが、結果として域内に親イラン・親トルコの国を作ってしまうという完全な逆効果になってしまった。


 つい先日(2018/12/3)カタール石油輸出国機構OPEC)から脱退すると発表したニュースが流れた。カタール側はアラブ諸国との対立状況については言及せず、単に「石油から天然ガス資源に生産をシフトするため」とのみ発表したが、状況から見ればサウジアラビアのくびきから脱しようとする動きの一環ということになる。


参考文献

酒井啓子『9.11後の現代史』

 2018年に出版された本で、最近の情勢も交えながら主にアメリ同時多発テロ(9.11)以降の状況がまとめられている。もともとこの本を読んで(いっぺん自分で整理し直したいな)と思ったのだった。著者はネットメディア含め色々なところで記事を寄稿しているので、著者名で検索しても色々読める。

山内昌之イスラームと国際政治』

イスラームと国際政治―歴史から読む (岩波新書)

イスラームと国際政治―歴史から読む (岩波新書)

 1998年刊行。中東だけでなく、アジア・アフリカのイスラム国家や、アメリカのブラックムスリム(黒人のイスラム教徒)についても解説されている。もともと雑誌連載だったものをまとめていて、全体で大きな解説になっているというより、各トピックに関して歴史的な経緯や現状がコンパクトに解説される。20年前の時点ではどう見えていたのかが知られて面白い。

手嶋龍一『外交敗戦』

外交敗戦―130億ドルは砂に消えた (新潮文庫)

外交敗戦―130億ドルは砂に消えた (新潮文庫)

 湾岸戦争を描いた本だけどほとんどエンタメ小説のような作りで読んでて興奮する。中東・欧米・アジアの膨大な登場人物が出てきて、彼らがどう情報を収集して情勢を判断して、どういうアクションをしていったか、そうしたアクションが積み重なっていった結果として事態がどう推移したのかが詳細に描かれていく。各国の首脳というより、実務レベルで動いていた人達がたくさん出てくる。
 日本は1兆8千億円の戦費を負担して赤字国債の発行や増税で賄ってきたのに、なぜか感謝されないどころか非難さえされた。そのメカニズムも描かれる。

井筒俊彦『「コーラン」を読む』

『コーラン』を読む (岩波現代文庫)

『コーラン』を読む (岩波現代文庫)

 山内昌之が『イスラームと国際政治』の中で、争いが絶えないのはイスラムの教えだからだという断定も、イスラムそのものは争いを肯定していないという反論も、どちらも誤りであって両者が含まれているのがイスラム教なのだと言う。本書はコーランの第1章「開扉」の7行(ムスリムはこれを毎日の礼拝で暗唱する)を丁寧に解説していく。単純に日本語訳してしまうと分からない、言葉や概念の背景や成立経緯を示しながら、コーランの思想体系が明かされる。その中で宗派対立や他宗教との対立の淵源も示される。

黒野耐『「戦争学」概論』

「戦争学」概論 (講談社現代新書)

「戦争学」概論 (講談社現代新書)

 イラク戦争はわずか1ヶ月弱で米軍の勝利で終結した。従来の「前線で互いの軍が衝突する」という戦争ではなく、いきなり精密誘導攻撃によって司令部や通信設備を攻撃するという、手足を壊すのではなく脳や神経系をいきなり破壊するやり方に変わったのがイラク戦争だったのだという。ナポレオン戦争以降、兵器の革新で戦略や戦術がどう変化していったのか、具体的な戦争を事例として地政学的な視点も含めて解説されていく。

伊勢崎賢治武装解除

武装解除  -紛争屋が見た世界 (講談社現代新書)

武装解除 -紛争屋が見た世界 (講談社現代新書)

 紛争地域が復興する際にはまずDDR(Disarmament, Demobilization, Reintegration:武装解除、動員解除、再統合)が行われる。国内に散在する暴力装置を一旦無力化した後、国軍・警察に再統合していくプロセスが必須となる。アフガン戦争はタリバン政権の打倒まではスムーズに行われたがその後の復興が上手く進まなかった。DDRの専門家として現場に派遣された著者が、その敗因がどこにあったのか具体的に解説している。

高木徹『国際メディア情報戦』

 ビン・ラディンアルカイダアメリカ双方が、どのようにメディアを駆使して世論を形成しようと腐心していたか、その内幕が解説される。いかに魅力的なストーリーを構築して、最適なタイミングと最適なメディアで流すのか、そういう戦いになっている。アルカイダは「アッサハブ」という名のPR戦略の部隊を抱えていて、各国メディアのどの記者にアプローチすべきか、どんなビデオ作品を作るべきか詳細に研究・実践していたという。
 関係ないけど本書は「ドキュメンタリーを構成する手法」のお手本みたいな本になっている。



 なお地図は↓の白地図を利用しました。
http://www.craftmap.box-i.net/